7話 リュシアン
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気付いた時には、リュシアンは父親と二人で暮らしていた。
母親はどうなったのか、全く記憶にはない。大方、父親に愛想をつかせて出ていったのだろうということは、子供のリュシアンでも容易に想像できた。
定職に就かず、浴びるように酒を呑むだけの父親。
酒を買うお金が無くなれば浮浪者の集まる通りまで行き、道行く人々に金の無心をする。
そうして得た金は、また酒に消えていくのだ。
リュシアンは食べ物を調達してくる係だった。
「お前は子供だから物乞いが成功しやすいだろうよ」
暴力が怖く、父親の言うがままに物乞いをして、細々と食い繋いでいた毎日。
だが、その生活も長くは続かなかった。
原因は、リュシアンの発育にあった。
碌な物を食べていないというのに、十歳の頃には、既に子供とは思えないほどの立派な体格になっていたのだ。
そんな体格のせいか、リュシアンの生活は徐々に暴力に侵食されていく。
物乞いをしようと路地を歩けば、他の浮浪者に何かしら因縁をつけられるようになっていた。
リュシアンは大柄な体とそれに似合わぬ素早さを駆使し、それらを全て打ち負かす。
いつしか物乞いは、倒した相手から戦利品を奪う略奪行為に変わっていった。
――くだらない。
拳に付着した相手の血を拭いもせず、リュシアンは倒れた男の懐から小銭を奪う。
周りには死んだ魚のような目をした人間ばかり。
太陽に照らされているというのに、カビのような臭いがいつまでも消えない通り。鉛色の薄汚い景観。
――何もかもがくだらない。
大人に暴力を振るっても、気持ちは晴れることはなかった。大きな体の中に、鬱々とした気持ちは溜まり続ける一方だ。
しかしここを出て行こうという考えは、彼の頭には塵一つほども浮かばなかった。
リュシアンは知らなかったのだ。陽の光香る、明るい世界があるということを。
そんなある日、父親があっさりと死んでしまった。
酔って喧嘩をふっかけた相手に殴り返され、転倒したらしい。頭の打ち所が悪かったのか、そのまま意識が戻ることなく、あっけなく逝ってしまった。
リュシアンが十一歳の時だった。
父親の死に、リュシアンは何の感慨も抱くことはなかった。それどころか、やっと解放されたという思いの方が強く湧き上がってきた。
父親の死を経て、初めてリュシアンの頭に『別の場所』という概念が生まれる。
閉じ込められていた檻から逃げ出すように、リュシアンはその日の内に住んでいた家を出た。
だが衝動のまま飛び出したものの、彼には行く当てがなかった。それに薄暗い通りの外の世界のことを、彼は何一つ知らない。
これからどの方角へ歩き、そして、何をすれば良いのか。
わからなかった。
わからなかったけれど、少しでもあの鉛色の場所から離れたくて、リュシアンは住宅街を歩き続けた。
すれ違う人々が、奇異の眼差しを隠すことなくリュシアンに向ける。
みすぼらしい格好、血のように赤い髪、立派な体躯。
何も知らない少年は、歩くだけで目立っていたのだ。
飲まず食わずで当てもなく彷徨い、一日経った頃。
リュシアンは壁に背を預け、空を眺めていた。
今までに感じたことのない疲労感が、リュシアンの全身に広がっていた。
足が棒のようだ。それに加え、胃は絶え間なく空腹を訴えてくる。
物乞いでもしようか――。
女性に声をかけられたのは、リュシアンがそう考えた時だった。
銀の髪が混じった、丸顔の女性。穏やかな笑顔を浮かべ、灰色の瞳でリュシアンを真っ直ぐと見据えている。
すれ違う人々から向けられてきたものとは全く違う眼差しに、リュシアンの心は跳ね上がる。
彼女は、エアキネシスの町で孤児院を経営している、シスターだった。
「食べたいのなら、うちに来なさい」
見た目の穏やかさとはあまり結びつかない、芯のある声。
信仰など全くしてこなかったが、リュシアンには、その声が慈愛の女神の導きのように思えてしまった。
気付いたらリュシアンの手は、シスターが差し伸べた手を掴んでいた。
こうしてシスターに保護されたリュシアンは、その日以降、孤児院で暮らすこととなる。
孤児院での生活は、荒んだ生活を送ってきたリュシアンにとって、何もかもが珍しく、そして温かった。
皆で揃って取る食事は、生まれて初めて『食べ物が美味しい』という感覚を与えてくれた。
就寝は固くて冷たい床ではなく、木製のベッド。柔らかく清潔なシーツのおかげで、睡眠も快適に取れた。
孤児院の裏にある畑では、様々な野菜も育てていた。リュシアンも積極的に畑仕事の手伝いをした。
畑仕事で汗を流す喜びを知る傍ら、リュシアンは近隣の住民から剣術を教えてもらい、稽古をするようになった。
彼の体格と素早さと体力。それを生かして、将来は傭兵団に入ったらどうかとシスターに言われたからだ。
リュシアンは、彼女の言葉に深く感動を覚えた。
父親と生活していた頃は、将来の――未来のことなど考えたこともなかったのだ。
他になりたい職業があるわけでもなかったので、リュシアンはその目標に向けて黙々と練習をこなしていく。
体格のせいで他の子供達から距離を取られていたリュシアンだったが、畑仕事と剣術の稽古を毎日真面目に取り組んでいる姿を見ていた子供達が、ポツリポツリと集まってくるようになる。
「ねえねえリュシアン。リュシアンはどうしてそんなに大きいの?」
今まで年下の子供と触れ合う機会がなかったリュシアンなので、最初のうちは子供達の直球な質問に戸惑っていた。
でも純粋な好奇心のみで接してくれることが嬉しくて、できる限り誠意を持って対応した。
そんな彼の態度がまた人を呼び、いつしかリュシアンの周りは子供達で溢れるようになっていく。
アニエラも、その子供の内の一人だった。
本名はバルバラ。父親に虐待された後置き去りにされた彼女は、孤児院に来てからもあまり異性に近付こうとはしなかった。
特にリュシアンは体格が良いので、余計に近寄り難い雰囲気を感じていたのだ。
しかし自身の内に渦巻くリュシアンへの好奇心が、いつしか異性に対する嫌悪感を打ち負かし、彼女もリュシアンと積極的に会話をするようになる。
「最初に見た時、どうして大人がここにいるんだと思ったわよ」
孤児院に来たばかりの頃は、口数が少なく、ぼそぼそと喋るだけの彼女だったが、リュシアンと話すようになってからは、薪を割る斧の如く、スッパリとした本来の喋り方を取り戻していた。
バルバラとリュシアンは同じ年齢だった。
体格だけを見るとリュシアンの方がはるか年上に見えるのだが、それでも孤児院の子供達は、歯に衣着せぬハッキリした物言いのバルバラの方が年上だと思っていた。
そんな年長者のリュシアンとバルバラを、子供達は実の兄や姉のように慕うようになっていく。
十六歳を過ぎた子供は、孤児院を出る風習となっていた。
多くの国では、十六になると大人と見なされる。
アクアラルーン国も例外ではなかった。
だが、孤児院に住む人間は皆訳ありだ。心の傷を癒すことを優先していたシスターは、孤児院を出る時期をハッキリと明言することはなかった。
しかしその年齢にもなると、子供の目線では気付かなかった、孤児院の厳しい経営状態が嫌でも見えてくるようになる。
だから金銭的な迷惑をかけないためにと、自然と子供達の方から出て行くのだ。
十六を過ぎた頃、リュシアンは傭兵団の試験に無事合格することができた。バルバラも仕立て屋の仕事に就くことが決まった。
孤児院を出る時が来たのだ。
期待と不安、希望と怖れ。
様々な感情を胸に宿し、二人はシスターと子供達に見送られ、孤児院を後にした。
「何かあったら、いつでも来な。あんたは抱え込むタイプだろうしさ」
バルバラとの別れ際、彼女は小さく笑いながらリュシアンに言うと、雑踏に紛れていった。
傭兵団に入って早々、リュシアンの属するチームに大きな任務が課せられた。
任務内容は、水麗地区のとある店の捜索。
人身売買で売られた年端も行かない娘達が、その店で働かせられている。
その少女達の救出と、店のオーナーの逮捕。
これがリュシアンに告げられた、初任務の内容だった。
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