8-3
「敵軍の総数は?」
「当初の八割といったところであります」
「こちらの負傷兵の数はどうだ?」
「半数を超えます。把握できている数であります……これからますます増えると思われます……」
「そうか……」
天幕の立ち並ぶ宿営地を横切りながら、深刻な面持ちで将官と話しているのはティジットだ。腰には剣を帯び、銀色の胸当てを装着し、土煙あがる乾いた地面を足早に移動する。
そこにあるのは、イーシュの前では影を潜めている厳格な将軍の姿だ。
二人は具足を鳴らし、外套をはためかせながら行く。
宿営地は混乱を極めていた。
あちらこちらで火がおこされ、煙が立ちのぼる。怪我人の治療の為に、湯が沸かされ、傷口を消毒する刃が焼かれた。
衛生兵と医術士がばたばたと行き交うその隙間に、天幕に入りきれない負傷兵たちが、次々に運ばれてきては地面の上に転がされる。
まさに今、軍隊が戻ってきたところなのだ。
幸い、ティジットは無傷だった。まだ将軍が護る本陣までは攻め込まれることはないようだが、宿営地の混乱を見ると、それも時間の問題のようだ。
将官と別れたティジットは、兵士の様子を見て回り始めた。
落ち着けば一人一人に治癒術をかけるのだろうが、まずは指揮官として、軍の状態を見極めるつもりなのだろう。
痛みに呻く者、恐怖に震える者、心を壊されてぶつぶつと何事かを繰り返し呟く者……。負傷してはいなくても、まともな兵士は少なかった。
壊滅。
そんな言葉が、嫌でも誰もの脳裏によぎる。
眩しい茜色のちぎれた夕焼けが、そろそろ終わろうという頃だ。
ティジットが眉を寄せ、渋い顔をしているのは、そのせいだけではない。
兵の様子を一通り確認したティジットの足は、宿営地から少し離れた岩場で止まってしまっていた。
過去、何度かの争いの舞台となったらしいこの場所は、かつては森だったのだが、今は荒涼とした岩と赤茶けた砂と岩の大地になっている。そこに切り立った崖がいくつもそびえ立つ。その崖に囲まれた大平原には、水量の多い激しい急流を伴った、裂けたような深い渓谷が覗ける。
ここはウリグの谷と呼ばれる古戦場だ。ティジットはもう三ヶ月以上前からここに駐屯している。ナルディムを落とせないアンデルアが侵攻先を変えたのだ。
どちらも皇国にとっては難所には変わりが無いのだが、過去、ここは何度か攻略に成功した実績がある。
そして、どちらの難所も、越えてしまえば距離的にではなく、地形的な不利で、奥方のいる館まではあとわずか。谷を護らなければ、ますます戦況は厳しいものとなるだろう。
ここでの戦いに敗れた先人たちも、取り返すために、多くの犠牲を払ってきた。
しかしまだ、それは東津森という同胞の森があった十五年以上も前の話――他所の森からの助けが期待できない今では、取り返すなど不可能な事だ。
赤茶けた谷を眺めるティジットの瞳は蔭っていた。顔色も思わしくない。死人の色に近くなっている。
軍隊の全責、そして森の民の命運を負う将軍の苦悩はいかばかりだろうか。
刻み込まれた眉間の皺の深さだけでは伺い知ることなどはできそうにない。
そのままティジットは、すっかりあたりが藍色に染まるまで微動だにしなかった。
どこかへ行ってしまっていたティジットの意識をこちらに戻したのは、殺伐とした景色の中に現れた、そぐわない人影だった。
夜闇に紛れてこちらに向かってくるのは、馬に乗った二人の人間だ。蹄の音を隠しているのか、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
そのひとつが馬を降りて、ティジットの方へと駆け寄って来た。
頭から足のくるぶしまで、すっぽりと体を覆う麻を編んだ粗末なローブの者。
身なりは怪しいが、岩やくぼみに足を取られるなど、暗殺者や兵士にしては頼りない動きをする。
その乱れたローブの裾から、中の着衣が覗けた。砂埃に汚れてはいるが、ローブの素材にそぐわない、銀の刺繍の入った上等の白い衣だ。体格は小柄で細い。
ここにいるはずのない誰かに似ている気がして、ティジットは目をこすった。
ひらりと、その人物がローブのフードを邪魔そうに外した。
そこだけ光が差したように、ありありと浮かび上がる。戦地に似合わない純白の法衣に身を包んだ、亜麻色の髪をなびかせた少女の姿が。
「イーシュ!?」
鞭で打たれたように、ティジットは跳ね、立ち上がる。
息を切らしたイーシュが、倒れこむようにその目の前で膝をついた。
「よかった……ご無事で……」
「どうしたんですか!? 館からは馬でも単身三日はかかります。こんなこと……神官の戒律を破ることになるんじゃないですか!?」
ティジットもイーシュの前に屈み、跪いた。
艶やかな髪を乱すのも厭わずに、イーシュは大きく首を振る。
「……壊滅寸前と聞いて……いても立ってもいられず……」
顔を上げたイーシュの綺麗な青緑色の瞳からは、宝石のような大粒の涙が今にも溢れてきそうになっていた。
ティジットは目を細めた。
「……ええ。情けない話ですが……。ふがいない男だと笑ってください。こんな男のかいなに抱かれろなどと、私も世迷言をよくも言ったものです」
そうして自らを嘲笑った。
「さあ、早くここを離れて下さい。敵軍はすぐそこに迫っています。日の出と共に、また戦闘が始まります。……ここも、明日には……」
ティジットは崩れたイーシュの腕を持って、無理に立たせた。
その後ろに、さっき馬に乗っていたもう一人の人間が、成り行きを待って立っていた。
「日の出ならまだ時間があるな」
こげ茶色の針のような髪と、甲冑から覗き見える、よく鍛えられた日に焼けた固そうな肌。エイクだ。誇らしげに胸を張る。
「エイク! あなたまで!」
「イーシュに懇願されてここまで連れてきたのは、かくいうこの俺」
「なんてことを……!」
憤り、何か言いたそうなティジットを、エイクは手ぶりで押さえる。
「別に遊びに来たわけじゃあないぜ? あ、そうそう、途中いいものを見たぞ。アンデルアの皇子が到着した。名だたる将軍たちも谷向こうに勢ぞろいだ。敵さんも全軍を投入したようだな。この時に俺を遣わすとは、奥方様の勘は流石だ。ここが決戦の場になるのかもしれないな」
「……!! 覚悟を決める時ですか……」
ティジットは複雑な表情を浮かべた後、悲しそうにイーシュの手を取った。
「あなたには安全な場所にいて欲しかった……」
一方のイーシュは、凛として、まっすぐにティジットを見返す。
「私は安堵しています。最期かもしれない時が迫り来る今、ティジット様のおそばにいることができて……」
迷いが無い。けれど、言ってしまってから恥ずかしそうにうつむいた。
ティジットの険しかった将軍としての表情に、明らかに情緒的なものが差す。
「イーシュ……それは……」
それは戦地に向かう前に、ティジットがイーシュと交わした約束の答えなのだろうか。
分からずに、複雑な顔をしたまま、ティジットは目の前の愛しい少女を見つめ続ける。
そのしんみりした湿った空気を、遠慮なくエイクが裂いた。
「おっと! 最期なんて縁起の悪いこと言いなさんなよ! ここに中津森の名将軍が二人も揃ったんだぜ!? それに安心しろ。俺の軍隊も谷に隠してある。イーシュをただ連れてきたわけじゃないぜ?」
ティジットの顔から暗いものは消えなかった。エイクの連れて来られる増援部隊の規模は把握している。森の民には、もう、それしか兵がないからだ。
敵は多勢。増援を含めても、こちらは無勢な上に負傷者多数。
一緒に話を聞いていた戦を知らないイーシュにも、肌で感じるものがあるのだろう。覚悟があるとはいえ、不安そうに身を縮こまらせた。
エイクだけが自信に溢れた顔をして、どんと胸を叩く。
「ここはかっこよく乗り切って、奥方様にうんと褒めてもらおうぜ!」
「……ええ」
エイクの勢いに吹き消されそうなほどティジットは力無い。搾り出した口からは後ろ向きな言葉が出る。
「私は腐っても将軍……。私に従う兵がある限り、彼らの命を最大限守らなければなりません。みっともなく逃げおおせてでも、退路を確保しましょう。アンデルアが全軍を投入したとなると、こちらも考えなくてはなりません。一度、体勢を整えるのです」
掻き消すように、エイクは激しく腕を薙ぎ払う。
「なに馬鹿なこと言ってんだよ! 正面きって戦うんだよ! んで勝つんだ! 増援を知らない奴らの意表をつくことにもなるし、それが兵の命を活かす道ってもんだ! そうじゃなきゃ奥方様が、今ここに俺を出陣させた意味が無い! それに、逃げても逃げ切れる兵の数なんて知れてる! 体勢だって整えようがねえだろ!?」
「確かにそれは……。しかし、たとえ奥方様でも、たった今、この瞬間の戦況を知るわけではありません……!」
「お前……!! それは奥方様に対しての愚弄だぞ!?」
意見の対立から、二人が険しく睨み合う。滅多に無いことだ。それにティジットが奥方に対してこんなことを言うなど、通常ならあり得ない。二人の剣幕は凄まじく、そばの不安げなイーシュを固める。
発せられる言葉もないまま、それはしばらく続いたのだが、糸が切れるように突然、ふとエイクが引いた。
「ま、今はいい。お前も長引く戦いで疲れてんだろ。天幕に帰って少し休めよ」
苛立ちを完全には隠し切れていない。肩を上下させ、野獣のような呼吸を漏らしている。しかし頭を抑える。冷静になろうとしているのだろう。
言い終わって後ろを向いたエイクなのに、語気を荒げたティジットはまだ噛み付く。
「そんな時間は……決めましょう! 撤退なのか、あなたの言うように総攻撃なのか!」
「今、話したっていい結果は出ねえよ! いいから天幕に入れよ!」
獣が牙を剥いたように、エイクはティジットの勢いを覆すほどの強い物言いで詰め寄る。そうして、半ば無理やりにその相手を引きずり宿営地に入ると、将軍、つまりティジットの天幕の中に突き飛ばし乱暴に入口の垂れ幕を下げた。
戦の後の疲労もあって、さすがに剣士のエイクには力では敵わない。あえなくティジットは中に押し込められる。
天幕前にいたティジットの護衛が、いきなり現れたエイクや、色々な予期せぬ事態を目の当たりにして、驚き慌てる声が中まで届く。
こんなことまでするとは、普段と変わらないように見えるエイクも、ティジット同様に心理的には相当圧迫されているのかもしれなかった。
しかしティジットも、だからといって大人しく黙るはずがない。
「エイク!」
すぐに飛び起きて駆け出し、入り口を仕切っている垂れ幕を勢いよく開けた。
ひらりと舞った幕の向こう、目の前にはエイクではなくイーシュが立っていた。騒動を避けるため人目をはばかっているのだろう。また目深にフードを被り直していた。ローブの下では祈るように手を組み、泣きそうな顔でこちらを見上げている。
そのイーシュが、そっとゆっくり天幕の内に入る。
幕がまた外と中を仕切り、二人きりになる。その向こう、隙間から一瞬、エイクが周囲を警護していた護衛たちに何か言っているのがちらりと見えたのだが、少女の存在感がそこを通さなかった。
薄暗い天幕の中で、色白の少女は精霊のように内から光を放つ。
ティジットの勢いは、吸い込まれてしまったように消沈した。
「イーシュ……」
名を呼ばれたその人の唇は色づき、興奮で頬には薄く紅が差す。
引き込まれて、ティジットは抱きしめようとして手を差し出し、気づいてさっと隠すように引いた。冷静な顔を作る。
「……怖いですか? 怖くないはずがありませんね。明日までの命やもしれない……」
「ティジット様……」
恐る恐る、といった手つきで、ティジットはイーシュのフードをそっと外した。
顕になった、か弱い瞳は、溶けた宝石のように揺らめき潤んでいた。
「こんなところでそんな目をしたら……あなたを抱きしめてしまいますよ?」
自嘲気味に小首を傾げると、ティジットではなくイーシュが、震える手でそっと見つめ合う人の浅黒い両手を取った。小さくためらいながら首を振る。
「……。ティジット様がおっしゃったんです……また会えたら、と……」
言ってしまってから、イーシュは恥ずかしそうにうつむいた。そのままずっと、顔を上げようとしない。それでやっとティジットにも分かった。それがイーシュの答えなのだと。
「……イーシュ……」
おもむろに、ティジットの骨っぽい大きな手が、イーシュの小さな背に回る。
水面に落ちた花びらでもすくうように、そっと、けれど触れてしまった後はなかば奪うように強引に、ついにティジットはその腕で愛しい人を捕まえた。
身を強張らせた柔らかで華奢な肢体が狂おしく抱きしめられる。お互いの匂いを感じられる距離まで。鼓動を感じられる距離まで。イーシュの息が漏れるほど、きつく。
ティジットの高揚と緊迫を隠せない熱い吐息が、腕の中で固く目を閉じた少女の紅潮した耳にかかる。その息で、融解していくように恥じらい戸惑うイーシュが次第に馴染んだ。
それだけで、二人の意識は溶け合う。
心が通じ合えば、抱き締めるだけで人の体はこんなに隙間無く密着することができるのだと、二人は初めて知った。
天幕の厚布を挟んだ向こうからは、外の兵たちが慌ただしく行き交う物音が届く。ティジットは、今はそれを、どこか他人事のように淡々と聞いていた。
「神官の掟は厳しいと聞きます……私のことはいいのですが、あなたに……沙汰は下るでしょうか……?」
「無断外出だけでも、謹慎処分……まして殿方に会うために穢れた戦地に赴いたとなれば幾重もの禁忌ですから……巫女の地位を下ろされるのは間違いありません」
「悪ければ、神職を追放……?」
「はい……でも……たとえそうでも、後悔はありません」
震える声でそう言い切ったイーシュの瞳は潤んでいたが、凛とした光を湛えていた。
「こんなにでもならなければ分からなかった私をどうかお許しください……。私は何に囚われていたのでしょうか……。あの夜、今という時は今しかないのだと、死してからでは遅いのだと……そう、ティジット様がおっしゃった言葉は、戦場に出ることのない私にも真実を教えてくださっていたのに……。たくさんの時間を無駄にしてしまいました……」
ティジットを見上げるイーシュの瞳から、綺麗な涙の粒が、ひとつ零れる。
腕を解いたティジットは首を振り、それを指で優しく拭ってあげた。
「……今、全て取り返しましたよ」
ティジットも想いを伝えるまでには葛藤があった。無理もないことだと微笑で語る。
見詰め合う互いが、互いの瞳に捕らえられて、時間さえもとろけるように消えた。ティジットは、自らの額をイーシュの額に寄せる。温かかった。
「あなたの精霊舞は、もう二度と見られないのですね……。イーシュ、あなたを蛇から救う時、奥方様にはあなたの舞を見られないものにはしないで、と言われていたのに……。私はたくさんの人を敵に回してしまったのかもしれません……。恨まれるでしょうね。辛く厳しい修行の果てに勝ち得ただろう、あなたの神官としての人生もこれで……」
「そんな……でも、私は……」
言いかけるのを、ティジットは止める。
「あなたの全ては、私が一生をかけて償いましょう。……意味は、分かりますよね?」
イーシュが小さな声を上げ、驚いた顔をする。
そこまでは、段取り的にはまだ早い。二人はたった今、想いを重ね合わせたばかりだ。
けれどもイーシュはまっすぐに見つめるティジットの本気をもう一度確認すると、目を伏せ、戸惑い恥らいながらもゆっくりと頷いた。
そもそも、そこまでの想いがなければ、ここにいるはずもない。自らが歩んできた道を降ろされかねない行為だと分かりきっていたのだから。
ティジットは満面に幸福を浮かべながら、至宝のようにその人をまた抱きしめた。