4-2
精霊祭から一ヶ月も過ぎ、浮き足立った雰囲気もすっかり落ち着いていた。
館は普段の通りの緊張感を取り戻し、物々しく兵が行き来し、奥方の部屋の前の廊下を伝令が駆け抜ける。兵士たちの訓練室からはいつも武器がこすれあう音が絶えない。
アンデルア皇国の方も、まだ侵攻を始めないまでも、砦の動きが騒がしいとの報告もちらほら入るようになっていた。
イーシュの噂は相変わらずだったが、仕事の途中のイーシュを足止めする不謹慎な輩はいなくなった。ついに奥方からきついお叱りがあったのだろう。もともと規律には厳しいお方だ。そんなことが行われていると知ったら、許すはずが無い。
ところが、そのイーシュ本人が、何日か前から見かけられなくなっていた。
奥方に事情を聞く勇気のある者はどこにもいないらしい。それとも、秘密にされているのだろうか。誰も答えを知らなかった。
男たちはそわそわ落ち着きなく、いつも少女が通る道を一日に何度もさりげに確認する。
ティジットも私室から中庭を見下ろす時間が増えていた。
そんなある夜、館にあるティジットの部屋の戸を急くように激しく叩く者があった。
就寝の鐘が鳴ってずいぶん経つ。誰だろうか。こんな夜更けに。
そう訝しがりながら寝台から降り、寝着のローブを少し直してティジットは扉を開けた。
「はい?」
細く開けた扉の向こうの闇の中、そこにはなんと奥方がいた。その後ろには護衛と見慣れない神官が一人ずつ立っている。
「ティジット、ちょっと来て頂戴! 身なりには構わないでいいわ。急いで」
返事を待たずに、奥方は早足でどこかへ向かっていく。
ティジットもさっとそこらのものを羽織って、奥方の後を追った。
暗い渡り廊下の窓からは、空に流れの速い暗雲が立ち込めているのが見える。月も星も隠されている。なにやら、あまり芳しい雰囲気の夜ではない。湿気を帯びた、気持ちの悪い風も吹く。
追いついたティジットは奥方を心配げに覗き見た。眉を吊り上げたその顔色が良くない。
「奥方様……アンデルアに何か動きでも?」
「違うわ」
奥方はきっぱりそう言うと、ますます表情を曇らせた。
「あなたに治してもらいたい人がいるのよ」
「しかし……私は医者ではありませんが……。それに、治療でしたら治癒院の医術士や神官の方が……」
ティジットはわずかにたじろいた。そうして、後ろをついてくる神官をちらりと見る。
奥方はその声にかぶせるように早口で返す。
「ええ、それは十分承知よ。けれどもう方法が無いの。何日も前から医術士にも診せたし、神官にも診せた。あなた、攻撃に特化した術士でありながら、戦場では治癒術をも施すと聞いているわ」
「はい。しかし、人手が足りない場合の緊急処置です。効果はありますが、命を落とすよりかはいいという程度のものです。それに私の独学ですので、色々不完全な面も……」
ティジットの話を聞いてなお、奥方は依頼を進めようとする。
「構わないわ。薬ではなく、どういったものでもいいから、術的処置を求めているの」
「それでしたら館付きの術士長の方が私より……」
「術士長にも診せたわ。……ああ、そうだわ、言ってなかったわね。将軍職さえなかったら、あなたに術士長を任せようと思っていたのよ、わたくし」
「……」
ティジットをようやく黙らせた奥方は、道すがらこの事態を簡単に説明し始めた。
「何日前になるかしら……、あの日は珍しく、気まぐれに護衛や侍女たちと北の森に出ていたのよ。湖を眺めにね。侍女が教えてくれたの。最近、馬車で見かけただけだけれども、美しいところがあると。でも湖に着いてすぐあったわ。突然、人の身の丈ほどもある黒い蛇のようなものが、わたくしの脚に絡み付いてきたのよ。もちろん護衛が剣や術を振るったわ。けれど剣は蛇をすり抜け、術は蛇を焦がしはしたけれど、燃え尽きさせることはできなかった。そこでようやく皆気づいたわ。実体の無い蛇だと」
奥方が重苦しい息を漏らす。
「蛇は攻撃されて怒り狂ったわ。わたくしを頭から飲み込もうと足から離れ、大口を開けたの。そこにとっさに……そばにいたある供の者が、わたくしをかばって蛇に喰われてしまったのよ。供の者の全身を飲み込んだ後、蛇の姿はすうっと薄くなって消えたわ。けれど、身代わりになった供の者の身体には蛇の刻印が残っていた……」
奥方は、ドレスの端が皺になるくらい、ぐしゃぐしゃに強く握る。
「後からよく調べたら、その湖の古い水蛇の祠が荒らされていたの。誰が、いつから、なんてことは分からないわ。その蛇のこともね。ただ私たちは通りかかっただけなのだけど、関係無かったのだわ。きっとこれはその水蛇の祟りでしょう……」
ついに奥方は堪えていた嗚咽を漏らした。
知らない場所には不用意に行くものではない。奥方ともあろう者ならなおさらだ。それは今は改めてよくわかっているのだろう。眉間の皺の深さが、その自責を物語っていた。
「医術士や神官の技では一向に良くならないの。日に日に蛇は心臓に向かって進み、供の者は衰弱していくわ。もう今日は目も覚まさなかった……」
奥方にこれ以上話をさせるのは酷だった。言わないが、要は、藁にもすがる思いなのだ。
事情を把握したティジットの瞳には、もう迷いは残っていない。
「力になれるかどうかはわかりませんが、尽力しましょう」
そう答えることで、奥方はいくらか救われる。
駆け足でやって来た奥方とティジットたちは、ようやく館の離れの建物に着いた。
小さく簡素だが、清潔そうな石造りの小屋だ。円形の一階建てで、屋根は小さな塔のように先が尖っている。外装から察する限り、神官の管轄下の物のようだった。
案内され、その小屋の中に入ると、いきなり奥を隠すようについたてがあり、その向こうに供の者が横たわっているだろう寝台と小机が覗けた。
そのそば、患者を気使っての蝋燭一本の薄明かりの中で、何人かの付き添いの者が入ってきた奥方とティジットを振り返り、深々と頭を下げる。
ここはどうやら特別な身分の者や、特に重篤な者の為に、神官たちが使う治療室らしい。
閉鎖的で厳格な神官の機関に入るのは、ティジットも初めてのことだった。
見たこともない人体の経絡図や、薬を作る為だろう道具、擦り切れかけた分厚い本がところ狭しと並んでいる。物珍しさから、奥の寝台までの僅かな距離も、あたりの様子を伺ってしまう。
そうしてようやくたどり着いた寝台で、ティジットはそこに寝かされた人を見て驚愕するのだった。
それはイーシュだった。
しかし青ざめ、身動きしない。息は早く熱いのに、水の中に引きずり込まれたように寒そうな体はぐったりとしている。もう震える力も残っていないのだろうか。
言葉を失っているティジットの反応を見て、半分察したような奥方が言う。
「神官のイーシュよ。精霊祭での舞……ティジットは憶えているかしら?」
説明は無用だ。ティジットも彼女にやられたクチだ。搾り出したような声で答える。
「ええ……もちろんです」
「お願いね。わたくしが言うのもなんなのだけれども……あの舞を二度と見られないものにはしないでね」
こんな悲痛なまでの奥方は今まで見たことがない。
どこまでできるかはティジット自身にも分からなかった。だが、それをここで言葉にすることは、奥方を思うならできなかった。ティジットは、ただしっかりと頷く。
付き添っていた者たちが、そっと席を立ち、ティジット一人分の隙間を空けた。
燭台のかすかな明かりのそばでよく見れば、そこにいたのは儀式でも良く見かける神官長と、治癒院の院長でもある有能な医術士、それに術士長だった。彼らはすでに、どこか諦め顔だった。ティジットに同情の表情を浮かべている。
治療にかけてはこの森で比類なきそうそうたる面々に、申し訳なさそうにティジットは一礼をして、寝台に近づいた。
衰弱して力無く横たわるイーシュ。
薄い亜麻色の髪は冷たい汗に濡れて乱れ、苦しげに目を閉じ、小ぶりの唇を震わせ潤ませる様は、どこか官能的でもあった。
こんな時に不謹慎だとでもいうような、自身に対する困惑を浮かべながら、理性を保つために、ティジットは頭を強く振る。
ティジットよりずっと年上の、壮年を越した術士長が不思議そうに声をかけてきた。
「ティジット殿、具合でも?」
「いいえ、なんでもないんです。……少し眩暈がしただけです」
眩暈は本当だ。鼓動も、はちきれそうなほど早い。薄明かりで誰も気がつかないだろうが、頬も紅潮しているはずだ。あれほど毎日心惹かれながら眺めていたイーシュを初めてこんなに間近して、正常でいられるはずがなかった。必至に冷静に振舞おうとするが、指先が動揺で震える。
なんてちぐはぐなのだろう。これほど心はイーシュに近づけた高揚の中なのに、それは、今は拷問に近いものになっていた
ティジットがなかなか動き始めないので遠慮しているとでも思ったのだろうか。後ろから奥方の鋭い声が上がる。
「さあ、長たちは下がって。ティジットが恐縮してしまうわ」
その呼びかけに従って、居並ぶ長たちはすっと部屋の隅にまで引いた。寝台の脇にはティジット一人が残される。
なるべくイーシュの容姿や自分の感情には気を取られないようにして、先ほど同様の固い顔つきをかろうじて保ったティジットは、もう一度じっくり寝台の上の人を見下ろした。
イーシュは先ほどと変わらず、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。
「……患部を診せていただけますか?」
蛇の刻印のことだ。問いかけるが、奥方が目を覚まさないと言った通り、イーシュの意識は無いようで、返事は来なかった。
ティジットはためらいがちに奥方を仰いだ。
「……よろしいでしょうか?」
「服の紐を解くのに躊躇しているの? ティジット、相手が巫女だからといって遠慮することはないわ。いつも戦場で兵士たちに施すようにやって頂戴」
巫女だから、ではないのだが、ティジットは頷いた。
奥方の話では、水蛇とおぼしきものは心の臓を目指しているという。襟から覗けるイーシュの白い首筋にも、それらしい漆黒の蛇の尻尾が見えていた。
震える手で、イーシュの上着の紐の結び目を解く。
合わせた身ごろの左側をそっと開くと、いとも簡単に、ふっくらとした白い柔肌のふくらみの一部が垣間見えてきた。そこには同時に、漆黒の蛇の頭が、心臓を喰わんと大きく下顎を広げている。
ティジットはそれを確認すると、蛇を残してなるべく露出を控えるように衣服を折りたたんで、イーシュの体を隠した。
ティジットの顔つきが戦場でのものに似通う。もうすっかり煩悩は消えていた。
じっと、蛇を観察する。
喉もとから胸にかけて、禍々しい臭気を放つような闇色の蛇は、まるで刺青のようにそこにいたが、時折、空間を歪ませて舌をちろちろと出して見せたり、わずかに身をくねらせたりもする。肌の組織が喰われているのではなさそうだ。
それが分かっても、口にはせず、しばらくそのままティジットは微動だにもしなかった。
蝋燭の炎が揺れる音が聞こえてきそうなほど、部屋はしんと静まり返っている。
待ちかねた奥方の長いドレスの衣擦れが、ティジットをはっとさせ顔を上げさせた。奥方がその顔の表情を伺っている。
「どう?」
ティジットは重そうに口を開いた。
「……。たしかに祠の水蛇かも知れません。古い古い波動を感じます。言葉は汲み取れません。通じないと言った方がいいのかもしれませんが……」
術士長や神官が頷く。それはとうにわかっていたことらしい。
ティジットはその反応を見て、逆に安心していた。やや緊張を解き、続ける。
「蛇の思念体系や術的なことはわかりません。けれどひとつ気になることが。蛇は肌の薄皮一枚の中にいるようです。時折イーシュの身体からはみ出してもいるようです。物理的な状態ではないので正確な表現ではありませんが……。蛇はイーシュを喰ったのかもしれませんが、もしかしたら神聖な精霊を宿すほどのイーシュの肉体の深部にまで入り込み、繋がることはできなかったのではないでしょうか」
奥方が考え込んでいる。
「わたくしだったら、そうなっていた、ということかしら?」
「失礼ですが、おそらく。その場合、恐ろしいことですが、蛇のこうべは瞬時に心臓まで達していたかもしれません。奥方様ではなく、イーシュが身代わりになったのは、もしかしたら不幸中の幸いなのかもしれません」
奥方や術士長たちが否定的にううんと唸る。術士長が、少し攻撃的な調子で口を開いた。
「私にはこれは、シンボルに過ぎないように思うのだが……」
隣で神官長や院長も頷いている。
「つまり、実体はすでに肉体全てと重なり合っていると?」
「そうだ。でなければここまでの状態になるはずがない」
意見が対立する。
中でも、なぜか術士長だけが、どこかいがいがとしている。もしかしたら奥方が、実はティジットを術士長に据えようとしていたのを知っているのかもしれない。
顎を揉みながら、ティジットはもう一度寝台の上のイーシュを険しい表情で見下ろした。
「どちらにせよ……少々危険ですが、もしかしたら今この場で、蛇を引きずりだせるかもしれません」
まさかというどよめきが起こる。ティジットをぽつねんと残して、術士長はじめ、皆が口々にお互いを見回しながら持論を展開し始める。話がまとまらない。
扇が膝を打つ音がそれを静まらせた。奥方だ。
「論議はいいわ。このままでは朝までに心臓を喰われてしまうでしょう。時間は無いわ。ティジット。失敗しても誰にも責めさせません。早速やって頂戴」
術士長たちは懐疑的だったが、奥方には逆らうことはできない。それに正論だ。
ティジットはそうそうたる長たちが見守る中、より寝台のそば近くに佇み、そして意識のないイーシュに丁寧にお辞儀をした。
「……失礼いたします」
ためらいがちにそう言うと、一度礼のために下げた頭を再び同じようにまた下げ、おもむろにティジットはイーシュの胸のふくらみにかぶりついた。意識のない少女の体が、ぴくりと震える。
ますます長たちはどよめいた。
奥方だけは尖らせた瞳で鋭く全てを見据えたまま、微動だにしない。
顔を沈めたままの、灰色の長い前髪に見え隠れするティジットの口元が、イーシュの素肌を食むように動いた。隙間から、赤い舌が柔肌をいたぶるのが時折覗ける。
「ティ、ティジット殿……!」
いさめようと、幾分顔を赤らめた術士長が呼びかけた青年の肩に手をかけたその時。
髪を振り乱したティジットが勢いよく顔を上げた。その口元に咥えているものに驚き、一同が揃えたように、「あっ」という同じ声を漏らす。
蛇のこうべだった。
ティジットに噛み付かれ押さえられている。
その体の半分も無理矢理引っ張られて、すでに現出していた。イーシュの上半身から湧き立ったように奇妙な形で生え、黒くうねる。
大きさは肌に浮かんでいた時とは比べものにならない。まだその身はおそらく半分近くイーシュの体に残っているというのに、すでに両手を広げた程になっている。太さはよく鍛えられた男の二の腕よりもあった。先ほどまでせいぜい指先から肘くらいまでの長さに過ぎなかったというのに。
それを眺める間髪も入れず、もがく暴れのたうつ忌まわしいものを、ティジットはそのまま全体重をかけて再び強引に、一層歯を立てて引く。
「っ……!!」
先回は一同が漏らした声で掻き消されたのだろうぬめる音と共に、糸でも抜くようにずるりと、残りの蛇体がイーシュから引きずり出された。ようやくその全貌が明らかになる。
大人の身の丈と同じほどの大蛇だ。それは奥方が初めに見たときの姿だ。
「な……!?」
術士長や奥方たちのどよめきの中、こうべを押さえられたまま蛇の体は逃れようとあがき、宙で無尽蔵に暴れる。
イーシュの胸では黒い影のようだったが、今は元のように実体を持っている。あたりを尾で打ち鳴らし、水瓶を割る。その陶器のかけらが、派手な音を立てて辺りに散らばる。
場は騒然となり護衛が奥方の前に躍り出た。長たちも身構え、すでに術の詠唱を始めている。
そこに突然、骨が砕ける大きな嫌な音が部屋中に響いた。
見開いた一同の目がティジットに集まる。
その青年は口からだらりと蛇を垂らしながら、苦い顔をして歯を擦り合わせている。それが済むと、舌で押し出してその長い物体の頭を床に吐き出し捨てた。
どさり、というあっけない音がして残骸が転がる。歯型のついた蛇の頭が、苦しむような大口を開けて潰れている。どうやら蛇の頭を噛み砕いたらしい。骨などないはずなのに。
皆の反応をよそに、すぐさまその黒い水蛇は粉のように細かく分離し始め、最後には黒い霧となり、雲のようにどこかに散じた。
部屋は静まり返った。
一同が呆気にとられて立ち尽くしている。
「一体、どうやって……?」
ティジットを取り押さえようとしていた術士長が、夢か幻でも見ていたように目をしばたたかせている。
「どう……と言われても感覚でとしか……」
ティジットが肩をすくめる。
「それになぜ歯で噛み砕けたのだ?」
「奥方様も初めは足に絡まったとおっしゃっていました。憑依を外すと実体化するのではないかと思い、あらかじめ歯に魔力を込めておいてやってみただけです」
「では、なぜ口で?」
「手では逃げられると思ったからです。それにいざという時に術も使えない。それに水蛇なら水気……つまりこの場合唾液ですが、それを好むのではないかと、これも思っただけですが」
「……思った思ったか……」
術士長が頭を押さえ、ぶんぶんと振りながら苛々した顔で唸っている。
「しかし実際、蛇は行き先を変えて、喜んで私に入りこんで来ようとしていました。やはりイーシュに取り付くのは、蛇にとっても苦労だったようです」
「理論はどうなるのだ!? 確証はあったのか!?」
「いいえ……。もともと私は攻撃の術を専門に習得してきましたので、解呪とか治癒とかには理解がないのです。ただ、それでも術士ではありますから、邪道なりに感覚的に見えるものがあったので……。ですから、理論とかおっしゃられても……」
ティジットが困っている。
みかねた神官長が、二人の仲裁に入るように進み出てきて、ようやく発言した。
「確かに、術も精霊を降ろすのも、理論では説明しがたい……。感覚的なものだ。未だ全てを理論化できない我々には、こういった窮地では、その感覚こそがもっとも当を得、力となるものだ」
救い舟を出されてティジットは、そっと感謝の微笑を浮かべ、神官長に軽く頭を下げた。
「特別な技術ではありません。術で生成した炎を扱うのに似ていました。術士長殿がやられたほうが、もっと上手くできたかもしれませんね」
気を使ってティジットがそう言ったのが皆によく分かるほどで、術士長はそれ以上咆えることができなくなってしまった。悔しそうに震えるその肩を神官長がぽんぽんと叩く。
「我々も年を取りましたな。思い切りがない。おまけに頭も固くなってしまった」
術士長は苦く歪めた顔を、忌々しげにうつむけた。その横で神官長は頼もしい若手の出現に、多少恥ずかしそうに、だが嬉しそうにほっほっと笑う。
「しかし、本当に邪道でしたな。戦場では毒抜きと共に呪抜きをされるとか……その応用なのでしょうが、一歩間違えば蛇に喰われかねない行為でしたぞ?」
ティジットの表情が少し翳った。が微笑む。
そのやりとりを奥方が厳しく見つめていた。イーシュが救われ、安堵したはずなのに。
「……ティジット。あなた、もしかして……」
「……」
なぜかティジットは表情を殺す。いつもなら、奥方にこんなことを言われれば誉れから恍惚の笑みを浮かべるだろうに。
奥方の方も、なにかを含ませたまま、言わない。そうしてしばらくティジットを見つめていたが、それでも、ひとまず、というように表情を緩めた。
「……。ともかく、ありがとう。夜分にごめんなさいね。本当に助かったわ」
「いえ……お力になれたようで何よりです……」
改めて、ティジットは奥方に深々と頭を下げる。
「私の役目は終わりました。それではこれにて失礼いたします」
そう言って退こうとするティジットの顔色が、先ほどとは変わっていた。
引き止めたそうな長や神官たちに丁寧に礼をして、ティジットは少し急いて素早くきびすを返す。が、三歩も行かないうちに、小さく呻いて崩れた。
「ティジット様!?」
うつぶせに倒れたその横顔には血の気が無い。まるで一刻前までのイーシュのように。
奥方と神官たちが駆け寄る靴音すら、もうティジットには届いていなかった。