8-1
「イーシュ、すっかり綺麗に傷跡が消えましたね。さすがは治癒院と神官が総がかりであたっただけあるわね」
午後の優しい日差しが斜めに入る。高価な調度品が並ぶ部屋で、奥方は珍しくゆったりと長椅子にもたれ、柔らかな笑みを湛えていた。ここは奥方の執務室だ。
いつもその部屋の主が向かっている重厚な机のそばで、今しがた書簡を受け取ったイーシュが純白の法衣を身に纏い、姿勢を正して立っていた。
「その節は……お騒がせして申し訳ありませんでした……。それに、神に仕える者、むやみに人心を乱すことは許されないことですが、今回の件は不問としていただきましたことも……。奥方様からのお言添えがあったからだと伺いました」
深々と頭を下げる。
奥方は女神のように神々しく目を細めた。
「ふふ、いいのよ。それくらい。あなたはこの森でも稀な才を持った優秀な巫女なのですから。この程度の待遇は当然よ。来年の精霊祭でも、その才を存分に披露してちょうだい?」
「ありがとうございます。身に余る光栄です……。先のことは分かりませんが、ご期待に沿えるよう精進いたします」
「ふふ、謙虚ね」
また深々と頭を下げると、イーシュは通常の業務、つまりこの場合は、神官長と奥方の取次ぎのため下がっていった。偶然部屋に居合わせたエイクも、その一部始終聞いていた。
「いやあ、よかったよかった。イーシュちゃん……いやっ、御霊入れ様はこの森の財産ですからね」
「そんなに堅苦しくしなくていいのよ。わたくしの前ですから。普段通り呼んではいかが?」
舌を噛みそうなエイクに、奥方はくすくすという笑いを禁じえない。
エイクが敬礼をひとつする。
「あ、じゃ、はい。遠慮なく……しっかし、イーシュちゃんの信奉者もこれで安心したでしょうね! ティジットが血まみれのイーシュちゃんを連れて帰って来た時の、あいつらの死んだようなツラ、奥方様にも見せてあげたかったですよ! 姫様が傷を負ったばかりか、ティジットと外出するほどの仲だって知って、やべえ、今思い出しても笑いが……」
神官、まして純潔を求められる巫女と将軍の逢瀬に、館では一時、騒動となっていた。
今、落ち着いているのは、ふたりの仲はまだそこまでのものではない、特にイーシュの方がかたくなに一線を引いているということが分かったこと、それにさっきイーシュ本人も言っていたが、奥方の関与があったからだった。
神官審議会で追及され、口頭でだが厳しい注意があったのは、むしろティジットの方だった。もちろん、普段の功労と人徳、それになにより戦時ということがあって、同じく不問にせざるを得なかったのは言うまでも無い。それからはティジット自身がイーシュに告げたように、ほどなく戦地に旅立っている。
くっくと思い出し笑いを続けるエイクを、奥方は母親のような大らかだが、全て見通し悟ったような表情で見つめる。
「あら? 本当はあなたも少しばかり心が痛いんじゃあなくって?」
「おっと……そこには触れないでおいてくださいよ。親友との仲に影響しますからね。けど、どうせ俺なんか、挑んだってイーシュちゃんの眼中にも入らないんで、痛いとか痛くないとかは別にどうだっていいんですけどね! がははは!」
「ふふふ……」
穏やかな視線とは裏腹に、なかなか奥方も手厳しい。エイクもたじろいている。袖で冷や汗を拭きながら、そのせいか話題を微妙にそらした。
「……そうそう、ティジットの取り巻きの娘たちも深刻ですよ。兵士たちは薄々二人の仲を怪しんでいた奴らもいましたからいいんですけど、っていうか野郎の心配なんか、はなからしてないんですけど、……娘たちは全く知らなかったみたいですからね。今頃どんな噂話を展開していることやら……あな恐ろしや……」
そばの机に乗せてあった薔薇の刻印のついた紅茶のカップを取って、奥方はひと口、優美に唇をつける。
「もしもの話ですが……例えば二人が寄り添うようなことになっても、結局、誰しもが祝福せざるをえないでしょう。心配は無用よ。……あのティジットの様子を見たら、ね」
奥方さえも失笑させるティジットの行動。それは、戦地へ旅立つ出陣の儀の直前、大広間に繋がる廊下で、神官たちの行列の中にイーシュを見つけた時でのことだ。
ティジットは、まるで姫にでも接するようにその前に跪き、恭しく手を取り、額に押し当てたのだった。その時の恍惚とした表情と言ったらない。
いくら、イーシュとは久しぶりの対面だったとはいえ、そしてその時廊下は閑散としていたとはいえ、神官と自らの護衛の前では気恥ずかしくて普通はできることではない。
儀に向かっていたエイクと奥方は、通りかかりに偶然それを目撃していた。
「……ですね。ほんと、あいつ、恥ずかしい奴だぜ……。あれを平気でやるんだからな……。きっと、なんかすげえ台詞も吐いたに違いない……。素なんだろうが、俺だったら生きていけない……」
本人ではなくエイクが照れて呻く。それでも恐らく、また騒動になりかねないので、その手に口づけするのは遠慮したのに違いないことも容易に想像できていたからだ。
「まあ、それくらいしないと、あのイーシュのこと……異性として意識しないのでしょうから、ちょうどいいんじゃないかしら?」
「奥方様……」
変な汗でびっしょりの悶絶寸前のエイクの横で、淡々と奥方は紅茶をすする。
エイクがまた、額の汗を拭いた。
「……だけど、驚きましたね。冷静沈着なティジットがこんな騒動を起こすなんて……。あんな血相を変えて治癒院に駆け込んで……人目も気にせず堂々とあれこれイーシュちゃんに尽くして……それに、『あれ』でしょ?」
エイクの言う『あれ』とはもちろん、その出陣の朝の出来事のことだ。もう、口に出すことすら苦しい。
「そう? わたくしはそのうち、こんなことが起こると思っていたけれど? あの子が危険を承知で水蛇からイーシュを救ったその時からね」
「さ、さすがですね、奥方様……」
身をのけぞらせるエイクを横目に、奥方は平然とまた紅茶をすすった。
「あの時、あの子は必至になって隠していたけれど、熱っぽすぎるのよ。イーシュを見る目が。まあ、男には分からないでしょうけど」
男親友のそんな話は、なんだかえらくむずがゆい。どちらかというと聞きたくない話だろう。耐えているようなおかしな顔をして、エイクはがしがしと頭を掻いた。
ふと、奥方がカップを膝に下ろす。その表情が急に神妙なものに変わった。どこかに不安の陰も見え隠れさせ、ぽつりと呟いた。
「でも……このままでは、あの子、いつか命を落とすかもしれないわ」
「えっ!? なんで? ……まさか、イーシュちゃんに惚れてるせいでですか!?」
奥方は静かに頷く。
「深すぎる愛もまた、時には毒となるものよ」
「そんなこと……俺は良かったと思っていますよ!? いつからか無味乾燥だったあいつが、こんなに表情を取り戻して。だって、人を愛することは悪いことではないでしょう!?」
「ええ、悪いことではないわ。……けれど、あの子は将軍。兵に示しがつかないとか、そんな小さなことではなく……馬鹿な真似をしなければいいのだけれど……。相手があんな、誰もが心を奪われるような美しい娘ですからね、熱するのも無理ありませんが、あの子は数多の兵の命を預かる身……一瞬でも、それだけになってはいけないの」
「……ティジットを、彼女から引き離すおつもりですか?」
「そんなことはしないわ。それこそあの子が壊れてしまうわ」
含み、笑った奥方は、遥か遠く、どこか夢幻でも見据える。言い知れぬ儚さを漂わせる。
「諸刃の剣のようなものだったのね。あの子にとって、誰かを深く恋い慕うことは……。たしかにあなたの言うとおり、人を愛することは尊いこと……そんなつもりはなかったけれど、実際二人を引き合わせたのはわたくしでもあるし責任を感じているの……。いつかは自らそうしたのかもしれないけれどもね。この事が、悪い方に出ないことを祈っているわ」
抵抗してはいるが、エイクにも奥方の不安はわからないでもないはずだ。あのティジットの豹変ぶりを見ているからだ。
「……。しかし、しかし……」
それでもエイクは否定しようとする。どうしても、愛の肯定的な力だけを信じたいらしい。意外と、本当はロマンチストなようだ。
奥方はため息をこぼす。
「……わたくしにもね、あの子には特別の情があるの。幼い時から知っていますからね。旦那様の護衛となってからは、いつもそばにいましたし。もう一人の子供のようなものです。あの子のことを思うなら、将軍職を降ろしてあげるべきなんでしょうけど……。でもね、哀しいことに、この森にはあの子の代わりになれるような者はいないの……」
「……」
他に将軍を務められるような者がいない。同じ立場にあるエイク自身にも、もちろん、そのことはよく分かっていた。無言になることで、認める。
奥方が、不意にエイクをまじまじと見つめた。
「そうね。ちょうどいい機会だからはっきり言っておくわ。あなたとティジット……、どちらかでも倒れたなら、この森は終わりなのよ」
「!!」
森が終わる。
それはつまり、アンデルア皇国に侵略され尽くすということ。
森は焼かれ、奥方率いる一族郎党は処刑されるだろう。そして森の民は奴隷として連れ去られるだろう。すでに滅びた西津森や東津森がそうであったように。
エイクの顔が、一瞬で青ざめた。そうして目を合わせていられなくなったようにうつむいたが、それだけだった。考えなかっただけで、見ないようにしていただけで、奥方の言ったことはエイクのすぐ目の前にもずっとあったことだ。
「……エイク、あの子のことを見ていてあげてね。強いけれども……脆い子なのよ。鋭利で硬い鋼がそうであるように……お願いよ」
沈痛な面持ちの奥方を前に、エイクは拳を固く握る。
「……はい……」
その床に、血が滴るほど。