1話 嫌いな言葉
朝ぼらけの町に、目覚めたばかりの小鳥のさえずりが控えめに響く。
その小鳥が見下ろしているのは、茶の煉瓦が隙間なく敷き詰められた大きな通りだ。町の住民達からは、その見た目のまま『煉瓦通り』と呼ばれている。
少しだけ湿った朝の空気を切り裂きその煉瓦通りを歩くのは、二つの影。
影らは硬い靴裏の音を通りに響かせながら、颯爽と歩き続けていた。
二つの影の内の一人は、体格の良い男。
烏のような黒のコートを羽織り、背中に大剣を背負っている。雑草を彷彿とさせる無造作に伸びる短い髪は、目を刺すような鮮やかな赤色。
左上腕部分に取り付けられた小さな楕円型の紋章は、この町の傭兵団の一員である証だ。眉間に浮かぶ小さな皺が、人懐こさとは無縁の雰囲気を醸し出している。
険しい顔をした赤毛の男は、前を歩く影を無言のまま追い続けていた。
その男に追われているのは、十代後半と思しき少女。
男より頭一つ分背の低い彼女の髪は、サファイアのような濃い煌めきを放っていた。
膝下丈のスカートの先から覗く二本の足は、百合の茎のように繊細。その細い足で、少女はしなやかに煉瓦通りを蹴り続ける。
「待ってくれ」
赤毛の男が少女を呼ぶ。質の良い金管楽器のような低音は煉瓦通りに跳ね返り、そのまま霧散した。
少女は男の呼びかけにも眉一つ動かさず、無言で歩く速度を上げる。肩甲骨あたりまで伸びた青い髪が、より強く左右に揺れた。
少女に置いていかれまいと、男も歩く速度を上げる。そして少女の背中を追いかけながら、先ほどよりも低い声を出した。
「俺は本気だ、ミネット」
「それは昨日聞いた」
視線を男に向けることなく前を見据えたまま、ミネットと呼ばれた青髪の少女は、抑揚のない声で男に短く答えた。
「なるほど。もっと別の言い方が良いわけか。俺はミネットのことが大好きだ。付き合ってくれ」
真っ直ぐな男の告白に、ミネットの顔は苦虫を噛み潰したかのように歪むだけ。
しかし前を行く彼女の表情の変化に、男が気付くはずもかった。男は顎に手をやり、僅かに唸りながら歩き続ける。
「いや。さすがに今のはストレートすぎるか。俺も少し恥ずかしかった。それじゃあ仕切り直して――」
「リュシアン」
ミネットに名を呼ばれた男は、表情を少し和らげながらそれに答える。
「なんだ? そうか、やっと俺と付き合ってくれる気に――」
「なっていない。少し黙って。朝から近所迷惑」
彼に背を向けたままピシャリとミネットが言い放つと、リュシアンと呼ばれた男は少し項垂れた。
「いや、ミネットが全然俺の告白に答えてくれないからな。気持ちが伝え足りてないと思って俺は――」
そこでミネットの足が突然ピタリと止まった。間を置かず、回れ右をしてリュシアンの顔を見据える。
ミネットは今年で十七になるが、背はそれほど高くはない。顔立ちもそれなりに整っている方だ。
しかし、まるで鋭利な刃物のような鋭い眼光が、その愛らしさを打ち消していた。
そんな彼女の鋭い視線も、リュシアンにとっては可愛いに変換されるらしい。
真っ直ぐと自分を見つめてくる少女に、リュシアンの心臓が倍の早さで脈打ち出す。そしてミネットの済んだ栗色の瞳を、吸い込まれるように見つめていた。
みるみるうちにリュシアンの胸に広がっていくのは、淡い期待。彼は彼女の唇から、甘い言葉が紡ぎ出されるのを待った。
「私は、あなたと付き合う気はないの」
しかしミネットが吐き出すようにして出した言葉は、リュシアンの期待したものとは正反対のものだった。
だがここまではっきりと告げられても尚、彼はめげない。
「お前にはなくても俺にはある」
「……さよなら」
ミネットは向きを変えると、『閉店』のプレートがぶら下げられたパン屋のドアを開け、素早く中に入って行った。
「今日もだめだったか」
リュシアンは中までミネットを追うことはせず、しばらくパン屋のドアを見つめていたが、程なくして腕組みをしながら今来た道を戻り始める。
世界各国では、三人の女神を祀り、その力の恩恵を受けて生活している。
この国は『水』と『慈愛』と『刃』を司る三人の女神を祀っている、アクアラルーン。そしてリュシアンが立つこの地は、アクアラルーン国の西端に位置する、エアキネシスと呼ばれる町だ。
僅かに昇り始めた太陽が、エアキネシスの町を等しく照らしだした。
ミネットは焼きあがったばかりの五本のバゲットを、棚の上部に置かれた籠に並べていた。
その眉間には先ほどのリュシアン同様、皺が数本寄っている。
「ミネットちゃん顔が怖いよ。笑顔笑顔」
「あっ……。す、すみません」
厨房からパン屋の主人が声をかけると、ミネットは慌てて謝罪の言葉を口にした。
自分が怖い顔をしていたことに全く気付いていなかったミネットは、人知れず小さく溜め息を吐く。
そんな表情にならざるをえなかった原因ははっきりとわかっていたので、ミネットは思い出したくもない、と心の中で呟き頭を横に振った。
世話になった孤児院を出て、このパン屋でミネットが働き始めてから、今日で二ヶ月。
パンの種類と値段は一通り頭に叩きこんだし、接客もそれなりに形になってきた。そして朝早く起きることも苦痛ではなくなっていた。
夜明け前のしんと澄んだ空気、そして昼間とは全く違う物静かな町の中を歩くのが、ミネットは何だか好きになっていたのだ。
そんな充実した気持ちを送れていた朝は、三日前、突然壊されてしまった。
同じ孤児院で生活していた赤毛の男、リュシアンが現れたせいだ。
ミネットと同時期に孤児院を出たあとは、エアキネシスの傭兵団に入った彼。
孤児院では体躯の良い体で鍬を握り、畑仕事を手伝っていた。その傍ら、剣術の稽古もしていたのもミネットは知っている。順当な職に就けたものだと、ミネットは思っていた。
そのリュシアンとは孤児院を出て以来、連絡はしていなかった。
それなのに、一体誰から聞いたのか。
ミネットの暮らし始めたアパートの前で、早朝から待ち伏せていたのだ。そして開口一番「好きだ付き合ってくれ」とミネットに告白してきたのだ。
ミネットは最初、彼の告白は冗談だとばかり思っていた。
孤児院時代、面倒見の良いリュシアンは、常に誰かの世話をしていた。
年下の子供達はもちろん、ミネットと同年代の者の悩みも聞いていたようだ。リュシアンの年齢は知らなかったが、まさに「皆のお兄さん」的役割を担っていた。
働き始めて二ヶ月経った。
リュシアンは彼と同時期に孤児院を出た者の所へ順繰りに訪れ、現況を聞いて回っているのだろう。世話好きの彼のしそうなことだ。あの告白は、彼なりの茶目っ気のある冗談なのだろう。
ミネットは、そうとしか考えていなかった。
その考えは、次の日も早朝から待ち伏せをしていた彼を見て、疑問に変わった。
そして三日目の今日、ミネットはようやく気付いた。
彼は自分に本気で告白をしているのだと。
だが、リュシアンが急に自分に熱を上げ始めた理由が、ミネットにはさっぱりわからなかった。
確かに同じ孤児院で生活を共にしてきた。
だが、彼とは食事の時間に顔を合わせる程度で、まともに会話したことは、片手で数え足る程度にしかミネットの記憶にはなかったからだ。
ミネットにとってリュシアンは、同じ孤児院で暮らした仲間。
それ以上でも以下でもなかった。
異性としてではなく、あくまで家族に近い感情を抱いていた相手からいきなり告白されたところで、「試しに付き合ってみよう」などという気持ちには到底なれなかった。
今まで一度も恋愛というものを経験したことのないミネットだったが、付き合うというのはやはりお互いに好きあってこそだと、そういう価値観を持っていたからだ。
それにしても、あの待ち伏せは一体いつまで続くのだろうか。
何度も断りの言葉を吐いたが、彼は諦める素振りを全く見せていない。
ほだされるのを待っているのだろうか。もうしばらくの間、あの騒がしい朝は続いてしまうのだろうか。
はぁ。
ミネットはパン屋の主人に聞こえない程度に再度溜め息を吐くと、気持ちを切り替えるように肩をぐりんと回し、今度は焼きあがったミニクロワッサンを並べ始めた。
次の日の朝も、リュシアンはミネットの暮らすアパートの前で待ち伏せていた。
「おはよう」
ミネットは部屋のドアに鍵をかけると「視界に入っていません」という意思を背中に滲ませ、リュシアンを無視して歩き出す。
「待ってくれ」
リュシアンは慌ててその後を追い、すぐにミネットの隣に並んだ。
ミネットは思わず舌打ちしてしまいそうになるのを堪えて、抱き続けていた疑問を率直に聞いてみることにした。
「私のどこがそんなに良いわけ? しかもいきなりよね? さっぱり意味がわからないんだけど」
「よくぞ聞いてくれた」
待ってましたと言わんばかりに、リュシアンは大げさに両手を広げてミネットに満面の笑みを向ける。
ミネットの胸中に、瞬時に嫌な予感が駆け抜ける。理由は気にはなるが、これは面倒な事態になりそうだ。
彼女は慌てて訂正することにした。
「やっぱりいい。聞きたくない。今のは忘れて」
「おいおい。聞いておいて何だそれは。放置か? 放置プレイというやつなのか?」
「…………」
ミネットはリュシアンの言葉を、無視という形で受け流した。いちいちツッコミを入れていたら彼のペースに持っていかれるだろうと、無意識に感じていたからだ。
「いや、ミネットが聞きたくなくても俺は勝手に語る。そう、あれは――」
「早く行かなきゃ遅刻しちゃう。さよなら」
「えっ!? ちょっと待て! 聞いてくれミネット!」
ミネットの歩く速度は、自然と競歩並の早さにまでなっていた。
後方で「おお、早いな!?」と驚愕するリュシアンの声が聞こえたが、ミネットはそれには構わず、若干前のめりになりながらツカツカと歩き続ける。
もし今誰かが彼女を見たら、あの人は機嫌が悪いんだろうな、と一目見てわかるような顔をして。
颯爽と歩き続ける彼女の右手が、そこで突然掴まれた。
ミネットは思わずビクリと肩を震わせ、喉まで出掛かった悲鳴を呑み込む。
振り返ると、走って追いかけてきたのであろうリュシアンが、肩で息をしながらミネットの手を握った状態で立っていた。
髪の色より濃い赤をしたリュシアンの瞳は、真っ直ぐとミネットを見据えている。
先ほどまでとは違う真剣な雰囲気を醸し出す彼に、ミネットの心に少しずつ動揺が広がっていく。
「ミネット。俺は本気だ」
リュシアンはミネットの両肩を強く掴むと、強引に自分の方へと向き直らせる。
あどけなさと大人らしさが、絶妙に入り混じったその顔。外見だけで彼の年齢を瞬時に言い当てることができる者は、おそらくいないだろう。
ミネットがそんなどうでも良いことを考えた直後、リュシアンは低い声で囁いた。
「愛してる」
その言葉を聞いた瞬間、ミネットの瞳孔が開き、顔色も瞬時に変化した。
――激しい怒りを帯びた赤色に。
「ふざけないで!」
ミネットは叫びながら両手を突っぱね、リュシアンから身体を離す。
「俺はふざけてなんていない」
しかしリュシアンの言葉がまるで聞こえていないかのように、ミネットは激昂しながら続けた。
「お願いだから二度と私に愛してるなんて言わないで! 私はその言葉が大嫌いだから!」
吐き捨てるようにミネットは言うと、一度も振り返ることなく、煉瓦通りを駆けて行ってしまった。
痒くもない頬を指で掻き、リュシアンは眉尻を下げながら、走り去るミネットの背中を見つめていた。