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月明かりの精霊舞  作者: ふぇんねる
2/28

 温暖で実り豊かな中津森には珍しく、その日は夜明けから冷たい雨がやまなかった。

 重ねて館の空気が物々しい。

 一ヶ月ほど前のフェーリーの森での戦いの後、奥方が言ったように、ナルディムの丘にアンデルア皇国軍が侵攻を始めたとの情報が昨日入ったのだ。

 兵士を鼓舞する太鼓が館前の広場に鳴り響く。

 今まさに、将軍ティジットと、その直属を主核とした軍隊が出陣するところだ。

 それを見下ろすバルコニーに、奥方が現れた。

「森に生き、こよなく森を愛す、血を分けた我が息子同然の森の民、そして森の兵士たち。戦は辛いですか? 悲しいですか? しかし今は戦う時です」

 兜でひしめく広場が、熱気をこもらせたまま動きを失う。

 絹織りの優美な衣装が濡れるのもいとわず、奥方はその身を雨に晒した。

「……感じてください。この森の暖かで清浄な気を。麗しい風を、香りを。先祖から譲り受けたこの森は、『精霊の護る森』とも伝え語られています。数百年の昔から、わたくしたち森の民を癒し育んできてくれた神聖な森です」

 皆がしんと静まり返り、言葉の一つ一つに耳を傾ける。

「気は穏やかで、本来、戦を嫌うわたくしたちですが、全てを収奪する卑しきアンデルア皇国に、精霊舞う、この土地を明け渡すわけにはいきません」

 どんなに勇ましい声や身振りを作っても、奥方には男のものほどの強さはない。しかし宿るものが語気以上の力を持って聴く者の心を打つ。

「わたくしたちには精霊がついています。蹴散らすのです。完膚なきまでに。情けは要りません。それがこの森の民のためです!」

 まるで温厚な森の民とは思えぬ言葉だが、その衝撃が兵士を強烈に鼓舞した。そして、それが発する怒号があたりを震えさせた。

 今回の軍隊の三分の一は、西津森から逃げてきた兵たちで構成されている。

 装備が中津森の兵とは違うので見た目にすぐに分かる。同胞の民とはいえ、体格も少し違った。やや華奢な者が多い。

 しかし、厳しい訓練を乗り越え、晴れて正式入隊したつわものたちだ。故郷の喪失に遭遇し、精神的にも経験が深い。軍は以前より圧倒的に強化されている。兵たちの顔がなによりそれを物語っている。

 角笛が鳴った。

 軍隊が広場を後に行進を始める。長い戦への旅路の始まりだ。

 その先頭に立つのは、術士ながら灰毛の馬に跨り、剣をも携えるティジットだ。比較的軽装備だが、内から滲み出るもので並ぶ重騎兵の存在感を霞のようにさせる。

 館の跳ね橋が速やかに下がり、軍隊が渡ると、門兵が敬礼をした。

 その先では、兵の行く先を飾る為、篭いっぱいに色とりどりの花々を詰めた娘たちが待っていた。軍馬が荒々しく、娘たちが撒いた雨に浮かぶ花の絨毯の上を行く。

 沿道には老婆や女、子供たちも並び、想いを込めた花を差し出す。家族の名を呼ぶ者もいる。彼女らは、戦の行方を見守り、無事を祈ることしかできない。

 時間は無情に行き過ぎて、軍隊は勇ましくひづめを鳴らして小さくなっていった。

 それを見送るずぶ濡れた娘たちが心配そうに眉根を寄せていた。

「ティジット様……少しおやつれになったんじゃ……」



「うああおおおおおお!」

 戦場では獣のような雄叫びが飛び交い、剣と剣がかち合う。

 空からは断続的に弓矢の雨が降り注ぐ。

 すでに前線では敵味方入り乱れての乱戦状態となっており、盾をかざす兵士たちが、血と泥にまみれながら鎧ごとぶつかり合っていた。

 ティジットはその遥か後方の本陣で、戦局に目を光らせながら術のための詠唱を始めていた。周囲には護衛と、高位の術士たちが居並び、左右前方には作戦に従いながら術を発動する術士隊が敵陣を睨む。

 長身をまっすぐに地に立てたその人の褐色の指先が空をなぞる。滑らかに術式を描きだしていく。まるで芸術か何かのように、その動きには寸分の無駄が無く美しい。

 呟く言葉は聞き取れぬほど微かだが、たしかに間違いない力をはらんでいる。場の空気が微細に震えた。

 額から噴き出した汗が、いくつも顎まで伝って滴り、その雫が足元の草を揺らした。

 ティジットが素早く両手の指を組み替え、数種の印を結びきる。

 術が発動した。

 本陣の真上、頭上高くが揺らめいた。空気がそこに集まっていく。引っ張られていく。そして、嫌な耳鳴りを周囲の者たちに巻き起こしながら、そこに何かが具現化する。

 雷だ。

 雲からではなく、空中に雷の球が現れたのだ。

 周囲に稲光を漏れ走らせながら眩しく輝く様は、自然のものとなんら変わりが無い。

 ティジットはそれを認めると、こともなげにすっと、敵陣に向かって腕を伸ばした。

 その動きに合わせて雷球は滑るように空中を移動し、アンデルア軍の陣地に落ちる。

 落雷音。

 そして地鳴りがティジットのいる本陣にまで轟く。

 着雷地点では、一瞬で百人以上のアンデルア兵が黒焦げになって崩れた。まるでいくつもの爆薬を、一気に破裂させたように。

 森の民の感嘆の声が上がる。

 その喧騒の中で、ティジットの身体がゆらりと傾いた。

 従者が素早く体を支え、椅子をあてがう。倒れこむように、そこにティジットは腰を落とした。

 一方、勢いづいた中津森の軍勢は、雄叫びを上げながら一気に敵陣になだれ込む。

 ティジットは、意識を保とうと強く頭を押さえた手の陰からその様を認めて、苦痛に歪めた顔に安堵の笑みを浮かべた。そのまま、術の詠唱をやめて 戦況を見守る。

 術での攻撃とはこのように、威力甚大なもの。敵地に炸裂すれば、武器とは比べ物にならない被害を与えることができる。

 しかし、戦地で行使するような大攻撃の為の術をひとつ繰り出すためには、どんな術士でも長い詠唱の時間が必要だった。その後の疲労も凄まじい。場合によっては昏倒する。

 修練を積んだティジットですら、今のように一度力を使い切ると、しばらくは体力と集中力の回復に専念しなければならない。

 小規模の術を小出しにすることもできるが、戦場に剣士と並んで出て、剣のひと振りに対抗できる種類のものではない。だがその威力ゆえ、術士は非常に重宝されていた。

 ようやく、力を使い果たしてぐったりとしていたティジットが身を起こした。

 ふいに、その頭上にいくつもの爆炎が飛来する。

 燃え盛る炎の玉が、はるか上空から火山礫のように激しく降り注いだ。

 あわや本陣が炎上するかと思われた。前方術士隊の叫び声が上がる。

 が、そうはならなかった。空中に一瞬、屋根のように巨大な光の膜が現れて、炎を防いで打ち消し、また見えなくなった。

「誰でしょうね。こんなお粗末な攻撃をしかける術士は」

 火の粉すら降らないその下でティジットが苦笑を洩らす。

「将軍がいる本陣に防護術をかけていないとでも思ったのでしょうか?」

 こんなものをいつも食らってはいられない。攻撃術ばかりではなく、防御術も存在する。他にも治癒や幻惑、多様な術が存在する。それを駆使し、多種様々な戦いが可能だ。

 術を扱えない将軍は、得てして部下の術士にその方面を任せてしまうことも多かったが、自らが優れた術士であるティジットは、実に効果的に無駄なく術を駆使した。

 エイクがティジットを「戦いが上手い」と褒めるのは、そのあたりの知略にはとうてい敵わないと、脱帽しているためでもあった。

 術による直接攻撃を防いだ安堵も束の間、今度は兵士が呼ぶ大声が届く。前線の方から駆けてきたようだ。

「ティジット様! 毒矢です!! 兵士が多数、身動きが取れなくなっています!」

 報じる兵の後ろで、その毒矢を受けた中の一人だろう、若い戦士が衛生兵のもとへと運ばれて行く。頭をふらつかせ、まともに歩くこともままならない様子だ。

 ティジットの顔は訝しんで歪んだ。

「ちょっと私に診せてください」

 そばに駆け寄り、覗き込む。戦士の瞳孔は開き、青ざめて体はぶるぶると震えていた。なんらかの毒には間違いない。

 それでもティジットは、まだ何か納得しない顔で観察を続けた。

「うがっ!?」

 突如、戦士が痙攣した。

 かと思うと糸で吊られたような無理のある姿勢で跳ね起き、奇声を上げながら無茶苦茶に拳を振り回し始める。

 ティジットの鼻先を骨ばった固い拳が行き、風を切った。

 すんでで避けたティジットと入れ替わるように、すぐさま護衛が数名躍り出て、力づくで戦士を取り押さえた。拳を振るった若者は、あえなく地面に叩き伏せられる。

「なんてことを! 気でも狂ったか!?」

 周囲の兵が声を荒げ騒然とする場とは対照的に、ティジットは冷静だった。

「その兵士に乱暴はしないでください。正気を失っているだけですから」

 居合わせた一同の見開いた目がティジットに集まる。

「きっと呪い矢を受けたのでしょう。さっき毒矢と言いましたが、呪術も込められていたのでしょうね。一本一本に術を込める苦労と、全ての矢が的に当たるわけではないことを考えると、あまり効率的な戦法とは言えませんが……、実際、対処は面倒ではあります。それにしても、呪術とはいえ味方殺しをさせるような戦法はおよそ人道的とは思えません。さすがはアンデルア皇国です」

 矢を受けた戦士は唸りながら、組み敷く三人もの護衛を揺さぶるほどにもがいている。

 ティジットはそばにいた衛生兵の持っていた消毒用の酒をさっと取ると、押さえつけられてもなお暴れる戦士に歩み寄った。

「滲みますが我慢してくださいよ。消毒します」

 むろんまともな返事が返ってくるわけではなかったが、ティジットはそう言ってから直に酒を口に含み、矢傷のついた逞しい二の腕にぶっと霧状に噴きかけた。

 傷口に刺激が走ったのだろう。正気を失っている戦士はますますいきりたって暴れた。護衛たちが必至になって押さえつける。

 呪い矢はどうやら、人間の能力抑制機能を麻痺させ肉体の限界まで力を引き出すらしい。

 無理にこの状態を続けさせれば筋肉が、もしかすると脳までもが、使い物にならなくなってしまうかもしれない。そんな危機感が、呪い矢を受け狂戦士と化した戦士には漂う。

 ティジットは、それでもひとつも取り乱すことはない。

 普段通りの優雅な動きで兵士に近づくと、護衛たちがやっとのことで押さえつけ、おとなしくさせた腕に躊躇も無く口をつけた。血を吸い上げ、体内に入った毒を抜こうというのだ。

 兵士の腕から口を離しては、何度かティジットは地に赤黒い物を吐き出す。その最後のどす黒い血の中に、異様な物が混じっていた。

 周囲の兵士たちがどよめく。日の経った動物の内臓のような、張りを失った粘液状の紫がかった物体がそこには蠢いていた。

 吐き気をもよおす者がいるほどの異形にもかかわらず、顔色すら変えないティジットは、恐らくすでに詠唱を終えていたらしい術式を描き上げ印を結ぶと、術の炎ですかさず焼き尽した。

 兵士たちが改めてまたどよめいた。今度は感嘆でだ。

 ティジットはもう一度酒を取り、丹念に口を漱ぐと、知らせの兵士に指示を出す。

「衛生兵に伝えてください。毒抜きだけでは足りません。解呪のできる医術士と共に対処に向かうよう。それから呪い矢を受けた者は狂戦士と化します。味方にも危険ですから即刻気を失わせて、できるなら治療させるように。呪い矢の数は少ないはずです。これだけの即効性と効果があるのですから大量に用意することはできないでしょう。落ち着いて対処すれば恐るるに値しません。全軍にはそう伝えるよう」

 きびきびと礼をして、兵が素早く伝令に発った。

 その様子を眺める、ティジットの後ろで控えていた壮年の医術士が嘆息を漏らしていた。

「さすがティジット様……いつもながら鮮やかな……」

 隣にいた若い、同じく医術士が瞬きを多くして問う。

「ティジット様はいつもあのように? 呪術をも吸い出すことができるのですか?」

「ああ、戦場で毒を受けた兵の血を吸い出すうちに、感覚を掴み、会得されたのだとか。つまりは口腔により呪術を具現化させるということだが……」

「危険ではないのでしょうか? 口は体内に通じる道でもあり、呪術を取り込みやすい器官のひとつでは……」

「ティジット様は常に肉体と精神にいくつかの防護術をかけておられる。呪い矢の呪術を吸い上げることで、いくらか害を受けたとしても、その程度では大事ないだろう。しかし、だからといって、同条件にすれば簡単に他の者が真似できるというものでもない。毒そのものによる危険も皆無ではない。志願者にはご指導下さるが……指先で術の炎を扱うのに似ている部分もあるとはおっしゃる……しかし、未だ完璧にできた者はいないのだ。かくいう私も……」

 壮年の医術士が苦く笑った。

「なんと……」

「ティジット様はお若いが、先の旦那様の護衛隊長でもあり、共に戦場にも出ていらっしゃった経験豊富なお方。それに攻撃術に特化しながら、実戦にて経験を重ね、あのような独自の治癒術も行使なさる希少なお方でもある。我々の間では、館で術士を束ねる術士長より実力が上なのではないかという噂も……」

 そこに刺すような声が割り込む。

「何をお喋りしているのですか? 呪い矢を受けた兵が、これからうんと運ばれて来ます。準備なさい」

 いつの間にか、ティジットが二人に厳しい視線を送っていた。

「は、はっ! 申し訳ありません!」

 敬礼をひとつして、慌てて医術士たちは持ち場に向かって走っていった。




 ナルディムの丘での戦況は終始、極めて中津森の軍に有利に進んだ。

 滅びた西津森の兵の増強があるとは知りながらも、フェーリーの森の戦いから短期間でここまで軍力を上げてくるとは皇国には予想できなかったのだろう。

 アンデルア軍は西津森を簡単に落とし、先日のその森の戦いでも甚大な被害を受けなかった。油断や怠慢があったに違いない。戦は長引かず、負けを悟った皇国軍はすぐに撤退した。

 一ヶ月後、ティジットは直属の部下である指揮官と主力部隊を残して、負傷兵と少数の直属軍を連れて一時帰還する。

 館は沸いていた。早馬がすでに森の軍の勝利を伝えていた。



「よう、疲れてんな」

 奥方に戦の報告を終え、私室で休んでいたティジットに声をかけてきたのは、背の高いがたいのいい男だ。体つきは見るからに百戦を越えた手練れの剣士という風だが、顔にはまだ少年っぽい悪戯な茶目っ気がどこかに残っている。

 ティジットは机に突っ伏していた体を一度は起こしたが、また元通りになって額を押さえた。まさか、まだ術による疲労が残っているわけではない。

「ああ、エイクですか。考え事をしていました」

「戦のことか?」

「はい……」

 ティジットの声は掠れて消えた。その横で、エイクが「はあ」と大袈裟なため息をつく。

「なんだ。そんなことか」

 ティジットは横目で少しエイクを睨んだ。

「なんだとはなんですか。私たちは民や兵士の命を預かる身ですよ? もっと……」

「わかったわかった。くそ真面目な奴だ。でもな、戦は仕方がない。俺たちも身を護らにゃならん。戦うしかないだろ。戦える奴が。どんなに嫌でもよ」

 ティジットは不満そうに視線を落とした。そんなことはエイクに改めて言われなくても嫌というほど分かっている。

「この戦いを終わらせることはできないのでしょうか? 私たちはただ静かに暮らしたいだけなのに……」

 エイクはティジットのそばの、古いが物は良い木の椅子にどかりと座り込んだ。重みで椅子が歪み、ぎしりと壊れそうな音が鳴る。

「終わらないだろうな。色んな国で色んな奴らを見てきたが、言えるのは人間ってのは欲深いってことさ。隣にある綺麗な物をどうしても奪い取らずにはいられないのさ。それに恐れも深い。ま、この森の人間はそこんとこちょっとおかしいの多いけどな。お前とか」

「達観しているのですね」

「そういうとこだけな。経験の賜物、ってやつだな」

 陰鬱に伏した目をティジットはうっすらとだけ開き、エイクに向ける。

「聞けばエイクは幼少の頃より、傭兵として各地の戦場を転々としてきたとか……」

「ああ。あの頃は本当にしんどかったぜ。ただ生き残るために、戦ってた。思考は停止してた。喜びも悲しみも、なんにも感じなかった」

「でも今のあなたはとても人間らしく、生き生きとしている。いつもどこからかあなたの下品な笑い声が聞こえてきます」

「っておい。褒めてんのか? それは。……まあいいや。そんなマジ顔で見んな」

 エイクが今言われたのも忘れたのか、「がはは」と汚く笑う。それをも羨望の眼差しでティジットは見つめる。

「なにがあなたを変えたのですか? 私は……今にも、戦いの虚しさに押しつぶされてしまいそうになります」

 エイクは一瞬きょとんとしたが、その真剣な様子に感化されたのか、真顔になった。

「そうだな……。守りたいものを見つけたからかな?」

「守りたいもの?」

「そ。ありきたりだけどな。俺、この森が好きだぜ。素朴で優しい人々。異民族の俺を無条件で下心なく、暖かく迎えてくれた。ほんと単純な理由だと思うだろうけど、それって人間の本質だろ? 自分を受け入れてくれる場所を求めるってのは。俺にとってここは、本当のふるさと以上に大切な場所だ。だから、俺はこれを全て守りたいんだ」

 神妙な顔をしたティジットがエイクを見つめる。エイクはそれに気づいて急に視線を泳がせた。

「……あ、そうそう。この森を精霊が護ってるなんて言い伝えを、半信半疑のくせに大事にしちゃってる馬鹿みたいなとこなんかもな! 大好きだぜ!! 愛してる!!」

 妙に真面目になって思いがけず本音を語ってしまったのが恥ずかしかったのかもしれない。エイクはおどけながら冗談でも言う口調で、最後に慌ててそう付け足した。

 だが多分、口調はどうあれ、言った言葉はそのままエイクの本音のひとつだ。

 それを察してなお、いや余計にティジットの声は低く、くぐもった。

「……私もこの森は守りたい。生まれ育った土地ですから」

 まだ頬に残るほてりを隠そうと、必要以上に難しい顔を作るエイクが椅子の背もたれにのしかかる。

「固いなー。なんか違うんだよな。お前の場合。もっと身近なもんだよ。例えば近所の犬とか、食堂のおばちゃんとかさあ」

「……はい……」

 ティジットは分かったような分からないような生返事をする。

 急に、ひらめいたらしいエイクが飛び上がりながら身を乗り出した。

「おおお、そうだ! 奥方様だ! お前、奥方様にはふかーい恩があるんだろ? 戦災孤児のお前を拾って育ててくれて、術まで仕込んでくれて!」

「ええ、そうです。資質を見込まれ、奥方様の後援のもと、最高峰の環境で魔術と呪術を学ばせていただきました。そうして今は亡き旦那様の護衛兵に抜擢されたのが始まりでした。今の私があるのも奥方様のおかげです」

 暗かったティジットの顔に、少しだけ笑みが浮かぶ。辛く厳しい修行の日々も、ティジットにとってはこの上ない幸福を含んだものだったらしい。

「だったらいい。奥方様を守るために戦え。今までもそうしてきたとは思うけど。もっとガツンと!」

「はい……。それはもちろんです」

「決まりだ。じゃあ、もうそんな顔すんな。お前が暗い顔すると娘たちが騒ぐし、兵も不安がる。それに奥方様も心配する」

 一瞬ティジットは眉間を険しくした。が、すぐにいつもの柔らかい笑みを浮かべる。

「そうですね。わかりました。ありがとうございます、エイク」

「おう! じゃあな!」

 そう言って手を振り、鼻歌を歌うエイクが力強くドアを開け放って去って行った。

 ティジットは苦笑いしながら、そのままにされた扉を閉めに立ち上がる。そこから覗ける長廊下を渡った遠くの方で、エイクが館の警護の兵ともう大声で談笑を始めていた。

 その背中を眺めて、消え入りそうな声で呟く。

「守りたいもの……ありますよ、ええ。数え切れないほどに。……ですが、それを思えば思うほど、ますますこの戦が虚しくなるのはなぜでしょう……」

 ティジットの顔からは、先ほどの笑みは嘘のように消えていた。



 ティジットたちが帰還したその夜、館の大広間では久方ぶりの勝利の宴が開かれていた。

 外では人々が旅芸人たちの見世物に沸き、飲食を楽しみながら近しい人の無事の帰還を感謝し、昼間から続く勝利への歓喜に打ち震えている。

 身を飾り浮かれる娘たちや、なまめかしい旅の踊り子たちも行き交い、ただの男に戻った兵士たちがそれを追いかける。エイクも例外ではない。

 いつもならそんなエイクを叱咤する奥方も今夜ばかりは上機嫌で、兵士たちの勇姿を讃え、主の椅子で民の喜びを眺めている。

 奥方のそば、上座に座ったこの宴の主役、ティジットの周りはさらに賑やかで、祝いと喜びの言葉を捧げる上流身分の者や兵士、娘たちなんかで溢れていた。

 しかし当の青年は浮かない顔を続ける。

 それを娘たちが気遣って、酌をしたり、踊りを見せたり、楽師を呼んだり、あれやこれやと世話を焼いていたが、ついに上手くいくことはなかった。

 ティジットが席を立つ。

「すみません。……疲れたので今夜はこのあたりで失礼いたします」

 ティジットは腕を胸のあたりに添えて、軽く頭を下げた。そう丁寧に挨拶されると、遠慮なしの娘たちもこれ以上は引き止めることができない。

 残念そうに見送る者たちを残し、寄せ付けない空気を漂わせながら、ティジットは足早に広間を出て行った。




 いつもなら響くはずの靴音が消えるほど、今日は楽や人々の騒ぎ声で館は騒がしい。

「今夜はどこも賑やかですね……」

 皮肉っぽく、恨めしげにティジットはそう言って、とぼとぼと当てどなく 人気の無い方に無い方にと足を進めていく。

 そうして道を選ぶうちに、いつしか、長年この館に住むティジットですらあまり足を踏み入れたことのない場所にまでやって来てしまっていた。

 白石で組まれた寂しい回廊だった。ここには今は使われていない古い見張り台や倉庫があるだけだという。館や町のお祭り騒ぎも、さすがに届いてはこなかった。

 そこでようやくティジットは歩を止めた。

 視界には、遥か眼下の地上にある中庭をぐるりと回るように、廃墟のような柱廊が遠くまで続くのが映る。耳には誰の声も、何の物音も届かない。

 時折、冷たいほどの夜風が吹いて、羽織った肩掛けを巻き上げるが、ここでは干渉してくるものはたったのそれだけだ。

 待ち望んでいた静寂に、ティジットはようやく表情を緩めた。

 ゆっくりと見上げた晴れ渡った夜空には、白い満月がひとつ浮かび、高い柱の立ち並ぶ回廊を、その冴えた光で照らして世界を黒と青に塗り分ける。空気がきらきらと輝くような、宴の夜とは思えぬ静かで神秘的な時が刻まれていた。噛み締めていたらしい奥歯が、自然と離れる。

 そうして、どれくらい一人佇んでいた頃だろうか。

 絵画のように静止していた、中庭を挟んだ向こうの柱の陰で何かが動いたようだった。

 ティジットは怪しみ、目を凝らす。そして驚愕した。

「……!?」

 少女がいた。

 月の光が降り立ったような乙女が一人、どこからかいつのまにか現れ、白い薄布をひらめかせながら月明かりに戯れていた。年の頃は十六、七というところだろうか。

 開きかけたつぼみのような、初々しくみずみずしい輝き。そして、なんという透明感だろう。綺麗という言葉では到底足りない。

 驚いたのは美しさの為だけではなかった。

「精……霊?」

 なにか、どこかに、とても人の手に染めてはいけないような崇高さが漂う。

 ティジットは近寄るどころか、瞬きすら忘れていた。

 だがその時間も僅かのことだった。いくばくも無く、月が雲間に隠れるようにさっと、少女はどこかへ消えた。

「……ここは精霊の護る森と言われていますが、まさか本当にその精霊が……?」

 言い伝えられ、固く信仰される宗教の中でも説かれることもある精霊だが、その存在が目に見えると思っている者は少ない。不可視な力を扱う術士であるティジットでもそうだ。

 呟いて、柱廊を渡る。

 回り込み、少女のいた場所まで行ってみるが、すでにそこには誰もいない。ただ月明かりが静かに射しているだけだった。あたりを見回してみても、どこも同じように眠りについている。

「見たことのない少女でした……」

 浅黒いティジットの指が震えた。

 幻のように現れて消えた、精霊のように美しい少女。いや、もしかしたら、人間の少女のような美しい精霊だったのかもしれない。

 どちらにせよ同じだ。手に触れることはない。

 ティジットは、夢でも見ているような恍惚とした表情を浮かべ、月の光で青い陰を落とした回廊で、いつまでも灰髪を柔らかな夜風に揺らしていた。




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