3話 スターチス
※ ※ ※
大小様々な色の花が咲き乱れる、美しい庭園。
その背後に建つのは、まるで角砂糖を彷彿とさせるほど白い、優雅で大きな屋敷だった。
屋敷の中は今、慈愛の女神の祝福さながらに、温かく柔らかい空気に包まれていた。
「ミネット、愛してる」
「愛してるよ」
強く肩を抱き寄せられながら、ミネットは幸せの中にいた。
今日は、ミネットの誕生日だ。
十四にもなってこのように両親と抱き合うのは少し照れくさかったが、自然と口元が綻び、心が満たされていく。
厳しくも優しい、父親。
全てを包み込んでくれる、穏やかな母親。
両親に抱き締められながら、ミネットは家族の匂いに包まれ、幸福だった。
そんな幸せな抱擁を終え二人の身体から離れた時、ミネットは異変に気付く。
ミネットのことを、真っ直ぐと見据える二人の目。その目元に、涙が溜まっていたのだ。
「お父さん、お母さんも……どうしたの? どこか痛いの?」
いつもニコニコしていた母親が涙なんて。そして厳格な父親までが涙を見せるなんて。
今まで大人が泣く姿を見たことなどなかったミネットは、激しく動揺した。
二人の悲痛な表情から察するに、これはミネットの成長を喜んでいる涙ではなさそうだ。
病気でどこか痛むのだろうか。それとも、ミネットの知らない、とても悲しい出来事でもあったのだろうか。
何とかして元気付けたい。泣くのはやめて、いつものように笑ってほしい。
誕生日プレゼントなどいらない。ただ、二人が笑ってくれさえしたら――。
ミネットは両親を慰めようと、自然と二人の頭に手を伸ばしていた。
しかし二人を案じる細く白い手は、父親によって無情にも振り払われてしまった。
「お父さん……?」
父親は唇を噛み、ミネットから目を逸らす。
わからない。
なぜ、振り払われてしまったのか。
父親は厳格だが、それはミネットを想ってのことだということは、幼い頃から感じていた。このように無碍にするような態度を見せたことは、一度たりともなかった。
疑問と戸惑いで混乱しそうになる。
縋るような視線を母親に向ける。しかし、母親もミネットと目を合わそうとはしない。
一体、二人はどうしてしまったのだろうか。知らぬ内に、自分は悪いことをしてしまったのだろうか。どうしよう……。
溢れ出してしまいそうな涙を必死で堪える。
感動した時以外は人前で泣くなと、幼い頃から父親に言われてきた言葉を思い出しながら、ミネットは唇を噛む。
絶対に原因はあるはずだ。しかし、その原因がわからない。
父親の書斎にこっそり入り、本を読んだことがばれてしまったのか? それとも母親が大切にしている庭の花を一輪摘み取り、部屋に持ち帰ってしまったことだろうか?
頭を懸命に回転させても、思い浮かぶのはささやか過ぎる悪戯のみ。二人をこんな表情にさせてしまう原因だとは思えなかった。
必死で考えを巡らせていた、その時だった。
ミネットの体が、突然背後から何者かに抱きかかえられたのだ。
「え?」
首を後ろに捻る。
見たことのない大柄な男がいた。まるで熊だ。
銀の髪はボサボサで、鼻は大きく丸い。青の目は僅かに白が混ざり、濁っている。
ミネットの全身に、瞬時に粟が立った。
そんな熊のような男に抱えられたまま、ミネットは外へと連れていかれてしまった。
思いやりのかけらもない抱え方に、ミネットの腕に、腹に、痛みが走る。
何が起こっているのか、ミネットにはさっぱり理解できない。だが、彼女の本能が叫んでいた。
――この男から逃げろ。危険だ。
しかし恐怖に全身を支配されていたミネットは、体を震わせることしかできなかった。
「た、助けて! お父さん! お母さん!」
唯一動かすことができたのは、口だけだった。
喉が擦り切れんばかりに、ミネットは両親に向けて叫ぶ。だが、両親がミネットを追ってくる気配はない。
男は屋敷の扉を、足で乱暴に蹴り開ける。
大きな音にミネットは首を竦めた。男はミネットの重さなど感じていないかのように、大股で素早く歩き続ける。
母親が毎日手入れしていた美しい庭園に差し掛かった時、男が蹴り開けた扉が閉められる音を、ミネットは聞いてしまった。
閉めた。
扉を、閉められてしまった。
誰が扉を閉めた?
両親しか考えられない。
二人は追いかけてきてくれない。それどころか、ミネットを見捨てようとしている?
ミネットの頭の中は真っ白になった。
「どうして!? お父さん!? お母さん!? 助けて! 助けてよ! 嫌だよ!」
ミネットの両の目からとめどなく溢れだす水。
絶望に染められた白い心が、彼女の全身を震わせていた。
なぜ、助けにきてくれないのか。一体自分は、これからどうなってしまうのか。
男はミネットの涙にも全く動揺することなく、外に停めてあった馬車まで悠々と移動する。そして荷台を開けると、乱暴にミネットを押し込めた。
※ ※ ※
ミネットは上体を勢い良く起き上がらせた。
全力疾走した直後のように、動悸が激しくなっていた。
両の手で白のシーツを握り締める。
嫌な夢を見てしまった。いや、夢ではない。全て実際に起きたことだ。
昔のことを夢で見たのは初めてではなかったが、何度見てもこれだけは慣れない。
ミネットは額から滲む嫌な汗を手の甲で拭うと、寝台から足を下ろした。
足裏から伝わってくる床の固い感触が、徐々に落ち着きを運んできてくれる。
ミネットは一度大きく息を吐くと、幾何学模様が描かれた天井を眺めた。
忘れたくても、頭に、そして心にしっかりと刻み込まれてしまった記憶。
抜けない刺を脳に差し込まれたかのように、じわじわとミネットの心を蝕んでいく。
先週の帰り道に見た光景を、ふと思い出す。
教会の前に列をなし、炊き出しを求めていた人々。
(慈愛の女神なんて、信用できない)
心の中で呟き、奥歯を強く噛む。
忘れもしない、十四の誕生日。
それなりに裕福な生活を送ってきていたが、それはいつから瞞しだったのだろう?
事業に失敗した父親は、莫大な借金を背負っていた。
そして、ミネットは売られた。
愛してるよ、と両親に囁きかけられながら、売られた。
だからミネットは『その言葉』が嫌いになったのだ。そして、慈愛の女神も。
慈愛の女神の祝福が本当にあるのなら、ミネットがこの国に来ることはなかっただろうと強く思う。
元々フラムナワ国に住んでいたミネットにとって、この国の慈愛の女神は信用に値しない存在だった。
自然と強く握られていた彼女の拳は、ある物を見た瞬間緩むこととなる。
ミネットの視線の先にあるのは、二人用のテーブル。
その上には、スターチスの花が差された小さな花瓶が置いてあった。
あれから毎日リュシアンは昼時にやってきては、会計の時に花を置いていっていた。それを毎度持ち帰っては、ミネットはこうして花瓶に生けていたのだ。
昨日で、七本目。
さすがに初日に貰った花は既に元気を失い、処分することとなってしまったが。
しかし、なぜ毎回この花なのだろう。ミネットはそれが気になっていた。
もしかしたら、何か意味があるのだろうか。これは、リュシアンからのメッセージなのだろうか。
リュシアンはいつも店内が忙しい時間にやって来るので、ミネットはいまだに彼と話をすることができないでいた。
このまま謝罪をせずとも良いのだろうか。時がこのモヤモヤした気持ちを、いつか消し去ってくれるのだろうか。
ミネットは迷っていた。
煉瓦通りは、エアキネシスの町のメイン通りだ。
通りの両脇には、様々な店が構えている。昼には大勢の人間で賑わう煉瓦通りも、早朝の今は静けさで溢れていた。
黙々と職場に向かって歩き続けていたミネットだったが、ふとある一角に目を奪われた。
いつもはこの時間には開いていない花屋が、開店準備をしていたのだ。
ひっつめ髪の恰幅の良い中年女性が、手際良く店先に鉢植えを置いていた。
ミネットは仕事帰りの時に、その中年女性を何度か見かけたことがあった。彼女は、この花屋のおかみだ。
「おはようございます。今日は早いのですね」
「あぁ、おはよう。葬式の手配が急に入っちまったもんでね。何か入り用かい?」
「あ、あの、そういうことではなくて。すみません」
「いいよいいよ。お嬢さんも今から仕事かい?」
「はい。あの、一つだけお聞きしたいことがあるのですが」
「なんだい? 花のこと?」
ミネットはそこで一度頷き、少し遠慮がちに続けた。
何となく、花の名前を出すのが照れ臭くなったのだ。
「その、スターチスのこと、なんですが……」
ミネットの言葉を聞いた瞬間、花屋のおかみは、そこでニイっと口の端を上げた。
「彼氏と喧嘩でもしたのかい?」
「かっ!? 彼氏とかではなくって――」
「まあまあ照れちゃって。そうだね。喧嘩をしたのなら、スターチスの花が一役買うかもしれないねぇ」
含みを持たせたおかみの笑顔に、ミネットは僅かにそわそわする。あれは、そんなに意味のある花だったのだろうか。
「スターチスの花言葉は『変わらぬ心』なんだよ」
おかみの口から出てきた言葉に、ミネットは茶色の瞳を見開いた。
変わらぬ心。
つまり、リュシアンは手段を変えて、ミネットにアプローチをしていたということなのか。
激昂して突っぱねたのに。彼の告白に、酷い言葉で返してしまったのに。
その程度では、あの青年の心は変わらぬという意味が、あの花には込められていたのだろうか。
「馬鹿……」
ミネットはおかみに聞こえないよう口の中で呟くと、唇を噛んだ。
今日もいつものように、昼にリュシアンがやって来た。そしてお金と共に、紫の小さな花が無数咲いたそれを置く。
『変わらぬ心』
花屋のおかみの言葉が、ミネットの頭の中で何度も繰り返される。
お釣りを彼に渡しながら、ミネットは小さく呟いた。
「ありがとう」
リュシアンはミネットから反応があったことに驚いたのか、赤の目が僅かに大きくなる。
(勘違いしないで。あなたと付き合っても良いと思ったわけじゃないから。これはあくまで、綺麗な花に対するお礼なんだから)
そんな心情まで説明する間がなかったので、ミネットはそれらを全て鋭い眼光に乗せた。
リュシアンは何も言わず、まるでミネットのその心情を理解したかのように、苦笑しながらパン屋を出て行った。
勘違いされるのも嫌だが、リュシアンがミネットの心を見透かしているようで、それはそれで何だか気に食わなかった。