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月明かりの精霊舞  作者: ふぇんねる
18/28

8-4

 今頃、きっと降るような星空が広がっていることだろう。

 天幕の内は、小さな蝋燭の明かりが揺らめくだけで、薄暗い。

 鎧も剣も外したティジットは、腕の中のイーシュを甘い瞳で絡めながら、その艶やかな長い髪を弄ぶ。その髪の少女は、されるままに、引き寄せられるままに、白い頬をぴったりとそばの硬い褐色の肌に寄り添わす。

 簡素な寝台の上で薄布一枚にくるまって、二人は一個の夢見る卵のようになっていた。最期をも覚悟した不安定な心が、より一層そうさせるのかもしれない。

 虚空を見つめるイーシュが、無機質に問いかける。

「軍は……戦況は、いかがな状況なのですか?」

「負傷兵を除き、私が率いる中津森の軍勢は、恐らくアンデルア軍の約半数……いえ、もしかすると、その半分にも満たないでしょう。エイクの連れてきた増援を含めても、こちらが人数的に劣勢なのは間違いがありません。しかし、それ以上に……私が今最も恐れているのは、兵士たちの士気の低下です。アンデルアの皇子……彼がいることを知れば、一度でも相まみえた兵士たちは、恐れからますます、すくみあがってしまうことでしょう」

 すっかり消沈してイーシュは目を伏せてしまった。憂いと哀しみに染まる。それは戦況の劣悪さのせいだけではなかった。

「噂に聞きました……築いた屍の山すら踏みつけていく、そんな荒々しく非情な猛将であると……。皇子は戦場が恐ろしくないのでしょうか? 守りたい者や愛する者は無いのでしょうか? 森を焼き尽くし、全て破壊して……森の民の何が欲しいのでしょうか? 彼は森の民をどう思っているのでしょう……そして自国のことは……」

 ティジットが意外そうな顔をする。

「……そんなことは、考えたこともありませんでしたね」

「皇子とて人間でしょうに……何故……」

 イーシュの長いまつげの向こうに、潤んだ瞳が見え隠れした。

 ティジットは黙ってそれを見つめる。

 はたと気づいて、涙を隠しながら拭いたイーシュは無理したような明るい声を出した。

「あっ……、すみません、喋ってばかりで……。起こして差し上げますから、ティジット様は少し眠られますか?」

 穏やかにティジットは首を振る。

「いいえ、やっと叶ったあなたとの逢瀬を楽しませてください……このまま、時が許すまで……」

 自らの心の不足分を欲するように、想いの丈を込めてありったけ抱きしめたティジットは、イーシュと二人、再び薄布に埋もれた。



 まだ夜明け前の闇が濃い。

 その濃い空の上、白く大きな三日月が地平の向こうから上ろうとしていた。その尖った両端が現れ始めている。もうしばらくすれば、月に引かれて眩しい太陽が姿を現すだろう。

 天幕を出たティジットが星月夜を仰ぐ。

「……綺麗な空です……」

 その後を追って、初めのように麻布の粗末なローブに身を隠したイーシュも現れ、そばにそっと寄り添う。

「戦地では、空を見上げる時間などありませんでしょうね」

「いいえ。見ようとしていなかっただけですよ。いつでもできたはずなのに……。私は、空を見上げる程度の心の余裕すら無くなっていたのです……。なるほど……あなたと二人きりにしたエイクの意図がやっとわかりましたよ……」

 ティジットに、いつもイーシュに向けていた館での穏やかな笑みが浮かぶ。ここではずっと見られなかったものだ。

「確かに、今さら撤退とは我ながら愚かな選択でした。……それに、ここを超えられてしまえば地形的にも不利です。素通りさせるわけにはいきません。それに私たちにとっては、おそらくこれが最後の戦いです。ここで負ければ後がありません。血迷っていました。戦いましょう。全てを賭けて」

 そう強く言い切って、ティジットはそばに佇む少女を振り返り、愛しげに見つめる。

「……あなたに、また教えられてしまいましたね」

「いいえ……私はなにも……」

 イーシュがそう思っているのは本心だろうし、実際そうだ。けれどそうやって、言葉もなしに、存在するだけで人を動かしたのも本当だ。

 ティジットはイーシュと向き合い、その両肩に手を添える。

「私は……最期の夜にしたくない。あなたに再び会うため、この森を精霊が護っているという言い伝えを今は信じましょう」

 その言葉に、急にイーシュが目を見開いた。

「ティジット様は信じておられないのですか?」

 神官にその言葉は禁句だったかもしれない。しかしティジットは自分の考えを隠さなかった。二人はもう、そういう間柄ではないのだ。

「……ええ、すみません。正直、そうです。あなたが精霊を降ろせるのは真実でしょう。舞がその証拠です。ですから精霊もいるのでしょう。しかし森を守っているという言い伝えは、到底信じることができないのです。ではなぜ争いは終わらないのか、なぜ森の民は死んでいくのか……」

 ティジットは悲しそうに、そしてどこか諦めたように、最後に微かに笑った。精霊が森を護るという言い伝えを信じることは単なる気休めでしかないと、その笑みが語った。

 全て見守ったイーシュは、終わるとそっとティジットの腕を解き、厳かに指差した。

「ティジット様、あちらをご覧ください」

 二人が立つ場所からそう遠くないところで、火の粉を巻き上げながら明々とかがり火が燃えている。ティジットは首を傾げた。

「……あれがなにか?」

「炎の先で踊るように、小さな火の精がいくつか飛んでいます」

「ええ??」

 イーシュが示すあたりには、炎から立ち上る熱の揺らめきくらいしかない。少なくともティジットの目にはそう見えた。

「イーシュには精霊が見えるのですか? 人を見るのと同じように?」

 問われた少女はこともなげに頷く。嘘や冗談を言っている様子は微塵もなかった。今度は切り立った断崖を伴った、明日、戦場となるだろう平原を指し、また言う。

「……ああ、あの大岩のあたりにも何かが潜っています。……水の精のようですが……どうしてでしょう。いくら谷底には川が流れているとはいえ、こんな乾いた土地に……」

「地下に水脈でもあるのかもしれません。そういう噂を聞きますから。平原を裂く谷底の急流と水源は同じだとも……。……しかし、それにしても……」

 意味ありげな視線を向けられて、イーシュは首を振る。

「別に特別な力ではありません。ただ……こう、ちょっと、生まれつき意識がこの世界以外のものにも焦点が合ってしまうだけです。よく言われますが、精霊に特別愛されているというわけではありません。精霊にはそんな人間感覚はありませんから。ああ……でも愛が無いのではありません。むしろ愛そのものです。彼らは、人には全てを理解できないほどの、大きな、大きな愛を持っているんですよ……」

 イーシュは聖職に携わる時と同じような至福の表情を浮かべる。不思議な少女だ。

 しかしティジットの発するものは、逆に、にわかに険しくなった。

「……ではなぜ争いは終わらないのですか? 森は焼かれ、その民は死に行くのですか?」

 再びその問いだ。当然の疑問だ。イーシュは表情を神妙なものにした。

「私が知るティジット様は聡いお方です。ですから、戦の前ですがお話しいたします」

 なにか深刻な意味を持っているのだろうか。硬く、イーシュが呟いた。深い息を吐いた後、ゆっくりと語りだす。

「精霊は確かに存在しています。そして森を護っています。言い伝えに嘘偽りはありません。……でも、本当はこの森だけではないのです」

「と、いうと?」

「精霊はどこにでもいるんです。どこでもが、精霊の護りたもう土地なのです。この世界全てが精霊に愛されているんです。ただ、人がそれに気が付かないだけ……。ここにも、そこにも……、アンデルアにだって精霊はいるはずです。もし、全くいないところがあるとすれば、それは生き物の生きられない死んだ土地かもしれません」

 驚きを隠せないティジットに、イーシュはただいつもの微笑だけを返す。

「精霊は、そこに住む生き物、こんな罪深い人間すら全部、分け隔てなくその大きな愛で包みます。森の民は感覚が鋭いのか術士が多いように、神官でなくとも精霊を感じ取る者もいますので、その護りを受けた民なんて言われるようになったのではないでしょうか。それに森の民もあまり森を出ることがありませんから、この森だけが精霊に愛されていると思われるようになったのかもしれません」

「それが真実なら……なぜ、神官たちはそのことを民に開示しないのですか?」

「伝統だからです。森の神聖さを保つことが、森の民の誇りと人間性を高くし、結束を強めると。言い伝えも全体の一部とはいえ、嘘ではありませんので。だからといって隠しているわけではないのですが、請われなければ語りませんから……似たようなものかもしれませんね。それに……多分ですが、本当のことを伝えても、信じていただけないのではないかと私は思っています」

 ティジットは息を呑んだ。

「……たしかに、あなたの話でなければ、私もただの宗教物語だと一蹴したでしょう」

 ティジット同様、一般の森の民は精霊の存在からして半信半疑だ。宗教や精霊舞も、心理的作用が絡むだけのものと言い切る者もいる。

 だが、そんな真実を知れば、どうしてもティジットにはある人の影が浮かぶ。

「……奥方様もこの話はご存知なのでしょうか?」

「ええ。信じてくださっているかは分かりませんが」

 奥方は賢い。もしかしたら世間の理解に合わせて、そ知らぬふりをあえて続けているのかもしれない。精霊信仰を利用して兵を鼓舞することもたびたび行われてきた。民を纏める者ならば、それも仕方ないのかもしれない。

 にわかには受け入れがたい。しかしティジットの顔は納得し始めていた。その方が真実味がある。

 ティジットの表情を確認してそっと、イーシュがさらに付け加える。

「……ですがティジット様。精霊はただ愛するだけ……寒さに震える人を見ては優しく暖かな風を吹かせ、乾ききった土地に苦しむ人を見ては慈しみの雨を降らせる……。加護は授けますが、争いには加担しません」

 ティジットの顔が少々引きつったように強張った。心配そうにイーシュが覗き込む。

「落胆……されてしまいましたでしょうか?」

「いいえ?」

 落胆どころかティジットは微笑んだ。目線にまで持ち上げた自らの手を堅く握る。

「それを聞いて逆に安心しました。戦を生んだのは人間です。ならば消し去るのも人間の手によってしかないのだと」

 イーシュがほっとため息をついた。

「やはりティジット様です……きっと、そうおっしゃってくださると……。ええ。戦を望むわけではありませんが……それが当然の道理だと、私も思うのです」

 二人は瞳の深いところで繋がって、哀しげに頷き合う。

「ティジット様。きっとその心が、精霊の加護よりも、私の祈りよりも強く、ティジット様の身を護るでしょう。どうぞ、どんな状況でもありのままでいらしてください」

 それが神官たちが抱える真実を惜しげもなく晒したイーシュの意図だったのだ。それで正解だったのだ。

 イーシュはそう言うと、いつかのようにティジットの前に膝を折った。そして、その手を両手でもって額に押し当て、祈った。これから、巫女、もしかしたら神官としての地位までも失うだろうが、他の誰にも見られなかった神聖さに光り輝く。

 惜しい。

 そう、ティジットの口から漏れそうになったが、噛み殺す。

 祈りを終えて立ち上がったイーシュを、改めて、ティジットは見つめ直した。

 戦地の乾いた風に長い髪を揺らめかせる、森のような瞳の少女。

 西津森の民の特徴でもあるが、肌は透けるように白く、体つきは小さくて華奢だ。

 光のように眩しくて、花のように可憐な姿は、こんな荒地には到底似合わない。

 人ならぬものと生きてきたイーシュ。少女になってもいつまでも穢れない理由が分かった気がした。世間の感覚と違うのも納得できる。なにせ、見ている世界そのものが違うのだから。それは生まれつきの能力ゆえなのかもしれないが、それでも人を震わすほどに昇華させたのなら、それはイーシュのものだ。

 ティジットはため息をついていた。その眼差しが、今、ますますの愛と尊敬に染まる。

 ふと、宿営地の奥の方で小さな話し声が上がった。見張り以外の兵士も、そろそろ起き出す頃だ。決戦を控え、ぐっすり眠れた者などいないに等しいだろうが。

 イーシュが東の空を仰いだ。

 まだ暗い。しかし月の場所が、黎明の時がいつなのか知らせてくれている。

「さあ、ティジット様。この間にも夜明けが近づいています。私はそろそろ……」

「ええ、そうですね。この谷あいを進めば、エイクが軍を駐屯させている横を通って、谷の北側の森に出ます。獣道を辿れば、集落のそばに辿り着くでしょう。私の馬を一頭差し上げます……乗れますか?」

「はい。きっと。ここに来るまでにエイク様にも教えていただきました」

「そうですか。それはよかった。前に一緒に乗った灰毛の馬ですよ。気の穏やかな賢い馬です。あなたの助けになるでしょう」

 ティジットは、あらかじめそこらの杭に縛り付けておいた馬を引いてくる。

「私の最も信頼する護衛もあなたにつけましょう。彼は――」

しかし、その言葉は言いかけで遮られる。

「いいえ。それはご遠慮いたします。私は一人で大丈夫ですから」

「しかし……その道も絶対に安全とは言えません」

「いいのです。森の民にとって森は庭のようなものです。迷うはずがありません。アンデルア兵にもし見つかったとしても、森の中なら逃げおおせる自信があります。ですから、どうか、わがままでやって来ただけの私のために、貴重な兵を割かないで下さい。馬をいただくだけでも心苦しいのに……。それよりも、私でもなにかお役に立てることはありませんでしょうか?」

 凛としたイーシュ。その強さにティジットは見惚れ、優しく微笑み首を振った。

「あなたには無理です。兵士じゃない。それに、あなたには他にやることがある。……それは無事に館に帰り着いて、私の帰りを待つことです」

「……!」

 含む意味に気づいたイーシュの頬が、さっと薔薇色に染まる。天幕の中でティジットは言った。一生を償うと。

 その色づいた頬を両手ですくい取って顔を上げさせたティジットは、想いを注ぎ込むようにイーシュの瞳を覗き込んだ。

「いいですか? イーシュ。あなたはもう、私の命と同じ……いいえ、それ以上なんです。あなたなしでは私は生きていく意味も価値も、理由もない。あなたのいない世界では、戦うことさえもできないでしょう。たとえもし、あなたが神に仕えることを永遠に選び、一生触れられなくても……それでもいいと、昨日まで思っていたくらいなんです。だから、どうか必ず逃げのびて、そして、またあなたを抱きしめさせてください」

 眉根を寄せたイーシュが、ゆっくりとひとつ、大きな瞬きをした。

「ティジット様も……どうかご無事で」

 頬から骨っぽい浅黒い手が離れると、恥じらいながらイーシュは一歩下がった。そして灰毛の馬に近づこうとする。

 だがふいにその腕が掴まれ止められる。イーシュの視線がそこを辿ってティジットの瞳に着くと、まるで心を確認するようにそっと、瞳の主は少女の華奢な顎に手を伸ばした。

「あ……」

 惑う声は漏らしても、いつかのようには顔をそむけないイーシュがいた。

 おもむろに、ティジットはその唇に、唇を重ねる。

「んっ……」

 甘く、柔らかい。

 上手く呼吸を合わせられなかったイーシュの声が隙間からこぼれる。

 最初は軽く、粘膜を触れ合わせた程度で、音を鳴らして離れた。鼻先が触れ合うほどの距離で、二人がすでに溶け落ちた視線を絡めあう。

 たどたどしい唇を捕まえた二度目からの口づけは、唾液に濡れて、そうそう自由を許すことはなかった。




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