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第1章:廃城の二人

 湖岸の廃城に辿り着いて一週間が経つが、ユリー家の人間も城砦からの難民も、トゥーロラの軍勢も訪れることはなかった。焼け落ちた城は夜露を凌ぐには不十分だったものの、幸いにも放浪者が仮住まいとした掘っ建て小屋があったので、ヨウシアとアルヴァは野宿する必要はなかったが、ただそれだけのことでしかない。

 ヨウシアは小屋の軒先で毛布にくるまっていた。屋内にはアルヴァが健やかな寝息を立てている。

 朝日が湖面を輝かすのと同時に、ヨウシアは目を覚ました。成り行きで廃城に来たものの、彼が期待していたものはなにもなかった。賞賛も報奨も、人も。彼は立ち上がると桶を持って桟橋に向かった。桶で水を掬い、顔と身体を洗う。それから桟橋から身を乗り出すと、葦草で編んだ魚籠を引き上げた。

 魚籠にはパン屑は入っていて、それを食べようとする魚を閉じ込める簡単な仕掛けをしていた。ヨウシアが引き上げた魚籠には川魚が二匹も入っていた。北部辺境ではスープの具や塩漬けにして食べられるレクセル鮭だ。二匹もいれば今日一日は食事に困らないだろう。

 ヨウシアが掘っ建て小屋に戻ると、アルヴァが待ちかまえていた。

「おはようございます。お嬢様」

「うむ、わらわのために魚を採って来てくれたのだな?」

「はい。レクセル鮭が二匹も。焼き魚にして食べましょう」

 アルヴァはお腹を空かせているのか、ヨウシアに食事の用意を急かした。ユリー家の令嬢はまだ十二歳で、同年代の子供に比べると驚くほど聡明だったが、本能を優先させるのは同じだった。

「城館にいたときは、召使いが骨を取ってくれたのに」

「背に腹は代えられません」

「そうじゃな。わらわも、ヨウシア流の食べ方には慣れてきた」

 川魚のような庶民の食べ物は、アルヴァには食べ慣れないものだったが、味覚に貴賤の差はない。廃城に辿り着いて最初は食べることに抵抗を示したが、美味しいと分かると骨だけ残して綺麗に食べるようになった。

 刃物でウロコと内臓を取ると、串を突き刺して焚き火で炙る。香ばしい匂いがして、レクセル鮭から油が滲み出た。表面が十分に焼き上がると、ヨウシアとアルヴァは焚き火を囲んだまま魚を食べた。身分の差もあり、ユリー家の城砦では知り合うこともなかった両者が食事を共にするのは、一週間前までは思いも浮かばないことだった。

 串焼きを食べながら、ヨウシアはアルヴァに話しかけた。話題は、もちろんこの廃城にいつまで住み続けるかということだ。

「お嬢様、今日でここに辿り着いて一週間になります」

「そうじゃな」

「トゥーロラの軍勢に城砦を落とされ、ユリー家の方々がどうなったのかも分かりません。落城のときには、ユリー家に集う人々はこの廃城に逃れて、再起を図る手筈になっていましたが、一週間も待って我らだけがここにいます」

「そうじゃな」

 アルヴァはレクセル鮭を頬張りながら頷いた。

「これから、どうするおつもりですか? おそらく、ユリー家の方々はトゥーロラに全員捕らわれたと思うのが自然でしょう。そして、お嬢様と私だけでは再起もなにもありません。まさか、ここでいつまでも二人で過ごすわけにもいかないでしょう」

「そうじゃな。ヨウシアよ、おぬしを摂政にしよう」

 と、アルヴァはこともなげに言った。

「はい?」

「ヨウシア、おぬしがユリー家の摂政だ。確かに、お父様もお母様も、兄上も捕らえられたかもしれぬ。だが、ユリー家はわらわがいるかぎり滅びぬとも。ヨウシアにはわらわを護衛してもらっている恩があるゆえ、それに報いるには摂政位を与えるしかあるまい。ヨウシアにはこれまで以上にわらわに忠勤して、再興のために手腕を発揮してもらいたい」

 アルヴァの言葉を馬鹿げたものだと一笑に付すのは可能だったが、その真剣な眼差しにヨウシアは彼女の本気を悟った。

 廃城で一週間経つが、ユリー家の令嬢は再興の望みを捨てていなかったのだ。それどころか、このような暮らしの中で決意を強めているようだ。ヨウシアの恩に報いたいというアルヴァの言葉にも本心が感じられたが、彼はユリー家の人間でも忠誠を誓った騎士でもない。

「あの……私は一介の教会司書ですが」

「よいではないか。もはやユリー家の主従はわらわとヨウシアしかいないのだから。それに、西の神聖帝国では、聖職者が領地を持ち、政治に参画するのは普通のこととも聞いた」

 アルヴァは明るく笑い声を上げた。唖然としてしまったが、ユリー家の令嬢は美しさと聡明さで城下にも知られ、彼女が男であればと言われていたのを思い出した。まだまだ現実を痛感するまでには時間が掛かりそうだ。だが、ヨウシアも夢見る令嬢に付き合う余裕はない。

「トゥーロラに投降すれば、お嬢様であればそう辛い仕打ちもされないと思いますが」

「それは断る。トゥーロラ家に降るなど、ユリー家の血が許さぬわ。きっと陵辱の限りを尽くされるに決まっておる。それよりも、ここを根城にトゥーロラ家に一矢報いたほうが百倍ましだ」

「私には家を再興する能力はありません」

「ヨウシアよ、わらわには人を見る目がある。おぬしは摂政に相応しい男。今までは、単に才能を生かす場にいなかっただけなのだ。教会司書は埃を被るのが仕事ゆえ。それに、ここには他に仕事がないのだ。摂政として家を再興する以外に。だから力を尽くせ。それと、鮭、食べないのならわらわがもらうぞ」

「これはダメです」

 ヨウシアは鮭にかじりついた。

 どこをどう見れば、私が摂政に相応しいなどと思えるのか。ヨウシアには謙遜するのも馬鹿らしいことだったが、アルヴァにとっては父母兄弟を失い、家臣を失い、もはや彼しか頼る者がいないのだ。しかし、召使いではなく摂政として働くことを求められるとなると、湖岸の廃城で魚を食べている現時点との格差に目眩がしてくる。

 食事が終わると、アルヴァは廃城の朽ちた広間に向かった。そこには古い椅子があって、ユリー家の令嬢らしく腰掛けて来訪者を待つ。屋根は落ちているが、壁はまだ残っているので日陰になっていて過ごしやすいようだ。その間、なぜか摂政になったヨウシアは、摂政としての仕事を始めとして考えるように命じられた。

「なぜ、私がこんな目に……」

 と、教会司書は呟いた。

 元々は、不要な領土拡張策で近隣との摩擦を招いたユリー家の身から出た錆なのだ。北部辺境には無数の開拓貴族や豪族がひしめいていて、中央の統制が緩いために小競り合いが頻発している。ユリー家は武門の家として、近隣の小さな勢力を併合していったが、その目立つ動きは警戒と敵意を引き出してしまった。

 ユリー家と何度も矛を交え、煮え湯を飲まされてきたトゥーロラ家が、同じような境遇の開拓貴族たちと連合して押し寄せてきたのが二週間前。二千人という北部辺境では大軍を揃えたトゥーロラ家に、ユリー家は野戦で壊滅的な打撃を受け、籠城したものの一日も耐えられずに落城した。

 ヨウシアも籠城時に剣を持たされたが、多勢に無勢の状況では逃げるのもやっとだった。矢玉が降り注ぐ中、ヨウシアは城砦を脱出して、そこで死にかけた騎士とアルヴァと出会い、ユリー家の令嬢を託されると、なぜか湖岸の廃城で摂政に任じられた。

 廃城にユリー家の人間が落ち延びていれば恩賞が貰えたかもしれないが、誰もいなければ恩賞もあるわけがない。一度はアルヴァをトゥーロラ家に連れて行くことも考えたが、一週間も一緒に生活していると情が移ってしまい、ユリー家の令嬢を自分の欲のために利用する気は失せた。

「お前は商人に向いていない」

 と、言う苦々しい表情の父親を思い浮かべた。

 元々、そういう性格をしていないのだ。塩鱈の貿易商の三男として生まれたヨウシアは、家業を継ぐことも事業を手伝うこともなく、教会司書という埃っぽい仕事に自らを閉じ込めた。ある土地の産物を安く仕入れて、別の土地で高く売るという仕組みに魅力を感じなかったことや、親族から商才がないと判断されて厄介払いされたという事情もある。だが、最大の理由は書物に埋もれて生きることが自らの性に合っていたからだ。

 とりあえず、この廃城を人が生活できる状態にしよう。摂政としての仕事はともかく、大工仕事は緊急の課題だった。湖岸の廃城を歩き回って板材や使えそうな道具を集める。ここは、かつて北部辺境で起きた蛮族との大戦の際に、主要な前線基地の一つとして築かれた砦だった。高い技術が用いられた石造りの砦で、荒廃していなければユリー家はここを根城としていただろう。今では瓦礫と化した廃城も、探せばそれなりのものはある。一週間前には寝泊まりする場所にも困ったが、小屋の修繕はどうにかできた。

 しかし、やはり二人だけではトゥーロラ家に一矢報いることもできない。ヨウシアは額に汗を浮かべて瓦礫を持ち運び、古錆びた道具の数々を掘り起こすと、一カ所に集めていく。道具を集めるのも重要だったが、瓦礫を片付けるのはもっと重要だった。生活するのであれば、なるべく地面は平らなほうが良いに決まっている。だが、その作業も一人では限界があり、昼前になると体力が尽きてしまった。

「そろそろ休んだらどうじゃ?」

 忙しく働いているヨウシアに、アルヴァが声を掛けた。

「そうですね。少し休ませていただきます」

 ヨウシアは顔を拭うと、レクセル鮭を釣ったときに汲んだ水で喉を潤した。湖に面しているので、飲み水に困ることがないのは幸運だった。午後はまた、夕食のために魚釣りをしなければならないだろう。

 椅子代わりの四角い石に腰を下ろすと、ある程度は片付いた小屋の周辺を眺めた。廃城は往時の姿を留めていないので、アルヴァが一日を過ごす広間らしき場所と城門らしき場所以外は、崩れ落ちた石と風雨に耐えた柱と木材の散乱する瓦礫の山だ。これでも一週間前と比べれば見違えるような姿だった。旅人が一時の仮住まいのために建てた小屋も、雨露が凌げる程度には修繕した。

 人手が必要だ。ヨウシアは作業中、ずっとそのことを考えていた。

 アルヴァが一カ所に集めた使い物にならない道具の数々を眺めている。

「惜しいのう。錆びていなければ、使えそうなものばかりでないか。ほら、この鍋などは穴が開いていなければ、シチューと作るのに丁度良さそうだ」

「さすがに私には鍛治の腕はありません。我が友、アストリッドであれば容易い仕事なのでしょうが」

 ヨウシアはユリー家の籠城戦で共に戦った鍛治屋の顔を思い浮かべた。本来なら一緒に逃げるのはアルヴァではなくアストリッドであったのに、混乱の最中に見失ってしまって、彼が生きているかどうかも分からない。

「お嬢様、やはり人を集める必要がありましょう。トゥーロラ家に対抗するにしても、人がいなければどうしようもありません」

「だが、一週間経つが誰も来ないではないか。トゥーロラの野獣どもはユリー家の一族郎党を根絶やしにしたのやも。だから、この廃城に我らしか辿り着けなかったのでは?」

「それはどうでしょうか。一人残らず皆殺しにすることなどはできないはず。また、旅人などがここを訪れることもありましょう。もちろん、トゥーロラ家の軍勢がここを襲うことも考えられますが」

「うむ、摂政として的確な助言であると思うぞ。人を集めることに異存はない。問題はその方法だが……」

 アルヴァは思案するように顎に手を当てた。

 ヨウシアとしては城にいてアルヴァを守る者が一人いれば、自分が偵察にも出られるのにと考えていた。アルヴァを一人にするのは危険すぎるし、彼女を抱えて偵察に出るのはもっと危険だった。とにかく、二人しかいないことからくる行動の制限から解放されれば、彼の実家である塩鱈商を頼ることもできるのだ。頼ったあげくに裏切られる可能性も高いな、とヨウシアは親兄弟の顔を思い浮かべて自嘲した。

「そうじゃ、人が集まれば、ヨウシアが摂政であることを確かにせねばな」

 アルヴァはそう言うと、小屋から一振りの剣を持ってきた。

「それは、お嬢様をお守りしていた騎士の?」

「そうじゃ。護衛騎士グリプの剣じゃ。これは、グリプが息絶える間際にヨウシアに託したものじゃ。これを腰に帯びておけば、どのような優男でもそれなりの騎士に見える」

「叙任などは考えなくともよいのでしょうか? 私を知る者が見れば大笑いしそうですが」

「笑ってやろうか?」

 アルヴァは真面目な顔をしたままだ。この剣は彼女を守っていた老騎士が、息絶える直前にヨウシアに託したものだった。彼は受け取ったものの騎士でも戦士でもなかったから、湖岸の廃城に到着したときにアルヴァに返したのだ。たしかに廃城に誰か来たとき、ヨウシアが摂政であると言っても悪い冗談にしか聞こえない。この意匠に優れた剣を帯びていれば、それなりの地位があるようには見える。

 ヨウシアが剣を装備すると、アルヴァは満足げに頷いた。

「よく似合っておるぞ」

「そうでしょうか?」

「そうじゃ。似合っておるから、そのつもりで振る舞うように」

 アルヴァはユリー家の令嬢らしく、威厳を保った顔で言った。

 今、この状況であれば自分がこの剣を帯びるのは悪くない。男手は彼一人なのだから。そして、もしユリー家の残党が廃城に集まり、アルヴァの勝手な摂政任命が問題になれば、さっさと辞退すればいいとヨウシアは考えた。

 彼女には予感があったのだろうか。剣が役立つ局面はすぐにやってきた。

 作業を終えたヨウシアが疲れた身体を休めて、廃城の壁から平原を眺めていると、堅牢な荷馬車がこちらに向かってきていたのだ。いつかは来るだろうと思っていたが、実際に来ると慌ててしまう。壁から転がるように降りたヨウシアと入れ替わるように、アルヴァが壁から馬車を目撃した。

「待ちわびたぞ!」

「お嬢様!」

 トゥーロラの者であれば命の危険もある。

「ヨウシアは意外に小心なところがあるな。教会司書だからか? で、ヨウシア、あれは敵か? 味方か?」

 荷馬車の周りには徒歩の男が二人いる。荷馬車を操る男と同じく、武装して近寄りがたい雰囲気があった。トゥーロラ軍ではなく商人と傭兵のようだ。わざわざ人里離れた場所を通る荷馬車となれば、ヨウシアには何を運搬しているものなのか、薄々想像が付いた。

「あれは奴隷商人の荷馬車です。日が暮れようとしているので、ここで一夜を過ごすつもりかも」

「奴隷商人ということは、あの馬車にはユリー家の者がおるかもしれんの」

「ええ、おそらく。逃げ遅れた人々を捕らえて、後ろに付き従う奴隷商人に売るのは戦場の常です。ここから北の、ヨーランかボーの奴隷市に行くつもりでしょうね」

 ヨウシアは苦々しい口調で言ったが、アルヴァのほうは少し様子が違った。もちろん奴隷商人には憤りを感じているが、その一方で機会であるとも考えているようだ。

 何を考えているのか、ヨウシアには察しが付いた。

「どうしますか。一旦城を離れて、やり過ごすべきかと……」

「そう言うわけにはいかぬ! わらわの民を救わずして、ユリー家の再興などできるはずもない。それに、このためにヨウシアには剣を預けたのだぞ」

 やはり、そうなるか。

 だが、奴隷商人からユリー家の人間を解放すれば、二人きりの状況を改善できるのは明らかだった。荷馬車を得られることも大きい。アルヴァの言葉にも一理ある。そして、ヨウシアにしてみても奴隷商人が横行するのを見て見ぬふりはできなかった。

 ヨウシアは剣を握ると、奴隷商人を襲撃する決意を固めた。とりあえずアルヴァを廃城の奥に隠れるよう頼むと、武装した三人の男と戦える場所に向かう。奴隷商人の有利は数の多さだが、ヨウシアには地の利と、廃城に誰もいないと思われているという奇襲条件が揃っていた。身を伏せて奴隷商人を待ち構える。一方、奴隷商人たちは自分が狙われているとは露ほども感じていないようだ。

「今日はここで休むとするか。明日も早いぞ」

「へいへい。足がくたびれたぜ」

 緊張感のない会話が聞こえてきた。ヨウシアは奴隷商人たちを観察した。

 奴隷商人は人相こそ悪いが、歩き方がぎこちなく、戦力としてはほとんど役に立たないだろう。問題は傭兵のほうで、二人とも革鎧を着込み、斧と槍で武装していた。傭兵と言っても盗賊と大差ないだろうが、荒事に慣れているのは明らかだ。ただ、ヨウシアにとって幸運なことに弓を持っていない。

 慎重であればあるほど勝算が上がることをヨウシアは知っていた。物音をたてずに廃城の壁に登った彼は、眼下の荷馬車を睨むと、こういうときのために集めていた頭大の石を抱えた。

 あとは待ち構えて落とすだけだ。

「ギャ!」

 狙いを定めて投じた石は、傭兵の頭を潰した。

「な、なんだ?」

 いきなり息絶えた仲間の死体に、もう一人の傭兵の歩みが止まった。そのときにはヨウシアは石をもう一つ抱えて、狙いをつけて投じていた。奴隷商人の目の前で、もう一人の傭兵も死体になって地面に転がる。彼は石が落ちてきた先を見上げた。

「な、何者だ!」

「ユリー家の摂政、ヨウシアと名乗っておこう」

 そう言うとヨウシアは壁から降りた。荷馬車の前に立つと、剣を引き抜き奴隷商人の喉元に突き付ける。奥に隠れてヨウシアの手腕を見守っていたアルヴァも、体勢が決したので姿を現した。

「ユリー家の当主、アルヴァと名乗っておこう」

「ユリー家の残党か……!」

「そう言うことじゃ。ヨウシア、ユリー家の人間を奴隷として売るなど言語道断。処刑が妥当であろうな」

「そうですね。生かす価値もないでしょうから」

 ヨウシアはそう言うと、奴隷商人が命乞いする間もなく剣を突き刺した。

 確かな手応えと死の証明になる血流。教会司書としての安穏とした人生は、ユリー家の城砦が落ちたとき一緒に失った。兵士として駆り出されたヨウシアは、敵を殺し他人を見捨てて今があるのだ。

 一突きで殺した奴隷商人に形ばかりの祈りの言葉を捧げると、ヨウシアは死体の懐から鍵束を取った。アルヴァは顔を紅潮させて死体を見下ろした。彼女にとっては、ユリー家の城砦が失陥して、はじめて目に見える勝利なのだ。

「思ったよりも簡単じゃったな」

「……そうでもないですよ」

「我らは傷一つなく、奴らは死んだ。これは我らの初陣としては上出来ではないか」

 初陣、という言葉を使って、アルヴァは勝利を強調した。現実を処理するのはヨウシアの役割、結果を得るのはアルヴァの役割だ。ヨウシアは彼女の気持ちを察すると、臣下としての会釈をした。

「その通りでございますね。この初陣が、お嬢様によるユリー家再興の第一歩になりましょう」

「そうじゃ。何事も前向きにな」

「さて、これから死体は裸にして湖に流し、奴隷となった者たちを解放します」

「うむ、はやく解放してあげないとな」

「ユリー家の当主としての振る舞いをお願いいたしますよ」

 ヨウシアはそう言うと、荷馬車の鍵を開けた。死んだ男が奴隷商人としては三流なのは、連れていた傭兵や馬車の大きさから明らかだった。トゥーロラの軍勢の末端で、おこぼれに預かろうとする野良犬どもだ。荷馬車の扉を開けてみると、そこには異変を感じて怯える三人の男女がいた。

 一人は老婆、一人は少年、一人は女性だった。

「ユリー家の者だ。君たちを解放しよう」

「あぁ、神様! ありがとうございます」

 薄汚れた顔の女が、三人を代表して礼を言った。扉から夕日が射し込み、彼女たちの絶望に染まっていた瞳が輝いた。

 教会司書として、信者台帳を管理していたヨウシアには、三人とも見覚えがあった。老婆はアガタ、少年はブロル、女性はスヴェア。三人とも城砦の城壁外で農業を営んでいたエク家の人間だった。トゥーロラの軍勢が襲来して、城砦に逃げ込む間もなく虜囚になったのだろう。

 ヨウシアは三人を知っていたが、三人はヨウシアのことは知らないようだ。教会司書は書庫で埃に埋もれるのが仕事だから、それも当然と言えるだろう。解放されたエク家の人々は、首枷を外されて人間としての空気を再び吸うことができた。

「なんとお礼を言えばいいか、本当にありがとうございました」

「礼には及ばない。私は、ユリー家の令嬢に仕えるヨウシアという者だ。ここでトゥーロラへの反撃を伺っている。と言っても、ここにいるのは我らだけなのだが」

 馬車から降りた三人は、朽ち果てた廃城に人が二人、という現実を知った。

「このようなところに……」

 スヴェアの表情が再び曇る。彼女は悲観的な考えに囚われてしまっているようだ。あのような災いが身に降りかかったのだから、仕方がないと言えるだろうが。

「はっはっは、奴隷に繋がれるよりましというものだ。妾は何も不自由は感じておらん」

 と、楽観的に過ぎるアルヴァとは正反対だった。

「そうですか……城砦が落ちて、ユリー家の方々は討ち死に、捕らえられ、散り散りになったと聞きました。精強を謳われた軍隊も壊滅、私どものように奴隷商人に売られる者も……」

「だが、君たちは助かったではないか。命があれば再起できる」

「とにかく、民草とは言えユリー家の者が助かったのは良かった。何もないところではあるが、今日は屈辱を忘れてゆっくりと休むがよいぞ」

 ヨウシアの後ろで、アルヴァは気品のある表情で言った。

 ユリー家の令嬢は目立つ存在だったので、三人とも彼女の言葉に恐縮して頭を垂れた。落ち延びても貴族は貴族だ。アガタ婆さんは首に下げた護符を握って、神の名を呟いて感謝している。

 三人の中で、一番最初に元気を取り戻したのはブロルだった。年齢はアルヴァと同じだが、畑仕事に従事していたからか体格はヨウシアとあまり変わりない。農夫の子供らしく、素直で実直な性格をしているらしく、アガタ婆さんとスヴェアを手助けして廃城の中に入った。

 夕食の段取りは、食材を見たアガタ婆さんとスヴェンが行うことを申し出たので、ヨウシアはブロルと死体の片付けをすることにした。奴隷商人と傭兵を裸にすると、一人一人抱えて湖に投げ捨てる。それから馬を荷馬車から外すと、馬止めに手綱を結んだ。

 死体が持っていたのは傭兵二人が安物の革鎧と、斧と槍。斧は日常の仕事道具として役立つだろう。奴隷商人のほうは、少量の金品と荷物袋に黒パンと芋が一週間分入っていた。

 エク家の人間を買ったためか手持ちの金はあまりなかったが、食料、特にパンがあるのは幸いだった。今日のところはささやかな戦勝祝いができそうだ。

 死体を運びながら、廃城を見回していたブロルは、解放されたときよりも冷静さを取り戻していた。

「こんなボロ城、トゥーロラがやってきたら、すぐ負けてしまうのでは?」

 瓦礫の山と大差ない廃城に、ブロルは率直な感想を述べた。それは誰だって思うことに違いない。農夫の少年にも分かることが、ユリー家の令嬢には分からないのだ……とはヨウシアは言わなかった。

「まあ、そうだろうが、幸いにもトゥーロラはここに我らが籠もっていることを知らないようだ。今の内に廃城を修繕して、人を集めれば面白いことができるかも」

「ふぅん、面白いことができるのか?」

「面白いことができればいいな」

 言い直したヨウシアの顔を、ブロルは憮然とした表情で見詰めた。

 今のところは廃城でできることは限られている。息を潜めて、とにかく生き残ることだ。そして、人が集まらなければ、ユリー家を再興することはおろか、トゥーロラに一矢報いることもできないだろう。

「まあ、おいらは農夫だから、土地があれば耕すだけだ。難しいことは摂政様が考えればいい」

 死体を湖に流すと、焚き火の煙が上がる小屋へと戻った。

 アガタ婆さんとスヴェアが料理をしている間、アルヴァは終始上機嫌だったようだ。今まで、ヨウシアと二人だけの生活だったから、女性の仲間ができたことが嬉しいのだ。日が暮れて、廃城に夜の帳が降りると、人間的な生活を取り戻したエク家の人々と、ささやかな晩餐をした。

「この暗い時代に我々は流民同然の暮らしをしているが、今日は、ささやかながらも我が領民を救うことができた。今夜は、エク家の人々の苦難に報いるためにも、出来る限りの晩餐をそろえた。いつか、わらわが城館を取り戻したときには、書記にこの夜の出来事を年代記に明記させ、末永く語り継いでいこうと思う。では、晩餐の前に、神に祈りましょう」

 ヨウシアは教会司書として、祈りの言葉をそらんじることができた。短い祝詞を呟くと、両手を天に掲げて神に敬意を示す。

「さあ、いただきましょう」

 と、アルヴァは言った。

 奴隷商人が携行していた食料と、湖から穫れるレクセル鮭で、温かなシチューとパンを食べることができた。もちろん、料理に慣れたアガタ婆さんとスヴェアが作ってくれたことが、一番味を引き立てていた。ヨウシアとアルヴァは味を堪能する余裕があった一方、奴隷として水しか与えられなかった三人は、言葉少なに口を動かして胃を満たしている。

 かつての生活が今はないことへの不安が、三人の表情を曇らせていた。それでも、食事を終えたころには、心に背負った重荷が少しだけ軽くなったようだ。

「おいしい料理でしたね」

「ええ、奴隷商人に売られてから、このような食べ物を久しぶりに食べました。はやく元の暮らしに戻りたいものです」

「今、城館はどうなっているのでしょう」

 ヨウシアはとにかく情報がほしかった。エク家の人間には辛い記憶だろうが、不躾な言葉にスヴェアが答えた。

「ユリー家の城館の、堅牢な城壁も美しい瓦葺き屋根も、稲妻のような投石器で跡形もなく崩れ落ちてしまいました。トゥーロラの軍勢は、兵士や刃向かう者は容赦なく殺し、女子供はすべて奴隷にして、駐留するわずかな軍勢を残して撤退したそうです」

「ふむ、トゥーロラめ、ユリー家の城館を破壊したとは浅慮な奴らだ」

「トゥーロラ家の軍勢には旗色の違う兵士も多くいました。あれだけの軍勢を動かすには、他家の協力が不可欠です。ユリー家を滅ぼすという目的を達したので、略奪品と共に解散したのでしょう」

 領土を拡大していったユリー家を、憎く思っている家はトゥーロラだけではないということだ。徹底的に城館を破壊したのはアルヴァにしてみれば憎い所業に違いないが、ヨウシアには別の側面が見えていた。戦後処理を円滑に進め、連合を組んだトゥーロラ家が次のユリー家と目されないために、こうした処置をしたのだろう。

 トゥーロラ家には道理に通じた智者がいるようだ。城館を徹底的に破壊すれば、占領軍は略奪するだけして、あとは解散するのみだ。小規模の部隊を置くだけで事足りるし、ユリー家の残党が集結して城館を取り戻しても、壁がない拠点であればトゥーロラ家の手勢だけで対処できるというわけだ。

「わずかな手勢を残すのみであれば、我らが奪回する望みもあるやもな」

 と、アルヴァは身を乗り出した。

 狩りはエサを用意することが肝要。それは、狼でも残党でも同じだ。

「しかし、少数と言えども軍は軍。当面は、ここを拠点にするしかなさそうですね」

 ヨウシアは柔らかく現実的なことを言うと、これからのことを考えた。

 ユリー家の城館から、この湖の廃城までは歩いて三日の道のりだ。トゥーロラの軍勢が少数しか駐留していないということは、おそらく城館を保持するだけで精一杯で、廃城まで気が回らないはずだ。この廃城であれば、ある程度人を呼び集めても大丈夫だ。それに、破壊された城館よりも、この廃城を修復したほうが守にも逃げるにも適している。

 塩鱈の貿易商をしている自分の一族のことをヨウシアは思い浮かべた。彼らに連絡を取ることはできないだろうか。ユリー家の再興に協力させることはできないだろうが、廃城を建て直すことには興味を抱くだろう。ただ、問題は彼らが西の貿易港エクダルにいると言うことだ。ここから歩いて一カ月もある場所に、廃城を捨てて皆で行くわけにも、アルヴァを置いて一人で行くわけにもいかない。

 とりあえず、城としての体裁を整えれば、人は自然と集まるはずだ。それがどれだけ時間が掛かることなのかは見当も付かないが。

 焚き火を囲みながら、今日のところは休むことにした。人手が増えたことは喜ばしいが、明日からの生活も、基本的には今までと変わらないだろうから。瓦礫を取り除き、住むことのできる領域を広げていく。そのことについては、人間の数が増えたことよりも馬を得たことのほうが嬉しかった。これからは人力では太刀打ちできなかった石の塊をどかすことができる。

 奴隷商人との戦いで昂揚しているためか、なかなか眠りに落ちることができない。仕方なく考え事をしていたヨウシアだったが、寝静まった暗闇の中を動く影に気付いた。

 静かに起き上がったヨウシアが、月明かりを頼りに廃城の外に出てみると、草むらを必死で逃げる女の人影が見えた。

 スヴェアだ。

 ユリー家の者に助けられたらと言っても、この状況では未来に希望が持てなかったのだろう。ヨウシアはスヴェアの後を追いながら、教会司書だった頃の記憶を掘り起こした。家族を捨てて逃げるのは、スヴェアが後妻としてエク家に嫁ぎ、ブロルとも血の繋がりがないからだ。

 奴隷商人の鎖に繋がれて衰弱していたスヴェアでは、ヨウシアの足から逃れることはできなかった。

「止まれ!」

 と、ヨウシアは言った。廃城から離れ、闇夜が覆い隠しているから、騒ぎが知られることはないはずだ。

「お願い! 私はあんなところにいつまでもいられないわ!」

「残念だが、逃げる者には死んでもらう」

 ヨウシアは騎士剣を抜いた。スヴェアが逃げるとするなら、それはトゥーロラ家が駐留している城館しかありえず、彼女が身分の保証と生活のために、アルヴァのことを売るのは目に見えていた。薄氷を踏むような状況にあるヨウシアにとって、例えスヴェアがそうするつもりがなくても、生かしておくことはできなかった。

 去る者は追わず、などという甘いことは言ってられない。ヨウシアの眼には冷徹な決意が宿っていた。

 そして、スヴェアは剣が鞘走る音に絶体絶命を悟った。逃げることが死を招くものだと知った彼女は、それでも自らの正当性を盾にヨウシアを説得しようとした。

「なぜ? あなたもあの廃城にいても死ぬだけだと分かっているはずでしょう?! なら、一緒に逃げるといいわ。あなたなら、どこにいても生きられるはずよ。ユリー家はもうおしまい。こんなところでトゥーロラに殺されるのを待つなんて馬鹿げている! それに、私なら、あなたの支えにもなれると思うわ」

「……申し訳ない」

 彼女の理屈は妥当なものに聞こえたが、ヨウシアは有無も言わさず剣を突き刺した。

「あっ……」

「申し訳ない。私はアルヴァ様の摂政だ。だから、理屈よりも忠誠を優先する。それに、ユリー家は終わっていないよ。アルヴァ様を、私が支えるかぎりは」

「馬鹿なこと……」

 スヴェアは苦痛と失望に顔を歪ませて大地に倒れた。

 剣は正確に彼女の急所を貫いて、もう息はしていない。月夜の草むらに立つのはヨウシアだけだった。そして、その彼も暗い表情を影に隠していた。女を刺し殺したことの後味の悪さと、厄介ごとが片付いた安堵感、明日のアルヴァの反応を思い描いて溜め息を吐く。

 これは必要なことだった、と言い聞かせた。ヨウシアはスヴェアを鏡にして自分を見ていたのだ。単なる教会司書だった彼は、成り行きでアルヴァを廃城に連れていき、成り行きでアルヴァに頼られる存在になった。だから、彼自身はユリー家に忠誠を誓う人間ではないし、今も廃城にいることに違和感が拭えずにいる。塩鱈商人の血が利益になることについての嗅覚と、現実に対する客観的なものの見方を与えていたからだ。

 だが、一方でアルヴァをどうしても見捨てることのできない想いもあった。ヨウシアには、困窮する者に手をさしのべたいという、教会で働く者が持つ普遍的な救済思考がある。ヨウシアを廃城に留まることを選ばせるほどに、アルヴァに魅力が備わっているという点もあった。とにかく、今はなし崩し的な状況で、自分の頭の中の整理もついていない。

「これからのことは、これから考えればいいさ」

 スヴェアは、このまま放っておけば狼が骨だけにするだろう。このような状況下で、スヴェアが逃げ出したことに怒る者はいても、疑問を持つ者はいないはずだ。はやく頭を切り替えて、明日からのことに専念することのほうが大事なはずだ。ヨウシアは月を見上げて、一度だけ祈りの言葉を呟くと、後は何事もなかったように廃城に戻っていった。

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