4話 亀裂
リュシアンがお金と共にスターチスの花を置き、パン屋を出ていくようになってから、一ヶ月。
すっかりお馴染みとなったこの光景は、パン屋の常連客達にも知れ渡ることとなっていた。
しかし、誰も二人を茶化すような言葉は発さない。
若い二人の関係がどう変化するのか、ただ黙して見守っていた。
そんな興味津々な視線が自分達に注がれていることに、恋愛関係に疎いミネットもさすがに気付いていた。
このままでは、外堀から埋められてしまいそう。
ミネットの心に、徐々に焦りが生まれつつあった。
でも、花を貰えること自体は嫌いではない。
むしろ、嬉しい。
幼い頃から、母親が熱心に庭の手入れをするところを見てきたので、花そのものは好きだった。
母親のことは思い出すと苦しくなるが、あの美しい花達には何の罪もない。
自分はリュシアンの行動に対し、どのような対処をすれば良いのだろうか。
恋愛経験値が全くないミネットにとって、それは非常に難題であった。
最近、自室に飾ったスターチスを見る度に、リュシアンの顔を思い出すまでになってしまった。
もしかして自分は、リュシアンに惹かれ始めてしまっているのか。
いやいや、きっとこれこそがリュシアンの作戦に違いない。だからこれは、恋ではない。
ここ連日、ミネットの頭の中ではそのような考えの繰り返しだった。
(頭が、おかしくなりそう)
もやもやとしたものを抱えながら会計をしていると、突然、客の男が口を開いた。
「今出ていった赤毛、もしかしてリュシアンじゃねえか?」
三十代らしきその男は、ドアの向こうを見やりながら言った。
声が大きい。店内にいた他の客達が、一斉に男へと視線を向けた。
赤ら顔の男の口からは、酒の匂いが漂ってくる。
ミネットはその匂いに僅かに眉根を寄せつつ、男へと問いかける。
「知っているの?」
「おお、聞いてくれよ。水麗地区にお気に入りの娘がいるんだけどよ、ここんところリュシアンの相手ばかりしているみたいでさあ。オレが接する機会がてんでねぇの」
「えっ……」
男の言葉に、ミネットは目を見開き絶句する。
がつんと頭を殴られた気がした。
ミネットは会計の手を止め、酔っ払いの男を呆然と眺める。
水麗地区。
この場所から南にある湖を囲むように『夜の店』が軒を連ねている地区のことだ。
ミネットにとってその水麗地区は、嫌悪の対象でしかない。そんな水麗地区に、リュシアンが通っているというのか。
ミネットの顔色が悪くなったことに全く気付いていない男は、さらに続けた。
「ここんところ毎日だぜ。どんだけアニエラちゃんに熱を上げてんだって話だよ。あ、オレのお気に入りの娘、アニエラちゃんっていうのな。アニエラちゃんのテクニックが凄いから、すっかり溺れちまってんのかねえ」
昼間から大きな声で下品な話をするなと、隣にいた連れの男が、酔っ払いの頭をはたく。酔っ払いの男は、ミネットに手を振りながら笑顔で店を後にした。
心臓の速度が上がり、その脈打つ音がミネットの頭の中に響き始める。
これは嫌な鳴り方だ。考えるな。考えるな。
音を誤魔化すかのように、ミネットはその後がむしゃらに仕事に打ち込んだ。
何とか、今日の勤務を終えた。
ミネットはいつも以上に疲れを感じていた。
全身が重い。鉛を背負っているかのようだ。
早く帰ろう。帰りたい――。
名を呼ばれたのは、少し重ためのパン屋のドアを開けた、その直後だった。
「ミネット」
それは、久しく聞いていなかった声だった。
毎日会っているというのにリュシアンの声を聞いたのは、彼がスターチスの花を最初に金銭受けに置いた、あの時以来だ。
「話が、ある」
低音が彼女の鼓膜を震わせる。
短い言葉だったが、それに込められた真剣さは、ミネットに十分伝わった。
だからこそ、胸を掻き毟りたくなるような苦しさに襲われた。
既に日は落ち、辺りは暗い。しかしリュシアンの燃えるような赤い髪と目は、否応なしにミネットの目に飛び込んでくる。
ミネットはその赤から、意図的に目を逸らした。
仕事中、必死で忘れようとしていた酔っ払いの言葉が、ミネットの頭の中に甦る。
ミネットはリュシアンと目を合わさぬまま、声を絞り出した。
「……来ないで」
「ミネット?」
「もう、店に来ないで。お願いだから、二度と私の前に姿を現さないで!」
リュシアンに背を向け、ミネットは煉瓦通りを駆け出した。リュシアンは、追ってこなかった。
白く丸い月が、ミネットの背後から静かに光を落とす。
今日は満月で、それを隠す雲もない。
いつもより明るいはずなのに、ミネットは自室のドアの鍵穴に、鍵を上手く入れることができないでいた。
五回ほど繰り返したところで、ようやく鍵がはまり、解錠の音を鳴らす。鍵を開けるだけでこんなに安心したのは、初めてかもしれない。目の奥がじわりと熱くなる。
飛び込むようにして部屋に入ったミネットは、明かりも付けず、そのままベッドの上に崩れるようにして倒れ込んだ。
リュシアンも男だ。
わかっている。そんなこと、頭ではわかっている。でも、どうしても心が納得しない。
心の奥底から沸き上がってくるのは、今まで感じたことのない、熱くて、それでいてちくちくと痛い感情。
その心を冷却させるために、ミネットはひんやりとした白のシーツを、両の手で強く握り締める。
リュシアンに対して、好きという感情を抱いているわけではないはずだ。
彼がどこで何をしようが、自分には関係ないはずだ。
なのにどうして、こんなにも苦しくなるのだろうか。
ミネットは枕に顔を埋め、ただ泣き続けた。
音のない部屋に、彼女のすすり泣く声だけが細く響く。
白い月だけが、窓の外からその様子を見ていた。
「参ったな……」
走り去るミネットの背中が見えなくなったところで、リュシアンは一人ごちた。
まさか、このタイミングで逃げられてしまうとは。
ここ数日のミネットの態度に、リュシアンは手応えを感じていた。
確実に、変化は起きていたはずだ。
ミネットは一見、刺があって素直でないように見えるが、それは彼女が不器用なだけだ。
あの激昂した次の日、ミネットは明らかに萎れていた。おそらく、自分の歯に衣着せぬ言い方に、罪悪感を抱いてしまったのだろう。
最初はリュシアンも、花を一度渡して、後は冷却期間を置くつもりだった。
しかし、ミネットの落ち込みがわかってしまったからこそ、花を渡し続けることを決心したのだ。
花を持参するようになってから、彼女の瞳に落ちていた影が、徐々に薄らいでいくのがわかった。
そして、今日のあのお礼。
一ヶ月前はつい我慢できなくて先走ってしまったが、やっと元の地点に戻ることができたと、パン屋を出た後は有頂天になっていた。
いや、元に戻るどころか、むしろ進んだ気さえしていた。
それなのに、この急変は何だ。
自分の認識の外で、何かあったとした考えられない。
しかし、あそこまで自分を拒絶させる何かとは一体――。
顎に手をやりながら、リュシアンは煉瓦通りをとぼとぼと歩きだす。
彼女が、自分の中にはなかった、新しい心を与えてくれた。
この数年、彼女のためだけにずっと動いてきた。今さら諦めるなど、そんなことできるはずがない。
「でも、さっきのはちょっと堪えたな……」
本当はすぐにでも追いかけたかったのに、まったく体が動かなかった。
ミネットのあの反応は、予想すらしていないものだった。だから、想像以上に動揺してしまったのだ。
大柄な傭兵の男は背を丸める。そして足元の色褪せた煉瓦に向かって、どうしたものかと、深い息を吐き出した。