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6話 アニエラ

 ミネットと女は、煉瓦通りのレストランの中で向かい合わせに座っていた。

 しかし二人の視線は、レストランに入ってから一度も交わってはいない。

 鉄製の、丸い看板が掲げられたレストラン。

 ミネットはいつも店の前を素通りしてばかりいたので、中に入るのは始めてだった。

 孤児院を出てから、まだ友達と呼べる人と知り合えていない。一人でレストランに入ることに、少し抵抗があったのだ。

 元々裕福な暮らしをしてきたおかげで、庶民的な店についてほとんど知識がないのも、ミネットを躊躇させる原因の一つだった。

 ミネットは大袈裟にならない程度に、首を回して店内を見回す。

 壁紙からテーブル、椅子に至るまで、色味の違うブラウン系の色で統一されていた。

 その茶色の空間を支配しているのは、様々な料理が混ざり合った、独特の匂い。

 今まで嗅いだことのない匂いの競演にミネットは少しだけ戸惑ったが、嫌な匂いだと感じることはなかった。

 二人が腰掛けている、チョコレートのように濃い木製の椅子は、平らで硬い。

 どことなく居心地が悪いのは椅子の硬さだけではなく、目の前の女が原因でもあるだろう。

 気付いたら女は、葉巻を咥えていた。店内に充満していた料理の良い匂いに、たちまち煙臭さが加わってしまう。

 ミネットは嫌悪感を露骨に顔に出した。


「あんたのせいで、こっちは商売あがったりなんだけど」


 ミネットの眉間に、さらに皺が数本刻まれる。

 女の言葉に全く心当たりがなかったからだ。

 そもそも、ミネットは朝から晩までパン屋で働き詰めだ。水麗地区に行って女の商売の邪魔になるようなことなど、する暇がない。

 ミネットのその心を読んだかのように、女は小さく溜め息を吐き、続けた。


「リュシアンよリュシアン。あんた一体、あの男に何を言ったのさ?」


 ミネットの心臓が跳ねた。

 リュシアンの名前が出てくるとは思ってもいなかったのだ。

 それでもまだ、話がさっぱり見えない。


「質問に答える前に、まずは名乗ってもらえる? どこの誰かも知らないような人に、話すようなことでもないわ」

「あぁ、そういえばまだ名乗っていなかったっけ? 私は……そうね。この格好の時はアニエラって名前。見てわかると思うけど、水麗地区で働いているの」


 アニエラ。

 その名前を認識した瞬間、ミネットの双眸が僅かに開いた。

 昨日の酔っぱらいが口にしていた名前だ。途端に胸がざわつき始める。


「自己紹介が終わったから、さっきの質問に答えてくれる?」


 アニエラはすぐさま話を元に戻した。どうやら彼女にとって、重要なことらしい。

 昨日、リュシアンに言ったこと。心という瓶の底に沈めた、黒い気持ち。

 できればもう口にしたくはなかったのだが、それではいつまで経ってもこの女から解放されないだろう。

 ミネットは勇気を出し、瓶をひっくり返す。


「二度と現れないでって。それだけよ」

「あちゃー。やっぱり」


 葉巻を口の端に咥えたまま、アニエラは額に手を当て、天を仰いだ。


「ここ最近、私の仕事部屋に来るだけで鬱陶しかったのにさ、昨日は今までにないくらい泣き言を洩らしてくれちゃって。もうね、本当に邪魔なの。ウンザリなの」

「……リュシアンとあなたは、知り合い?」

「あいつとは、同じ孤児院で育ってきた仲だ。それ以上でも以下でもない」

「えっ!?」


 アニエラの口から出てきた情報に、ミネットは思わず声を上げていた。

 リュシアンと同じ孤児院ということは、ミネットと同じ孤児院でもあるということだ。

 しかし、ミネットがアニエラと会ったのは、今が初めてだ。

 孤児院で共に暮らしてきた仲間の中に、アニエラの姿はなかった。


「本当に? リュシアンと同じ孤児院?」

「ええ、そうよ」


 訝しげに問うミネットに、涼しく言い放つアニエラ。

 ミネットは彼女が嘘を言っているように思えなかった。

 言葉の節から、リュシアンに対する情が伝わってきたからだ。一朝一夕の関係ではないことは直感で理解した。

 ミネットは改めてアニエラの顔を見る。

 化粧のせいで誰かわからない、という線も疑ってみた。その下にある素顔をできうる限り想像してみたが、やはり孤児院では見たことがない顔だ。

 リュシアンと同じ孤児院で育ってきた――。

 彼女の言葉は、ミネットの脳に浸透しない。ぐるぐる渦巻いて混乱するばかりだ。

 そんなミネットの困惑した顔を見たアニエラは、苦い表情を作った。


「ああ、しまった。知らないんだっけ。まあ、これくらい私の迷惑と比べたら、微微たるもんよね」


 最後の方は、自分に言い聞かすような言い方だ。

 ミネットはリュシアンのことを知らない。でも、アニエラは知っている――。

 口調から容易に推測できるその事実がミネットの胸を小さく抉る。


「いいわ、教えてあげる。だからさっさとリュシアンを引き取ってね」


 アニエラは悪戯っぽく口角を上げると、持っていた葉巻を灰皿に押しつぶした。







 語り終えたアニエラは、椅子の背もたれに体重を預けた。

 少し前、新たに取り出していた葉巻が(くゆ)る。

 その煙に顔をしかめることなく、ミネットは両の目を見開いたまま、アニエラを呆然と眺めていた。


「今の話は、本当なの?」

「当たり前でしょ」


 消え入るような声で紡がれたミネットの問いに、はっきりと答えるアニエラ。彼女の返答は至極単純だ。


「まぁ、あんたは変な勘違いしていたようだし、驚くのも無理はないと思うけれど。私があんたにこんな嘘を付く理由がない。そう思わない?」

「……はい」

「あ、そうそう。私が水麗地区で働いていることは誰にも言わないでね。シスターの耳に入ろうものなら、絶対に怒られちゃうだろうし」


 シスターとは、ミネット達が世話になった孤児院の経営者だ。

 愛嬌のある丸い顔と、よく通る声。そして全てを包み込むような愛を持って接してくれた、絶対に忘れることなどできない人物だ。

 年齢は五十は超えているだろうが、正確な年を訊いたことはない。孤児院の子供達は、皆彼女に絶大な信頼を置いて育ってきた。

 シスターの名前が出てきたことで、今しがたアニエラから聞いた話が嘘ではないとミネットは確信した。

 同時にアニエラに抱いていた嫌悪感と猜疑(さいぎ)心が、嘘のように氷解していく。

 親しみさえ感じ始めてきたミネットの口から、自然と声が滑り落ちてきた。


「シスターでなくとも怒ると思うわよ。そんな……水麗地区で働くだなんて」

「昼間はきちんと仕立て屋でまっとうに働いているんだから、いいじゃない」

「でも――」

「少しでも、恩返しがしたいんだ」


 アニエラの声と目付きがそこで張り詰めたものに変わるのを感じ、ミネットは出しかけた言葉を呑み込んだ。


「孤児院の経営状態が厳しいのは、あんたも感付いていたはずだ。だからこっちで得た収入を孤児院に寄付して、自分の生活費は仕立て屋で稼ぐようにしている。それだけだ」


『それだけ』で終わらせられるような内容ではない。ミネットのその考えは顔に出ていたらしく、アニエラは小さく苦笑しながら続ける。


「あんたの言いたいことは何となくわかるよ。自分を売ったそんな金を寄付してもシスターは喜ばない、とでも思ってんだろう? 私だってそう思うよ。だから多すぎない金額を毎月送るだけにしている。残りは貯金さ。この仕事には『旬』があるからね。いつ辞めさせられるかわからない」


 そこで再度葉巻を咥えると、アニエラは天井を仰いだ。

 彼女なりに考えての行動だとはわかったが、それでもミネットの胸中は複雑だった。

 同じ孤児院の出の者が水麗地区で働いているというのは、やはり嬉しいものではない。


「ま、今は私のことはどうでもいいんだよ。何か訊いておきたいことある? ついでだし、この際私のわかる範囲で教えてやるよ」


 ミネットはテーブルに視線を落とし、しばらく逡巡(しゅんじゅん)する。

 リュシアンのことは、今彼女が話してくれた内容でほとんど理解できた。

 人づてに彼のことを詳しく知る羽目になるとは思ってもいなかったが、ミネットの中のリュシアン像は、この数時間で大きく変わってしまった。

 明日以降、改めて彼と直接話をするべきだろうと強く感じる。


「あの花は、あなたの助言?」

「スターチス、気に入らなかったかい?」


 ミネットの思いつきの質問に、アニエラは僅かに口の端を上げて答える。それだけで、ミネットには十分な答えだった。

 やはり、そうだったのか。

 花とは全く無縁そうなリュシアン。

 彼がマメに届けに来る様子に、ミネットは若干違和感を覚えていたのだ。

 花屋のおかみか、もしくは他の女性の助言があったのだろうなということは、なんとなくだが予想はしていた。


「まぁ、私の方も馬鹿の一つ覚えみたいに一ヶ月以上も続けるとは思ってなかったんだけどさ。他には何かある?」


 アニエラに促されたミネットはしばらく考えた後、静かに口を開いた。


「どうしてあなたのお店にリュシアンが行くと、商売上がったりなわけ?」


 アニエラが最初にミネットに言い放った言葉が頭に残ったままだったので、素直に訊いてみる。

 ミネットの質問を受けたアニエラは、葉巻を持ったまま、きょとんとしている。そして突然けたけたと声を上げて笑い始めた。

 急に笑い始めたアニエラに、今度はミネットが目を丸くする。


「笑うような質問だった?」

「いや、ごめんごめん。そのことについて訊かれるとは思ってもいなかったもんでさ」


 笑いを引き摺りながら謝罪したアニエラは、椅子に座り直し、息を整える。


「私さ、これでも結構人気あんのよ。正規料金以外に()を付けてくれる客も結構いてね。それが大きな稼ぎになるんだ。それなのにあの男、こっちの営業時間中に真正面から乗り込んでくる。でも律儀に金を払ってくれるもんだから、下手に追い返すことができないときたもんだ」


 酔っ払いの男が言っていたことを思い出す。

 アニエラは最近、リュシアンの相手ばかりしていると。

 彼女の言うことと照らし合わせれば、なるほど。

 確かに他の客には、リュシアンの相手ばかりしているようにしか見えないだろう。


「あぁ。当然だけどあの男とは何もないから。料金だけ貰って恋愛相談してるって感じ? こっちとしてはそれはそれでラクだからいいけどさ。それにしてもさぁ、確かに何かあったらいつでも来いって言ったよ? でも堂々と店に来る奴があるかっての」


 ため息混じりに言うアニエラに、ミネットはこの日初めて笑みを浮かべた。

 と言っても、苦笑いであるが。何とも真っ直ぐなリュシアンらしい行動だ。


「まぁそういうことだから。早くあいつを引き取ってちょうだい」

「私はリュシアンの保護者じゃないわ」

「似たようなもんでしょ」


 むっとするミネットだったが、アニエラの前では言い返す気力が湧いてこない。

 大人の男を相手にしているだけあって、彼女はしたたかだ。何を言っても返り討ちにされそうな予感しかしない。

 二の句が継げず沈黙するミネット。

 そんな彼女を一瞥した後、アニエラは金の髪を弄りながら小さく微笑んだ。


「私の話はこれで終わり。会計は払っておくから。じゃあね」


 アニエラは一方的に言い放ってから席を立ち、足早に店を出て行ってしまった。

 席を立ってから会計までの流れがあまりにも早すぎて、ミネットは別れの言葉を言うことも、追いかけることもままならなかった。

 見回すと、店内に残っている人間はかなり数を減らしていた。

 アニエラの話を聞いている内に、随分な時間が経過してしまったらしい。ミネットも慌てて帰り支度をするのだった。


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