6-1
退院から一ヶ月、イーシュの影をティジットが見ることは無かった。
奥方のお付きの仕事が立て込んでいたのか、水蛇の一件の間の仕事が溜まっていたのか。
これまで神殿に併設された神官の宿舎に部屋があったらしいが、奥方の私室のそばに部屋を与えられ、そこに住むことになったという話も小耳に挟んだ。
神殿と館を行き来することも減ったのだろう。窓の外でよく見かけたのも、見なくなった。おそらく神殿から奥方の執務室までの通り道だったのだ。
時折、誰かがイーシュの噂話をするので、元気に過ごしているらしいことだけは伺えた。
眉ひとつ動かさずに、今日もティジットは黙々と業務をこなす。
将軍直々に兵士の訓練つけたり、魔術や呪術の本を紐解いたり、戦術の研究を重ねたり……。武芸や術、馬の稽古も欠かさない。
何事も無かったように。
風のよく通る午後、ティジットはいつものように私室の窓辺にある小机に向かっていた。
分厚い書物をめくっていた手が、ふと止まる。
「……これでいいんです」
ここから見えるのは、精霊祭の後、よくイーシュが見かけられた、鳥たちのさえずる小ぢんまりとした簡素だが綺麗な庭だ。
イーシュが通らなくなって、すっかりここも静かになった。
そういえばこの庭は、元々そういう庭だった。
◇
空気のよく冴えた朝。まだ陽が昇りきる前だというのに、館では鎧甲冑のこすれあう金属音がそこかしこで響いている。
笑みすら自重される物々しい雰囲気が漂い、険しい顔つきの兵士たちが、館の主の一族の紋章が彫られた壁の前を、武具を帯びて行き交う。
館と兵士宿舎を繋いでいるその薄暗く長い廊下に、ようやく横から白い光が差し込み始めた。縦に長い窓から顔を覗かせる外壁に這った蔦が、徐々に輪郭を輝やかせていく。
宿舎のある方から、何人もの具足の鳴る音が近づいて来た。数人の従者を引き連れる先頭に立つ男は、外套を翻しながら威厳を湛える。
ティジットだ。
術士ゆえ、剣士のような重装備ではないが、肩当てと胸当て、そして剣を下げる。繊細な細工のされた使い込まれた銀色の装備が、鈍く朝日に輝く。
一団が長い廊下の突き当り、丁字路を曲がるとそこで、隅の方でたむろしていた兵士たちに出くわした。兜を小脇に抱え、だらしなくにやついている。
その兵士たちが、ティジットに気づいて急に棒のようにぴんと背筋を伸ばした。
「お、おはようございます!」
優顔の造りのティジットの表情は、今はそれを打ち消すほど平時より厳しい。言葉にも、いつもは控えているのだろう凛々しさがある。
「間もなく出陣だ。隊に戻れ」
「は、はい!」
慌てて兜を被り、兵士たちが駆け出そうとする。
「うん? 待て」
何かに気づいて、ティジットはさっきとは違う、和やかな口調でそれを止めた。
「ロクスの息子だな? お前は確か、今日が初陣だったな」
一人の兵士に微笑みかける。少年の幼さの残る兵士だ。それがたちまち紅潮して、直立不動に伸び上がった。
「は、はいっ。わ、私も父の名に恥じぬ戦いを……!」
「はは。名など考えるな。今は亡きお前の父も、生きて帰ることだけを望んでいるはずだ。私もそれを望んでいる。くれぐれも盾になどなってくれるなよ?」
「も、も……、もったいないお言葉ありがとうございます!」
出陣の緊張もあったのだろう。感極まって若い兵士は今にも泣き出しそうなくしゃくしゃ顔になっている。
ティジットは微笑みながら、それをほぐすように兵士の肩をぽんぽんと軽く叩いた。そうして、兵士や引き連れてきた護衛の顔を見回した。
「さあ、皆も。今回は強行軍になるだろう。すまないが、この森のために頑張ってくれ」
張り詰めた空気の館の廊下に、兵士のうわずった声と護衛たちの力強い声が反響する。
「はっ! ティジット将軍!!」
兵士たちが顔を上気させ、ますます背筋をぴんと伸ばした。
その陰から、この場に似つかわしくない涼やかな声が上がる。
「えっ? ティジット……将軍?」
どこかで聞いたような声だ。ティジットの目が声の主を探す。
すぐに、体格のいい兵士たちの後ろに小柄な少女が陰になって隠れていたのを見つけた。だらしなく兵士たちがたむろしていたのは、この少女と話し込んでいたかららしい。
何枚もの薄い生地を重ねた白い羽織に白い服。白い被り物。肩から流れる、絹のように艶やかでなめらかな薄亜麻色の長い髪。
イーシュだ。
「……!!」
ティジットは捕縛されたように身を固まらせた。
森を渡る霧のような色。滴る雫のように、光を受けて輝く。
そんな、瞬きする緑青色の大きな宝石が、何か言いたそうにティジットを見上げていた。
今日のその身には、治癒院で付き添ってくれていた時の動きやすい簡素なものとは違い、奥方の前に出ていくのにふさわしい、正装である神官の法衣を纏っている。
その純白の衣のせいか、朝日のせいか、透き通るような肌のせいか、イーシュの周りだけが光をまぶしたように煌めいていた。今朝も、変わらず精霊のようだ。
「……久しぶりですね。あの時はありがとうございました」
硬直に近い体を無理に動かし、ティジットは口を開いた。が、どこか平坦だ。礼を述べながらも、ロクスの息子に対するよりも感情が入っていない。
なにやら親しげな、けれどどこかそうではないような立ち入れない雰囲気をかもし出すティジットに遠慮してか、イーシュを囲んでいた兵士たちが一歩引く。
それに、出陣の直前まで張り付いているようなイーシュの熱烈な信奉者なら、その人がこの若い将軍によって救われ、その後看病していたことも耳にしているはずだ。
仔細知る護衛たちはましてで、軽く会釈をして当然のように距離を取った。
ところが当のイーシュはずっと、無言のままティジットを見つめ、立ち尽くしていた。目をぱちくりとするばかりで、言葉も耳に届いていない様子だ。この場の誰よりも驚き、呆然としている。
「イーシュ?」
流石にティジットも首を傾げた。
周囲の不思議そうな視線には全く気づかずに、イーシュはティジットを上から下まで、そしてまた下から上まで、どこを見ているのか周りが分かるほど、はっきりとそのいでたちを見つめている。
携えた数種の鳥の羽をあしらった錫杖、腰に下げた繊細な細工の片刃の剣、鈍く光る銀の肩当てや胸当て、黒いなめし皮の手甲……。
やっと視線がティジットの顔まで戻ってきて、イーシュは急に耳まで真っ赤に染まった。
「ティジット様……あっ、ティジット将軍……!」
介添えをしてもらっていた時にちらりと伺われていた。イーシュはティジットが将軍だということを知らない様子だった。それをようやく今、知ったらしい。跳ね上がるようにして、両手で口を押さえた。
「……まだ気づいてなかったんですね」
思いがけないことに、ついティジットは軍服には似合わない優しい微笑をこぼす。
白い頬をすっかり紅色に染め上げたイーシュは、手をばたつかせ、何のことかわからない身振りをして慌てふためく。そうして最後には頭を腰の高さまで深く下げた。
「あ、あの……いえ……あんなにおそばにつかせていただいていたのに、どうして気づかなかったのでしょう……ご無礼の数々、申し訳ありませんでした……!」
「安らぎになればこそあれ、無礼など微塵もありませんでしたよ? 将軍だとは私も言いませんでしたしね」
「で、でも……」
否定で繋げようとするイーシュの方が正しい。将軍の名前と顔くらい誰でも知っていそうなものだ。あいかわらず手の行き場に困って、落ち着き無く何度も指を絡め直している。
そこに、いかめしい雰囲気を纏わせた別の兵士が、館の奥から駆けて来て傍に止まる。そしてティジットに敬礼をした。
「ティジット様。まもなく出陣の儀の準備が整います」
「ああ。わかった。すぐに行く」
伝えに来た兵士を見るティジットの顔つきは、最初の厳しいものに戻っていた。
「……。では」
目は何か言いたげに束の間イーシュに留まったが、丁寧に頭を下げると、ティジットはそのまま従者と兵士たちを引きつれ進み始めた。
逆に、それをイーシュが呼び止めた。
「……ティジット様! お待ちいただけますか?」
そう言うと、すでに将軍の顔になっている振り返ったティジットの手を、断りも無く、さっとイーシュは取った。その行動にはティジット本人どころか周りも驚いている。
イーシュはそれを見ることも無く、おそらく気づくこともなく、落ち着き払った動きでうやうやしく石の固い床に膝をついて屈んだ。目を閉じ、武具を纏ったティジットの手の甲を額に近づける。
「ティジット将軍に神のご加護を……」
誰も、声も上げることができなかった。
十数秒の神聖な静寂――光が羽のようにゆっくりと舞い降りる。一瞬前までの可憐な少女が、神々しい輝きを放つ。
イーシュは一瞬で場を作り上げた。
精霊祭の時のように、立ち会った者たちがその一挙一動を、我を忘れて見守る。
皆が圧倒され、唖然とする中、祈りが終わったイーシュは音もなく立ち上がり、頭ひとつ以上も背丈の違うティジットを、まだ神聖の宿る、煙る瞳で上目遣いに見つめた。
そうして手を持ち主に返し、自らの指を組み直して、もう一度短くまぶたを下ろす。
「ご武運をお祈りしております」
それを前にし、ティジットは、いくばくかの放心ののち、諦めたように微笑んだ。
「……あなたには敵わないな」
「え?」
「ありがとう。あなたに会えて良かった。それがなによりの加護になるでしょう」
ティジットは外套をひるがえす。
不思議そうな顔のイーシュが、まだなにか言いたげにその後姿を見送る中、我に返った兵士たちを連れ、再び将軍の顔に戻り去っていった。