夢も現も瞬き一つ。
人の夢と書いて儚いと読むのだと、先生は、か細い指で白い砂へ書いて見せた。ざざん、ざざん、と波の音が耳へ残響し、意識が音と共に溶けかける。それを咎めるように先生は片手で僕の服の裾を引っ張り、波の端で消えていく白い泡をもう片方の手で指さし言った。
「あの泡も、人の夢の一つです」
先生は、まだ十にも満たない少女なのに、とてもはっきりとした硬質的な大人びた声を出すが、どこか真似事演技のちぐはぐさがあった。本来の先生の声はもっともっと丸く愛らしいのだ。そんなことを考えているとまた先生は僕の裾を引っ張る。視線を先生の顔へ向けると、眉を大げさにしかめた顔が見え、笑ってしまう。
「なぜ、笑うのです」
今度は裾を引っ張るのでは無く、親指を強く掴まれた。先生の手はしっとりと汗ばみ、ざらざらしている。さっきまで、砂を弄っていたからだ。
「先生が、可愛いから」
僕は、この幼女を先生と呼んでいる。先生は色々と知っていたからだ。僕の知らない複雑な形をした漢字の意味も僕の知らない赤い花の名前も僕がわかりたくない母様の行方も。みんなみんな知っていた。ずっと本を読んでいたのだと先生は言っている。僕と会うまで家の中でありとあらゆる本を読んでいたのだと。そのひしめき合っていた中の最後の本を読み終わった時にこの村特有の黒い着物では無く、白い着物を着た、誰かの骨が入った壺を抱いて茫然としている僕を見つけたのだと。
「せんせいをからかってはいけません」
薄い白紙を紅に浸けた時のように、先生は可憐に頬を染める。直ぐに真っ赤になるのではなく、薄紅から徐々に紅を強めていくのだ。染めた頬を隠そうと先生は、顔を覆って下を向いてしまう。指を離されてしまったのが少しだけ寂しい。
「せんせいを、いじめては、いけません」
大人びた声が、歳相応の柔らかで甘い声へ変わっていった。先生に会う楽しみは、こうして先生の声の変化を楽しむことと言っても良い。そっと僕は、先生の緑に艶めく髪へ触れて、撫でる。実に指通しの良い髪だ。小さな頭が僕の手とちょうど良く馴染む。海辺に棲む人間は大抵ざらついた茶色の髪をしていて、先生の様な髪は珍しい。
「先生、何故あの泡も人の夢と言ったの?」
さっと、先生が顔を上げた。少し眼が潤み、頬の紅はまだ消えていないが、僕の質問には先生は真剣に答えてくれるのだ。
「海は、人間のお母様なんです。貴方も先生も海から生まれたせいぶつなんです」
せいぶつ、という発音が上手く出来なかったのかくしゃりと丸く発せられた。
「海は、僕らの母様か」
「そうです。お母様のお母様のそのまたずっとずっと前のお母様、貴方と先生の一番はじめのお母様は海からうまれたんです。だから」
先生は一息でそこまで言うと一瞬、間をおいた。小さな舌が、ちろりと出て上唇を舐める。縁日で見た白蛇様みたいだ、と僕は思う。
「海と私たちは今も一番深いところがつながっていて、私たちが見る夢は、あそこの白い泡でできているのです」
「深い所?」
「夢を見るところです。せいぶつの中で一番深いところ。でも、ああやって、泡は出来てもすぐ消えちゃう。だからみんなすぐに夢のことを忘れてしまう」
「母様とも繋がっているのかな」
「つながっています!」
先生は、勢い良く断言した。そして縋りつくように、今度は僕の小指を掴んだ。あまりにも強く握りしめられたので、僕は思わず「痛いな」と呟いてしまった。先生にその言葉を聞かれてしまったのか、先生は小指をぱっと離し、叱られた子供みたいに顔を歪めて、両手を後ろで組み、また下を向いてしまう。
「ごめんなさい」
僕は、ゆっくりと腰をかがめた。ちょうど、先生の頭と同じ目線になるぐらいに。それから僕は先生の頬に手を当て、肉の中で蠢く血の流れや先生の形を作っている華奢な骨を壊さないように、そっとそっと力を入れる。先生は、顔を上げまいとしたり横を見ようとしたりと抵抗したが、僕は最小限の力でそれを阻止し、僕の真正面に先生の顔が見えるよう、動かす。
先生の顔は整っているとは言えなかった。眼が大きすぎるのだ。小さな顔の中に二つの明るい緑色の目がぱちぱちと瞬きする。鼻も口も耳も小作りなのに、硝子玉によく似た緑の目だけが目立って大きい。見つめていると舐めてしまいたくなる。ああ、今日こそ、舐めてしまおうかな。
「先生の目を舐めて良いなら、謝らなくても良いよ」
「舐めるの?」
先生の不意を付かれて驚く声をだす。その声で、僕の脳髄は痺れて気持よくなる。もっと先生を驚かせて、色んなところを見たいと思うんだ。知りたいと思うんだ。深く深くもっとここより深く繋がって。壺に入った骨が誰のものかなんて母様が何処へ消えたのかなんて、知りたくもないから。
「何時も舐めたいなって見る度思うんだ」
「塩の味しかしないよ」
「どうして?」
ざざん。
波の音が、止まる。消える。全くの無音と急速に白くぼやけていく海辺の景色。
「だって、わたしは、波の泡だもの」
先生の緑の目を僕の舌で触れる。塩の味がしたと思った。否、塩だろうか。もっとよく味わいたくて、舌を目へ伸ばすけれど、味は薄れていくばかりだ。
「今日の教室はこれでおしまいです」
遠くで先生の声が聞こえる。最初と違って、どこまで甘く舌足らずな心細い声。
「また会えるよ、先生」
眩しい程の白さの中で見つけた、先生の小指を僕の小指と絡める。毎晩見る僕の夢。もうその夢でしか会えない何でも知っていた僕の幼馴染。後生大事に僕が抱えている骨壷の中身には。
「約束してくれる?」
「うん。また明日」
人の夢は儚くて、泡の如く消えるものでも、僕は彼女だけは忘れない。