5話 水麗地区
※ ※ ※
それはまるで、断末魔のようだった――。
つい先ほどまでミネットの隣にいた少女は、翡翠色の長い髪と、コバルトブルーの瞳が印象的だった。
儚く可憐な雰囲気は、まさに美少女と呼ぶに相応しいと、ミネットは一目見た時から思っていた。
その少女が隣の部屋で、世界の終わりを叫ぶかのような、凄惨な悲鳴を上げ続けていた。
ミネットはカタカタと全身を震わせ、耳を塞ぐ。
怖い。怖い。怖い。怖い。
ミネットと同じ部屋にいた他の少女達も、隣の部屋から聞こえてくる尋常ではない声に、ただ震えていた。
しかし何人かは全く聞こえていないかのように、あるいは然して興味なさそうに、ただ漫然と虚空を眺めている。
それはまるで、生気のない人形のようであった。
ミネットが両親に売られてから、三日目の夜が経過しようとしていた。
ミネットが連れてこられたのは、隣国アクアラルーンの国境の町、エアキネシス。
その町の、水麗地区と呼ばれる一角だ。
様々な夜の店がひしめき合っているその地区。
昼は人通りもほとんどなく閑散とした雰囲気なのだが、夜になると途端に喧騒で包まれる。
ミネットは深く俯きながら、ミネットを攫った熊のような男の後ろに、ただ黙って付いて行っていた。
店を物色している、通りすがりの大人の男達、そして店の前で客引きをしている、やせた男達。
それらの好奇の視線が、全てミネットに注がれているような気がしたのだ。
やがて熊のような男は、とある店の前で歩みを止めた。
ミネットがきちんと付いて来ていることを確認すると、羽を広げる不死鳥が彫られた、重厚な扉を押し開ける。
金の虎の彫像が置かれ、赤い花々で煌びやかに飾られた入口。
そこから奥まで伸びる赤い絨毯は、立つ者の足を優しく包むような柔らかさがある。
見上げると、大きなシャンデリアが眩しい光を放っていた。
暗く怖い場所に連れて行かれるとばかり思っていたミネットは、想像と違う場所に少し安堵した。
しかしその安堵は、ミネットが案内された部屋を見た瞬間、呆気なく散る。
入口の華やかさを微塵も感じることができない、薄暗い部屋。
はめ込み式の小さな窓が一つだけ取り付けられているが、光源はこの窓の採光のみ。ランプの類は、一つも置かれていない。
床も何も敷かれておらず、剥き出しの木目は色褪せていた。
その床の上には、十から十四程度の年齢の少女達が、膝を抱えて蹲っていた。
まるで、奴隷だ。
自分がこの中の一員となることに、ミネットはただ絶望した。
部屋のはめ込み式の窓は、そこまで高い位置にあるわけでもなかった。
少女達が割ろうと思えば、いつでも手が届く高さにある。しかし、誰もそんなことをしようとはしなかった。
窓の外は陸地ではなく、湖が広がっていたからだ。
『水の女神』を祀っているアクアラルーン国は、国土のおよそ四割が湖というほど、各地に湖が点在している。
水麗地区は、その湖の一つをぐるりと沿うような形で繁栄していたのだ。
そしてほとんどの湖には、魔獣が存在している。
泳いで脱出を試みようとしても、湖に生息する魔獣の餌食となってしまうことだろう。
それがわかっていたからこそ、少女達はこの部屋から動くことができなかったのだ。
アクアラルーン国の湖は純度が高く、その美しさを売りにしている。だが少女達の目に映るほの白く輝く湖面は、彼女達には死水にしか見えなかった。
陸の孤島。牢獄のような部屋。
ここで少女達は心を失くし、大人達の情欲と金の歯車の一つとなり、果てていく。
ミネットはそれなりに顔立ちも整っている方だったが、この部屋にいる他の見目秀麗な少女達と比べると、取り立てて目立つような容姿ではない。
そのためか、この部屋に入れられてから、ミネットにまだ『指名』はなかった。
『指名』を受けた者が何をされるのかは、さすがにミネットも感付いていた。
いつ、自分の名が呼ばれるのか。
耳を塞ぎ続けながら、ミネットは永遠に自分の名前が呼ばれないことを祈るばかり。
誰でもいい。ここから、助けて。
瞼を強く閉じたミネットは、そこでふと気が付いた。
隣の部屋から聞こえていた悲鳴が、いつの間にか消えていたのだ。
終わったのか。
ミネットや少女達が思った、まさにその時だった。
部屋の外から、無数の男達の怒号が響いたのだ。
ミネットをはじめ、少女達は突然聞こえてきた大きな声に、皆ビクリと肩を震わせる。
男達の怒号は、次から次へと重なっていく。
まるで、目の前に雷が落ちているかのようだった。
部屋の扉が、そこで乱暴に開かれた。
恐怖で少女達がさらに身を竦めた次の瞬間、白い煙が一瞬の内に部屋中に蔓延し、ミネットや少女達から、視界と意識を奪い去っていった。
心地良い、揺れと温もり。
ミネットが目を覚ますと、誰かの背の上にいた。
意識はまだ、朦朧としている。首を動かす気力がない。
ミネットは瞼を閉じ、この心地良い揺れに身を任せることにした。
頬に当たる硬くて大きな背中の感触に、ミネットは覚えがあった。
これはおそらく、父親だ。
あぁ、迎えにきてくれたのか。煉獄へと落ちる目前で、父親は救いに来てくれたのだ。やはり、『あの言葉』は嘘ではなかったのだ。
ミネットの心はいっぱいになった。
あの時二人に返せなかった言葉が、喉の奥からせり上がってくる。
お父さん、お母さん。私も――。
「愛してるよ……」
囁いた後、ミネットの意識は、再度深淵へと沈んでいった。
※ ※ ※
顔を洗ったばかりだというのに、鏡に映るミネットの顔は酷いものだった。
これでは、一晩中泣いていたことが見知らぬ人にもばれてしまう。
ミネットは嘆息しながら、あまり使ったことのない化粧用品が入った箱を取り出した。
ぎこちない手付きで、目の周りを重点的に塗り固めていく。
もし、今日もリュシアンが店に来たとしたら――。
花はもう、受け取らないようにしよう。
飾られていく鏡の中の自分を見ながら、ミネットは決意した。
ミネットの決意は、結局空振りで終わった。その日、リュシアンは店に現れなかったのだ。
二度と現れないで、とミネットが言ったのだから、当然のことだろうとは思う。
しかし、言うことを素直に聞くリュシアンの態度に、ミネットの心に少なからず疑問が生じた。
今まではしつこく自分の前に姿を現し続けてきたというのに。
いや、もう、彼のことを考えるのはやめよう。
リュシアンは水麗地区に行った。そして、自分はそのことを許すことができない。
それだけで、充分だ。
黙々と仕事に打ち込むミネットの顔に、化粧が乗っていること。そして、毎日店に来ていたリュシアンの姿がないこと。
店の常連達はその変化に、今まで見守っていた若者達の恋が終わったことを知り、肩を落とした。
日が暮れたばかりの、エアキネシスの町。
ミネットはオレンジと藍の混ざる空を一瞬だけ見上げると、家路へと急ぐ。
しかし、すぐさま足を止める羽目になってしまった。
ミネットの前に、一人の女が立ち塞がったからだ。
彼女の全身を見て、ミネットの心は少なからずざわついた。
幾重にも巻かれた、長いブロンドの髪の毛先。
細身の真っ赤なドレスは、足首が隠れるほどに長い。
しかし腿の中央まで入ったスリットが、清純さとは真逆な雰囲気を演出している。
首に巻かれた白い毛皮のファーは、ファッションに疎い人間でも高級品だとわかるような、上品な艶を放っていた。
一目見て、水麗区の人間だとわかるような格好だった。
「あんたが、ミネット?」
酒に焼けたような、ハスキーな女の声。
ミネットは自分の名を呼ばれたことに驚き、怪訝な顔で女を見返す。
しかし女はミネットのその視線など意に介せず、さらに彼女へ問い掛ける。
「何か答えなよ。あんたはミネットなの?」
「そうです」
「ふーん。ちょっと、いい?」
女は、不機嫌な感情を少しだけ声に乗せて、ミネットに訊く。
言葉は疑問系だったが、その女の顔には否定を許さない雰囲気が滲み出ていた。
女の横を強引に走り抜けて行くという考えが一瞬浮かんだが、水麗地区の人間のことだ。後で何をされるのかわかったものではない。
ミネットは女を睨むように見据えながら、静かに首を縦に振った。
「……はい」
「じゃあ、移動するよ。こんな道端で立ち話とか、慣れていないの」
ミネットは早足で歩き出した女の後に、黙って付いて行くしかなかった。