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2話 慈愛の女神

 ミネットが激昂した次の日の朝、アパートの前にリュシアンの姿はなかった。

 四日ぶりに訪れた静かな朝。しかし、ミネットの表情は晴れないままだった。


(あんな言い方……さすがに……)


 ミネットの心に、徐々に罪悪感が湧き上がってくる。

 昨日は帰ってからも興奮状態にあったが、一晩経ち冷静に思い返してみると、ミネットは何だか一方的に自分が悪い気がしてきたのだ。

 同じ孤児院で過ごしてはきたが、ミネットの過去を、リュシアンは知らない。

 リュシアンだけではない。

 孤児院の子供達は、皆なにかしら事情がある者ばかりだ。だからお互いに過去を詮索するようなことはしていなかったし、できなかった。

 傷口を自ら好んで広げるほど、孤児院の子供達は強くはなかったのだ。

 まれに自分から訥々(とつとつ)と語りだす子供もいたが、それは例外に近い。

 理由は不明だが、リュシアンは特別美人でもない自分を好いてくれている。

 そんな彼に、酷い言葉を浴びせてしまった。断るにしても、もう少し違う言葉があっただろうに。

 ここ数日の彼の言動にほだされたわけではない。

 自分から動くことで、もしかしたらリュシアンに勘違いをさせてしまうかもしれない。だが、このままでは自分の気持ちが晴れない。

 ミネットは奥歯を強く噛み合わせ、決意した。


(リュシアンに、謝ろう)




 あそこまでしつこく付きまとってきたリュシアンのことだ。何事もなかったかのように、今日も姿を現すかもしれない。もしかしたら、パン屋の前で待ち伏せをしているかもしれない――。

 僅かに期待していたミネットだったが、しかしパン屋の前にも、リュシアンの姿はなかった。

 昨日までは鬱陶しいとすら感じていたのに、姿を見なくなった途端、胸に()ぎるこの寂しさは何だろう。

 彼に嫌われてしまったのなら、それでいい。

 だがやはり、このモヤモヤした気持ちにはケリをつけたい。

 今日の仕事が終わったら、リュシアンの元へ行こう。

 彼は傭兵団の一員だ。『壁』に行けば、きっと見つけることができるだろう。

 ミネットは心の中でそう決めると、気持ちを切り替えるように天を仰いだ。

 空一面、薄い灰色の雲が覆っている。今日は朝日を拝めそうになかった。







 パン屋が賑わうのは、主に朝と昼。

 ミネットは陳列棚を整え、焼きあがったばかりのパンを並べていた。

 今日の売れ行きも好調だ。

 隙間だらけになったトレイの上に、新しいパンを補充していく作業は楽しい。

 なくなったパンの数だけ、きっと「美味しい」が生まれている。その人達の小さな笑顔を想像すると、胸の奥がじわりと温かくなる。


「ミネットちゃん。次はこれね」


 朝のピークが終わったのも束の間、次は昼のピークがやってくる。

 厨房では主人と従業員の男二人が、次々と窯からパンを取り出していた。

 新たに焼きあがった菓子パンを受け取ったミネットは、慣れた手付きで丁寧に並べていく。

 ハーブを使った新作パン。香ばしく、それでいて爽やかな匂いが、ミネットの鼻を通り抜けていく。

 昼のピークを前に昂ぶっていた気分が、少しだけ和らいだ気がした。




 昼前になると、付近で仕事をしている人や主婦などで、店内はごった返す。

 今日も例外ではなく、パン屋内の人口密度は上昇していた。

 ミネットは黙々と会計をこなし続けていたが、ふとその手が止まる。

 客の中に、リュシアンの姿を見つけたのだ。ミネットの心に、自然と安堵が広がっていく。


「あの……?」


 突然手を止めたミネットに、若い女性客が(いぶか)しげに声をかけた。


「あ、す、すみません」


 その声で我に返ったミネットは、会計を済ませたパンを紙袋に入れる作業へと、慌てて戻るのだった。


(い、いや。別にリュシアンの姿が見れたから安心したわけじゃなくて。リュシアンの所に行く手間が省けたから、安心しただけであって……!)


 ミネットは突如発生したその気持ちを誤魔化すため、集中集中、と心の中で繰り返した。

 しかし落ち着きを取り戻したと思ったのも束の間、ミネットの前に今度はそのリュシアンがやって来た。

 昼食としてだろうか。リュシアンはチキンとハーブを挟んだサンドイッチをミネットに渡す。

 しかしその顔は昨日とはうって変わって、覇気がない。

 彼は会計の際、お金と同時に、一輪の花を金銭受けにそっと置いた。先端に小さな紫色の花が無数開いたそれは、スターチスの花だった。


「……すまなかった」


 リュシアンはスターチスを見つめたままで、ミネットと目を合わそうとしない。

 申し訳なさげに発せられたその声は、店内の雑多な音に掻き消されそうなほど小さなものだった。だが確かに、ミネットの耳にそれは届いた。

 その一言だけを言うと、大柄な傭兵の男は彼女に振り返ることなく、パン屋を出て行った。


「あ……」


 ミネットが彼に声をかける間もなく、次の客が会計に並ぶ。

 つきり、とミネットの胸の奥が僅かに痛んだ。





 煉瓦通りに立ったミネットは、西の空をぼんやりと眺めていた。

 日が暮れて間もない空は、群青色に染まりつつある。

 その空から少し下に視線をずらすと、赤茶けた大きな外壁が、嫌でも目に飛び込んできた。

 それは、国と国とを隔てる、大きく長い壁。

 このエアキネシスの町は、アクアラルーン国の最西端に位置している。

 壁の向こうは、『火』と『力』と『冠』の三人の女神を(まつ)る、フラムナワ国だ。

 この世界を創造したという女神達の間で、約千年前、抗争が起きた。それは世界を巻き込む大きな戦にまで発展した。

 後に『女神戦争』と名付けられたこの戦は、百年にも渡って続けられたという。

 女神達は主に三勢力に別れ、争いを続けた。その時に真っ先に手を組んだのが、『水の女神』と『光の女神』だった。

 女神戦争が終わった後、世界は十の国に別れたのだが、そういう経緯もあってか、『水の女神』を擁するアクアラルーン国と『光の女神』を擁するアウラヴィスタ国は、今もなお深い親交を続けている。

 しかし『火の女神』を擁する西のフラムナワ国とアクアラルーン国は、あまり良い関係とは言えなかった。

 東のアウラヴィスタ国との国境付近は、見晴らしの良い平原。

 対する西のフラムナワ国との国境は、エアキネシスの町中だ。

 そのせいでエアキネシスの町は、昔から不法入国や移民問題、治安の不安定さなど、何かと問題が絶えない。


 エアキネシスの傭兵団は、その国境の『壁』の中に居を構え、日夜警備に当たっていた。

 リュシアンは傭兵団の一員だ。今もおそらく、あの壁の中のどこかにいるのだろう。

 夜の気配を漂わせ始めた風が、ミネットの全身を舐めていく。

 ミネットは一度静かに瞼を閉じると、外壁に背を向け、歩きだす。

 朝の時点では、仕事が終わったらリュシアンの所に行こうと思っていた。

 思いがけず彼は店に姿を現してくれたが、とてもではないが謝る間などなかった。

 それに彼の態度は、随分としおらしくて――。

 リュシアンの心を傷付けてしまったことは、明白だった。

 自分の言葉で人を傷つけたのは、自覚する限り初めてだ。胸がざわつき、痛い。

 リュシアンに謝りたい。その気持ちに偽りはない。

 しかし、どんな顔をして彼に会いに行けば良いのか、ミネットにはわからなかった。


(今日は、やめよう――)


 それが逃げだとはわかっている。でも、今は踏み越える勇気が湧いてこない。

 リュシアンのことは、嫌いなわけではない。

 一緒の場所で生活を共にしてきた仲だ。親しみこそ覚えるものの、嫌悪感などあろうはずもない。

 ただ「あの言葉」だけは、どうしても我慢できなかった。

 ミネットは持っていたスターチスの花を、ぼんやりと眺める。

 小さな花の頭達は下を向き、色も少し褪せてしまっていた。

 まるで、リュシアンそのものを表しているかのように。

 でも、まだ枯れてはいない。帰ってすぐに生けたら、少しは元気を取り戻すだろう。

 歩く速度を上げかけたその時、空いた腹を刺激する香りが彼女の鼻を通り抜けた。

 嗅ぎなれた、温かく優しい香り。

 これはミネットもよく作る、野菜のスープの匂いだ。

 ミネットは匂いに誘われるがまま、その香りが漂ってくる通りの奥へと目を向けた。

 細い路地の前に建つ古びた教会。その入り口前に、大勢の人間が集まっていた。

 二十人はいるだろうか。ほとんどが老人だが、中には年端もいかない少年もいる。

 どの人間も(すす)けた服を身に着けており、肌も浅黒い。清潔さとは無縁な彼らの顔には、ひと時の安堵感がにじみ出ていた。

 今日は教会が炊き出しを行っているようだ。

 教会の前には、この国で祀っている三人の女神像が、その炊き出しを見守るかのように佇んでいる。

 成人男性程度の大きさだったが、それぞれ立派な台座が用意されていた。

 ミネットの視線が、像の内の一つに止まる。

 緩くウェーブした長い髪のその像は、白い顔に優しい笑みを浮かべていた。

 慈愛の女神だ。

 この炊き出しは、彼女の精神に(のっと)ったものなのだろう。

 ミネットはすぐにそれから顔を逸らすと、再び足を踏み出した。

 慈愛の女神。

 その単語を思い浮かべるだけで、ミネットの心は乱され、灰色に染まる。


「私は、嫌い」


 感情を廃したミネットの小さな呟きは、即座に風が(さら)っていった。


作中で触れた東のアウラヴィスタ国は、『王女と護衛×2と侍女の日常』の舞台となっている国でもあります。

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