5-1
あたりは薄明るく、白い霞に包まれていた。他には何も見えない。
ティジットはそこに消えかかる人影を追いかけていた。
「待ってください!」
何も無い空に何度も手を伸ばす。冷たいだろう霞は、なぜかもったりと暖かい。
あわや消えうせそうな、そんな心許なさを十分味わった末、やっとのことで目当ての者を捕まえる。
「ああ……」
後ろからしっかりと、けれど優しく抱きとめた華奢な柔肌の感触に、逆に溶かされて深いため息を漏らす。
「イーシュ……」
追いかけていたのはイーシュだった。薄い亜麻色の細く長い髪が腕をくすぐる。ティジットはゆっくりと、黙って動かない少女をこちらに向かせた。
長いまつげで伏せられた瞳。
そっと、花にでも触れるように優しく、頬染めうつむく少女の細い顎に手をかける。
「……イーシュ、あなたの瞳の色をどうか見せてください……」
それに応え、少女はゆっくりと顔を上げ、まぶたを開いた。
◇
そこでティジットは目を覚ました。
見えるのは見慣れない模様の石の天井。揺れるカーテン越しに柔らかく差し込む午後の光。微かな香草の香りも鼻をくすぐる。耳に届く音は微かで少ない。
体は清潔な色をした布のかけられた寝台に横たわっていた。知らぬ間に運ばれ、寝かせられていたらしい。
ゆっくりと身を起こす。
すると額に乗せられていたらしい濡れた手ぬぐいが膝に転がり落ちた。誰かが看病していてくれたようだ。
「うっ……」
急に顔をしかめて、ティジットは頭を重たそうに押さえる。
その指の隙間から覗く狭くはない部屋には、ティジットがいる寝台と、そのそばには簡易的な椅子がひとつ、そして壁際にぎっしりと薬草類が並べられた背の高い戸棚がある。
意外にも知らない部屋ではなかった。館の治癒院の一室だった。
安堵の表情も束の間、ティジットが自嘲の笑みを浮かべる。
「……夢、ですか……」
どうりで甘美なわけだ、とでも言いたげに。
物音に気づいたのだろうか、開いていた部屋の扉の向こうから、若い娘の慌てた声が聞こえて来る。
「ティジット様!? 気が付かれたのですか!?」
澄んだせせらぎのような透明な声だ。それにはどこかで聞き覚えがあった。まさかという顔をティジットは声の方に向ける。
薄い亜麻色の長い髪。
透き通るような白い肌。
長いまつげに煙る、大きな瞳。
熟れた果実のようにみずみずしい唇。
それは今しがたティジットが夢に会っていた少女その人だった。
「イーシュ……ですか?」
見たものを信じられなくて、わかりきっているはずの質問をティジットはする。
イーシュは今日は神官のいでたちではない。法衣と同じように白いが飾りけのない簡素な服、その長い裾をはためかせてティジットのそばまで駆け寄ってくる。
そうして辿り着くと、脇に崩れ落ち、両手で顔を覆ってわっと泣き出した。取りに行っていたらしい水桶も手ぬぐいも入口に置き去りだ。
ティジットは抱え込むように押さえていた頭を無理に上げて、イーシュから見えてもいないのに強張りを隠して笑顔を作った。
「イーシュ、大丈夫です。大丈夫ですから……顔を上げてください」
髪に隠れて涙を拭いたイーシュの手が膝に落ちた。
ティジットがはっとする。
うつむき目を伏せたイーシュ。夢と似ていた。
知る由のない少女が、ゆっくりと顔を上げる。ティジットにその瞳の色を見せる。
「よかった……もう三日も目を覚まされないので、私……」
「……!」
何の躊躇もなく、まっすぐにティジットを見上げたのは、潤んだ鈍い青緑色の大きな瞳だった。
森と、森を渡る霧にも似た不思議な色。
夢にまで見たイーシュのその瞳の色。
「あなたの瞳は……なんて綺麗なのでしょう……」
ひと目で心を全て奪われて、搾り出したティジットの声は震える。けれど幸か不幸か、イーシュにはうまく届かなかった。イーシュは小さく首を傾げ、何事もなかったように、細い指で何度かまた涙を拭う。
緑に少し青を足した色の、涙を湛えてきらきらと輝く瞳が伏せられて、ようやくティジットは正気に返った。
それでもとてもこの近距離でイーシュを直視できず、視線に困ってあたりを見回す。意識混迷の時以上に、意識のはっきりした今のイーシュは、みずみずしい純白の花のようにますます可憐だ。
「ここは……治癒院ですよね? 私は一体どうやってここまで……」
「ティジット様は私の手当てが済んですぐ、倒れられたそうです。それから三日、激しくうなされながら意識を失われておられたのです……。奥方様や長様方がおっしゃるには、蛇をいくらか取り込んでしまったのではないかと……」
涙を堪えた、たどたどしい口調でイーシュが言う。ティジットは額に手を置いた。
「三日……あぁ……思い出しました。治癒院までは自力でたどり着けると思ったんですけどね……」
「そんな、無茶ですよ!」
いきなりイーシュが膝立ちになって、ティジットの眼前にその花のように芳しい顔を近づける。涙と興奮で、頬が薔薇色に染まっている。
「そうだったようですね」
危機感の無いティジットの緩んだ表情に、イーシュは困った顔を返すばかりだ。
そのティジットが急にはっとする。
「私は……うわごとで何か言いませんでしたか?」
思い出したのだ。今しがたまでイーシュの夢を見ていた。名前も呼んだ。
おそるおそる様子を伺ったが、当の少女はきょとんとしていた。
「誰かを呼ばれていたようでもありましたが、聞き取れませんでした。どうかなさいましたか?」
「……いいえ、ならいいんです」
胸を撫で下ろし、ティジットはわずかに頬を染めた。イーシュがまだ不思議そうに見つめている。そうしてまた気づいた。
「ということは……あなたが、看病してくださっていたのですか?」
「看病というほどではありませんが、院長様に無理を言って、昨日から付き添わせていただいております」
なぜか申し訳なさそうに、イーシュは視線を落とす。ティジットはそれとは別の理由で眉根を寄せた。
「大丈夫なのですか? あなただってまだ病み上がりじゃありませんか」
「ティジット様こそ……。奥方様から聞きました……私などの為に……」
何度も細かく首を横に振り、それ以上言葉を続けられずに、イーシュはまたしくしく泣きだしてしまった。申し訳無さそうにしているのは、そのせいらしい。
ティジットはつい、その少女の細い肩に無意識に手を伸ばしかけて、慌てて悟られぬよう引っ込めた。
「私なら大丈夫ですよ。いつも防護の術をいくつかあらかじめかけていますから、今もきっとどれかが効果を発揮しています。取り込んだのは本体ではなく残骸ですから、三日のうちに、おおかた効力を失っているようですし。いくつか他の術も試していれば、いずれ体力も戻るでしょう。……それに私は、あなたよりかは丈夫にできている」
イーシュが表面だけで生死の境をさまよった蛇の欠片を、体内に直に取り込んで本当に無事なわけはなかったが、平気なふりをしてまたティジットは微笑んで見せた。
「自分を責めないでください。私が自ら望み、選んだことです」
ティジットの顔は清々しい。
見上げるイーシュの瞳から、留めきれなかった涙が一筋こぼれた。感謝だろう。
それを幸せそうに眺めていたティジットが急に青ざめて、顔をそむける。苦い物を含んだように口元を押さえ嗚咽を漏らす。
「っ……」
「ティジット様!」
さっと立ち上がり、イーシュが優しくティジットの背を撫でる。
吐き気を飲み込み落ち着くと、ティジットは残念そうにため息をついた。
「……あなたとはもっと綺麗な出会い方をしたかったものです」
「え? ……あの?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
目をぱちくりとして見返すイーシュに、疲労した顔のティジットは、今度は自嘲気味に笑った。
その、お互いを見つめ合った静寂も、わずかで騒がしい物音に取って代わる。
扉の前を通りかかった治癒院の医術士が、ティジットが起き上がっているのを見つけたらしい。
「院長! ティジット様が目を覚まされたようです!!」
慌てふためいた、けたたましい足音を立てながら、治療院の院長と医術士がやって来た。イーシュが会釈をして、寝台から離れて壁際に下がる。入れ替わりに、蛇の一件から数日振りに会うらしい院長が、ティジットのそばに進み出てきた。
「ご気分はいかかですか? まったくティジット殿には恐れ入りましたよ」
院長はすっかり尊敬のまなざしだ。口調もこれまでにないほど親しい。
「意識さえ戻られれば、薬草や香草で症状を緩和することもできましょう。なんなりと、いつでもご用命ください」
院長が直々に熱や脈を計るなど、ティジットの様子を診ている間に、部屋の外で待機していた数人の看護士がざわめいた。
「あっ、奥方様!」
急に背筋を伸ばした一同は深々と頭を下げ、ぱっと道を開く。
その間を、ドレスの裾を波打たせながらさっそうと奥方はやってきて、ティジットの寝台のそばに立った。その顔は呆れ果てていた。
「全く……無茶するわね。いくらあなたしか頼れない状況だったとはいえ、あの蛇を取り込むかもしれない方法を取るなんて……。それも危険を承知で……。あなたが眠っていた間に、アンデルア軍の侵攻の知らせが届き、戦場にはエイクに出てもらいましたよ」
奥方が遠慮ないため息をつく。ティジットはうなだれるしかない。
「申し訳ありません……」
「まあ、いいわ。わたくしも薄々ですが、察していなかったわけではありませんから」
「奥方様……」
「あなたのしたことは、人としては間違いではないわ。困っている人を捨て置けないなんて、あなたらしい選択だわね。イーシュは深く感謝しているようよ。懇願してあなたの看病を買って出るくらいね」
それを聞いてティジットがイーシュに目をやると、その少女は恥ずかしそうに部屋の隅でそっと控えめに頭を下げた。その間も奥方はティジットを深々と観察していたらしい。
「その様子だと、しばらくエイクには戦地で頑張ってもらわないといけないようね。……早く体を治しなさい」
奥方はそう言い残し、早々に部屋を出て行った。その背中に深々と頭を下げ、もう一度ティジットは呟く。
「……申し訳ありません」
奥方が激怒しているように見えた者もいたかもしれない。
けれどこれは奥方の優しさだ。短い時間で去ったのは、まだ本調子ではないティジットに気を使ったからだろう。
証拠に、きびすをかえす間際の奥方の顔に、一瞬だけれども確かに笑顔が滲んでいた。再び、「ありがとう」とでも言うように。
治癒院の者たちも奥方にならって、すべきことを終えると静かに部屋を出て行った。元々、治癒院の医術士も神官も、蛇そのものには手が出ない。患者の回復を支援するだけだ。
部屋には前のようにティジットとイーシュだけになった。
壁際にいた少女が、先ほどの水桶を持って、そっとティジットのそばに戻ってくる。
「お体が元に戻るまで付き添わせていただきます。どうぞ御用は何でもおっしゃってください」