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月明かりの精霊舞  作者: ふぇんねる
7/28

5-2

 その日から、言う通り、ティジットの身の回りの世話はイーシュがすることになった。

 ティジットがかたくなに拒むので、着替えや体を拭くことだけはしなかったが、イーシュはありとあらゆる雑事をこなした。

 香草茶を入れたり、代わりに図書館に本を借りに行ったり、食事の介助をしたり……。

 朝には一番に部屋にやって来て窓を開け、夜の遅い時間まで起きていて、蝋燭の明かりを消した。

 ティジットが恐縮するくらい事細かに、けれど嫌味も押し付けもおせっかいもなく、かいがいしく療養を手助けした。あの、まばゆいばかりの微笑みを添えて。

 ティジットが目覚めて今日で四日目、今朝もイーシュは食事の後、せっせと身を惜しまず窓辺の花を生け替えている。

 今日の花は庭先には見られない清楚な美しさを湛えた、まだ朝露の残る野花たちだ。食器を下げたついでの短い時間に、さっと森に出てどこかで摘んできたのだろう。

 今朝からは寝台の上に長時間座っていられるまでに回復してきたティジットが、その様子を眺めていた。

 朝の柔らかな光がイーシュを照らす。

 普段着のその白い服が法衣のように輝いて見えたのは錯覚だ。だが、ふと、そばの花瓶にイーシュが生けた、慎ましく清廉な白い花のイメージがよぎったのは気のせいではない。

 目を奪われていたティジットが、つい漏らしてしまっていた。

「……陽の光に透けるあなたも素敵ですね」

「え?」

 聞こえていなかったのをいいことに、口ごもりながら誤魔化す。

「いえ……精霊祭の時とは印象が違いますね」

「ふふっ、よく言われます。舞の時は精霊を降ろしていますから。その間は、半分は私ではないのかもしれませんね」

 精霊をその身に降ろすことは知っていたが、長年精霊祭を見てきても、そういう風には思ったことがなかった。ティジットは多少驚いて目を丸くした。

「たしかに、あの時のあなたは人のようで人のようではなかった。本当にそこに月の光の精霊が降り立ったような……。兵士たちが『月明かりの精霊姫』と謳うのも当然の姿でした」

 イーシュの頬が、すぐに薄紅色に染まる。

「あっ……そのように言ってくださっているようですが……もうご存知の通り、本当の私はこんな取り立てるところも無い普通の娘なんです。皆さん何もおっしゃりませんが、いつも申し訳なくて……。ティジット様もがっかりされたのでは……?」

 途中から不安そうに瞳を揺らめかせ伺う少女に、ティジットは穏やかな微笑を浮かべてゆっくりと首を振った。

「いいえ? 私を含め、きっと誰もがっかりなどしてませんよ」

「そうでしょうか……」

「それに、舞っていないあなたも普通とは思えません」

「え?」

「たしかに、精霊を降ろしたあなたは神秘的で美しかった。凛として気高い様は、触れると壊れる氷細工のような近寄り難ささえ感じるほどに……。ですが、今のあなたにも、こんなにも柔和で優しい安らぎが満ちている。花や木漏れ日を見るような癒しと眩しさを感じます。私にはどちらもあなたでしかないし、そんな人を他に知りません。やはりあなたは本当に精霊なのではないですか?」

 イーシュが照れて固まっても、ティジットは真面目な顔で続けた。

「あなたがしている心配は無用のものですよ。精霊祭がとうに終わった今でも、皆がまわりを離れないのがいい証拠ではないですか。すっかり魅入られてしまったのですね」

 将軍の付き添いとはいえ、興味を抑えられない兵士たちが、こっそりイーシュの様子を伺っているのを、床から離れられないティジットでさえも気づいている。

 他人事に言っているが、魅入られた顔をしているのはティジットも同じだ。こんなに近くにいても気づかないのは、きっとイーシュくらいなものだ。俗世に疎いと言うのもあるが、きっとそもそも鈍感なのだろう。

「そ、そんなことは……私がここにご厄介になって日が浅いので、皆さん親切にしてくださっているだけですよ」

 イーシュは茹でたように、すっかり真っ赤になってしまった。次の言葉に困って慌てている。切りそろえて余った花の茎を何度も包み直しては、またこぼす。

 きっと、こんな素の姿を見られる機会は、そう多くはないはずだ。

 ティジットが優しい笑みをこぼす。そんな表情は、近頃は珍しい。そしてうぶな少女を困らせた当人が助け舟でもするように話題を変えた。

「いい風ですね」

「えっ、あっ、はい」

 イーシュが開けた窓からは、朝日とともにどこかの草木の爽やかな香りが運ばれてくる。

 今日はよく晴れたすっきりとした空模様だ。この時期にしては気持ちのよい暖かい風も吹いてくる。

 静かでひと気の無い素朴な治癒院の一室、ティジットとイーシュは何か話すのでもなく、しばしその時間を楽しんだ。

 朝の散策だろうか。そのうちに侍女を連れた奥方が、開け放った窓から覗ける庭先を横切る。部屋の中の二人を見つけたのだろう。小さく傾げた首の動きで、遊ばせ流した髪を揺らした。

 ティジットとイーシュは頭を下げる。

 その奥方一行が行き過ぎたあと、残されたように咲く花がティジットの目に止まった。白に薄い藍が差した小さな花と小さな葉が、いくつも茎について風に揺れている。大きくは無いが、草丈がある。遠慮げな佇まいが可憐な花だ。

 ティジットは心地よさげに目を細めた。

「花を眺めるなど……いつぶりでしょうか……」

 そう呟いてそばの椅子に腰掛けたイーシュに目をやると、あの微笑を絶やさない少女が顔を暗く沈めていた。

「どうしましたか?」

 起こすのが精一杯の身を乗り出して、ティジットはイーシュを伺う。その少女はまぶたを硬く閉じ、しばらく口元を押さえたあと、申し訳無さそうに顔を上げた。

「すみません……。故郷のことを思い出してしまって……」

「故郷……」

「はい、西津森ではこの花が咲き始める頃、ささやかですが、花祭りが行われていました。でも、もう……あの野はありません……。血に染まってしまいました……」

 イーシュの言葉はそこで一旦途切れる。

「すみません、珍しくもない野花なのに……」

「イーシュ……」

 イーシュは小さく肩を震わせる。

「西津森の者は故郷を追われ、方々に散りました……」

「……ええ、この中津森にも、故郷を失ってなお、まだ兵として戦うべく、たくさんの方々が志願し、集まってくれました」

「戦を悲しみ、森を去った者もいます。そしてこの世を去った者も……。自刃した者も含め……。まだ私は幸せです。生きることを選ぶことができます。戦場に出て戦うことはできませんが、ただ祈ることしかできませんが、この戦のために、なにかの役に立てればと思い、私も森に残ることを選びました……」

 その悲しみに同調し、ティジットも辛そうに顔を歪めた。

「あなたの為にも……私も戦場にて尽力しましょう」

「ティジット様も戦うのですか?」

 イーシュが驚いてティジットを見上げる。

 目の前の花よりも清楚で可憐なイーシュ。照れたのか、ティジットは謙遜した。

「……ええ、私も術師の端くれです。でも、こう見えて剣を振るうこともできるのですよ?」

「まあ……」

 ティジットが将軍であることは知らないらしい。意外そうに、イーシュが目を丸くした。

 中津森の神官の機関は閉鎖的で、イーシュも精霊祭まで半年、神殿に籠もっていたというくらいだ。元々の性格もあるだろうが、公に館に出入りするようになってまだ二ヶ月経たないせいか、あまり外のことは知らないらしい。

 それに、ティジットの優しく甘い顔立ちや穏やかな物腰は、血なまぐさい戦いの臭いを感じさせにくい。

「あなたの介抱のおかげで、すぐにでも戦場に戻れそうです」

「私は何も……全てティジット様のお力ですよ」

 薄い亜麻色の髪を光に揺らして、穏やかに首を振るイーシュの姿には、まるで術かなにかのような不思議な輝きがあった。

 その眩しさが苦しいように、しばらく見つめていたティジットが吐息を漏らす。

「この蛇の痕跡が消えても……また、あなたに会えるでしょうか? 私は知らず、契約でもしてしまったのかもしれません。まるで蛇は、手の届かなかったあなたとの逢瀬を叶える闇の使いのようです」

「ふふっ。ええ、会えますよ。いつでも。ティジット様は面白いことを言いますね」

 さきほどは似たような話題に耳まで赤くなったのに。今度のイーシュはそう言うと、ふんわりと微笑んだ。本気にしていないのだろう。肝心な時に。

「香草茶のおかわりをお持ちしますね」

 盆を持ち、部屋を出るイーシュの後姿を、溶かされたような顔をしたティジットが、衣服のはためきすら記憶できるほど、ひたすらに見つめていた。



 それから十日ほどした、ある夜の就寝間際だった。

 寝台でティジットが静かに読書する病室に、いつものようにイーシュが部屋の明かりを消しに来た。

「消灯の時間です。また明日お伺いしますね。おやすみなさいませ」

 蝋燭に手をかけようとするイーシュを、幾分緊張した声が止める。

「待ってください。話があります」

「話?」

 イーシュは燭台をそのままにして離れ、ティジットのそばにやって来る。ティジットも改まって身を整え、寝台から足を下ろした。そしておもむろに口を開く。

「……そろそろ私の付き添いは結構です。どうぞ神職の仕事の方に戻ってください」

 イーシュは目をぱちくりとさせた。当然の理由があった。

「えっ? でも私が見た限り、失礼ですが……まだ足元がふらつかれています。完治されていないようです」

「いいんです。これまでありがとうございました」

 ティジットは笑ったが、その言葉も態度も妙にそっけない。

 急に、イーシュの瞳が揺らいだ。

「……私がお邪魔でしょうか?」

「え?」

 驚くティジットの前で、イーシュは小さな拳を握り締めて、わずかに震えた。

「最後までおそばに置いてはくださいませんか? 私のせいでこんなことになって……疎ましく思われるのも仕方ありませんが……」

 イーシュの呼吸が乱れて、堪えきれなかったらしい涙の吐息が漏れた。

 目を丸くして珍しく慌てたティジットが、言葉とせわしない手振りでイーシュを止める。

「違います。違いますよ。イーシュ。そんなつもりはありません」

「ではどんなでしょうか……ここ数日、ティジット様がよそよそしく感じられていました。あまり話しかけてもくださらないし、目も合わせてはくださらない……」

 それは気のせいではない。ティジットがぎくりとした顔をする。

 崩れるようにイーシュは寝台の脇に膝をつき、祈りの形に手を組んでティジットを見上げた。

「私は……どうしたら身を犠牲にしてまで救ってくださったティジット様に償うことができるのでしょうか? 鬱陶しいのであれば、そうおっしゃってください。気に障るところをお教え下さい。望まれるようにいたしますから」

 それを横目にティジットが唇を噛む。そうして先ほどイーシュが言った通りに目を合わせず、そらした。

「あなたはなにも変わる必要などありませんよ。それに……奉仕や償いなら、私こそすべきです。あなたの肌に触れた罪は重い」

 途端にイーシュの頬が紅色に染まった。

「やはり、あなたは私があの時なにをしたのか憶えているのですね」

 ティジットが苦笑する。共に過ごすうち察していた。

 頬を押さえるイーシュは、床に話しているかのようにうつむき見つめる先に言う。

「……し、しかし、あれは、あのことは、ただの治療です。神も分かっておいでです」

 イーシュはティジットを弁護しているのだろう。けれども、そうされた人の顔はどこか奇妙に引きつった。

「ええ、治療ですよ」

 そうティジットはぽつりと呟く。だがすぐに、頭を何度か振って掻き消した。次の発言を急ぐ。

「でも、あなたや神が許しても、私が私を許せないのです。それしか手段がなかったとはいえ、私の心は、わずかにでもやましく揺れました。……いえ、わずかどころじゃありません。一瞬でも心を覆ってしまいそうなほどでした。証拠に今でも、あなたの白い柔肌をいたぶった甘美な感触が、この舌に残っているのです」

 言葉とは反して、極めて冷静に言いながら、ティジットは自らの赤い舌を出してそっと自分の指を舐めた。あの時の感触を思い出すように、なまめかしく。

 言った言葉は嘘ではない。けれど、それはどこかわざとらしかった。

「あ、あの……」

 多分、イーシュはその違和感に気づかなかった。

 どう答えていいのかわからなかったのだろう。言葉にならない声をいくつか漏らしたあとは、紅潮しきった顔を手で覆って固まってしまった。

 それを前にしてもティジットは決して語気を乱したりすること無く、淡々と続ける。

「とにかくイーシュ。あなたが疎ましいということでは決してありません。あなたの厚意をいいことに、甘えすぎていたくらいです。体の方も、もう大丈夫です。誰かの介添えを必要とするほどではありません。ですから、明日からは元通り、あなたはどうぞ神の下に還ってください。今日まで本当にありがとうございました。感謝の気持ちに偽りはありません。……機会があれば、またお会いしましょう」

 神の下に、という表現にいささか面食らっていたイーシュだったが、こうまで冷静に語られては、これ以上食い下がることができない。それにティジットの声には、今は普段通りの、将軍らしい反論を許さない強さがあった。

 少女は素直に、けれど寂しそうに身を正した。

「お礼をいうのは私の方です……。ティジット様、ありがとうございました。あなた様は命の恩人です。私の方はいつでもお待ちしております。もしどこかで見かけることがありましたら、どうぞお声をかけてくださいね……?」

 気遣って遠慮したのだろう。イーシュは自分から声をかけるとは言わなかった。

 そうしてゆっくりと立ち上がり、華奢な体をいつもよりもさらに小さく見せながら、深々と綺麗なお辞儀をしてそっとその場を立った。

 ぱたん。という扉の音が響き、イーシュの静かな足音が遠ざかった後は、もう梟の鳴く声しか聞こえない。

 部屋には、今、そこにいた少女のように悲痛に顔を歪めるティジットがいた。

「目も合わせてくれない、ですか。ずいぶん簡単に言います」

 ティジットは笑みを浮かべる。自嘲だった。

「あなたは知らないでしょうね。もちろんです。気づかれないように、本当は、ずっと、ずっと見つめているんですよ? ……私の視線だけで、イーシュ、あなたが穢れてしまいそうなほど……。知れば知るほどあなたは全てが美しい。眩しすぎて、とても目なんて合わせられませんよ……」

 イーシュにはこの想いは俗世すぎる。汚らわしい。とでも言いたげな自虐に圧迫されて、ティジットは目を伏せる。神の下に、などと大げさなことを言ったのはそのせいだった。

「私は兵の命と森の命運を預けられた将軍です。……夢を見ていた。そういうことにいたしましょう」

 そう呟くと、ティジットは深く息を吐き、この過ぎた日々をもう一度味わうようにそっと目を閉じた。

 それは幸せそうで、どこか辛く寂しそうな顔だった。




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