7-3
「馬で走らせている間に、包帯が少し緩んでしまいましたね……出血が多いです……」
行きと同じように、ティジットの前にイーシュを乗せて、馬はやや早足で駆けていた。
「降りて巻き直しましょう」
小道の脇に馬を繋ぎ、そこらに転がる岩のうち、ちょうどよさげなものを選んでイーシュを腰かけさせる。ティジットはその前に屈んだ。
空では様々に色を変えながら大きな紅の陽が落ちる。反対からは、白く輝く丸い月が追いかけてきた。あたりはなお静かで、時折馬がぶるぶると鳴く以外は、静寂が耳に痛いほどだ。
ティジットがイーシュの肩口に手をかける。巻いていた布を少し解くと、まだ鮮血がどくどくと溢れた。
「痛みますか?」
「平気です。水蛇の時に比べたら……それに戦場ではこんなものではないのでしょう?」
「……強い人です」
イーシュの顔色が少し悪い。命に別状がなかったとしても、平気なはずはなかった。
この健気な少女を、ティジットは尊敬したような眼差しで見つめる。
「ティジット様。せめて、見せてくださるはずだった場所のことを話してくださいますか?」
布を巻きなおしている間に、イーシュが問いかけてくる。ティジットは応え、おもむろに口を開いた。
「……木々の間に横たわる美しい湖畔です。なにがあるわけでもありませんが、この時期だけは、夜になると『精霊の吐息』と呼ばれる光が湖面を舞うのです」
「光?」
「ええ。でも本当は精霊なんて関係ありません。虫なんです。ほのかな光を発する、この地方にしか確認されていない虫です。今は、知る人はあまりいないかもしれません。戦続きで心が涸れ、興味も湧かないのかも知れませんが……。そんな程度のものです。がっかりさせてしまったでしょうか?」
ティジットは心の底からの軍人で、戦争に全てを捧げてきた人間だ。娘たちにいくらちやほやされても、今や、ひとつもなびかないほどに。
そんな人間がわざわざ見せたがった、素朴な自然の景色に興味が湧かないはずがない。
まして無垢なイーシュだ。痛みを忘れたように、瞳をきらきらと輝かせている。
「いいえ。ぜひ一緒に拝見させていただきたかったです。でも、どうしてそれをティジット様はご存知なんですか? 知る人はあまりいないと……」
多少口ごもったあと、ティジットははにかみのようなものを浮かべ、言った。
「……私の故郷がその辺りにあったからですよ」
「ティジット様の……!?」
曇った顔のイーシュに見守られながら、ティジットは静かに語り始めた。
「……小さな、本当に小さな村でした。幼い頃の記憶なので、あまり定かではないのですが、場所柄、外部との接触はあまり多くは無かったように思います。そこらは湖や沼が多く、交通が不便でしたから。……素朴な人々が住んでいました。生真面目で頼れる父、優しく穏やかな母、そして三人の兄と二人の姉も……」
ティジットの顔に、うっすらと柔らかな笑みが浮かぶ。幸せな家族だったのだろう。
「……けれど、当時こちら方面からの侵略を進めていたアンデルア軍により、村は一夜にして跡形も無く消えました。アンデルアにとっては行軍のついででしかなかったようです。先代の中津森の主、旦那様によってその後このあたりは取り返されましたが、村はもう戻りません。住んでいた人々も、ほとんどがもうこの世にはいません。運良く生き残ったいくらかの人々も、今はどうしているのか……」
「……」
イーシュが言葉を無くしている。
「すみません。つい、こんなつまらない身の上話までしてしまって」
「いいえ……。もしよろしければ、もう少し聞かせて下さい。ティジット様はそれからどうやって、中津森の館にいらしたのですか?」
愛する人に興味を向けられて嬉しい反面、ここからはやはり辛い記憶だ。ティジットの吐き出した息は、とても深かった。
「……両親や兄姉は亡くなりました。逃げおおせることはできたとはいえ、私に残ったのは命だけでした。しかしその命も、戦争による貧困と治安の混乱から、いつ失うとも限らない……。ただひとつ、確かに私にも残っていたのは、アンデルアへの憎しみでした。そしてそれが、皮肉なことに、私の生きる糧でもありました。憎しみ無くしては、この世を生きることすらもできなかったでしょう」
冷たい風が吹き過ぎる。心までそうしてしまいそうに。ティジットは続けた。
「……ほどなく、私は兵士志願をするため館の門を叩きました。訓練を受け、術士となれるほどの力を持つことを知りました。そして幸運なことに、数年後には奥方様に術士としての才能を見込まれ、設備の整った場所で鍛えていただけることになりました。辛く厳しい修行の日々も、この術がアンデルアを滅ぼす力となるのだと思えば、歓喜に打ち震えるばかりでした。……私が攻撃の術ばかりを習得しているのはそのためです」
確かに。ティジットほどの術士なら、正規の治癒術を習得していてもおかしくはないのに、そうではない。その時間の全てを、攻撃のための術に費やしてきたということか。憎しみが、癒す力ではなく、壊す力に転化されるのは、当然といえば当然の流れだ。
「そうして――ついには旦那様の護衛隊長にまでしていただいたのです。……しかし、力及ばず、旦那様は……。戦の虚しさ、自らの無力さについて考えるようになったのは、その頃からかもしれません。我流の治癒術を行使するようになったのも、そういえばこの頃でした。その後は数々の反対を押し切った奥方様により将軍に任命され、……後は知っての通りです」
ティジットは淡々としている。
しかし、その口調は逆に身に詰まされる何かをひしひしと感じさせた。語らないが、数々の別れもあったはずだ。サイラスという部下が亡くなったのはきっと、特別なことではない。
身の上話を願ったイーシュは、静かに亜麻色の髪を夜風に揺らした。
そう、とても静かに。言葉は無い方がいい時もある。我が身に起こったことのように哀しみを湛える、その偽りない表情で十分だ。
ティジットが少し苦笑交じりの微笑で、小さく首を傾げた。
「あなたのことも聞いていいでしょうか?」
「私など……。幼いときから神官となるべく育てられ、西津森の旦那様の遠縁ということもあり、皆によくされ、安穏と神殿で祈り続けてきただけです。……平和なものです」
「平和なんかではないでしょう……」
ティジットはその先を言わない。
アンデルア皇国が侵攻を開始した二十年前から、森の民には安息は無い。
断続的に繰り広げられる戦いの火の粉を、誰もが避けることなどできない。
それに、欠片も感じさせないが、神官ならば、ましてこれほどの巫女ならば、ティジットと同じように幾多の厳しい修行を潜り抜けてきたはずだ。
終わらぬ戦の為、絶え間ない加持祈祷で過酷な日々を送ったかもしれない。屍となって帰った兵士たちを、数多く見たかもしれない。救いを求める人々の苦悶を、目の当たりにしてきたかもしれない。
そして、なにより故郷の西津森はもう無い。全てが無いのだ。
痛いほど知っているのはイーシュの方だ。
ティジットはイーシュを覗き見る。涙を堪えているのか、きっと前を見据え、かたくなに表情を殺している。頬が、薔薇色に染まっている。
抱き締めて慰めたい。
そんな衝動に男を駆り立てるような雰囲気をかもしだしながら。
ティジットも例外ない。必至になにかを押し殺した苦しげな声を漏らす。
「けれど……戦争でもなければ、あなたとは出会えなかった……」
言葉を機会に、一瞬、磁石のように惹かれあって二人は見つめあう。
が、すぐにはっとしたイーシュが目をそらした。
無理にそっぽを向いたような少女の肩口に、ティジットは心苦しそうに触れた。
「……もったいありません……こんなに美しいあなたの肌に傷が……」
「平気です。もし傷跡が残ったとしても……」
「その時は、どうにかしてでも私が治しましょう。元通りに。……あなたが望むなら……喜んで責任を取りましょう」
「そ、そこまでしていただかなくても、大丈夫ですよ、きっと」
求婚とも取れる発言に、焦りなのか恥じらいなのか、顔を紅潮させたイーシュは、また視線をそらそうとする。その頬にティジットは手をかけ、そっと止めた。
思い出を語る。
「あの時、あなたが水蛇の呪に蝕まれていた時、手を出せば、それをいくらかでも被るだろうことはわかっていたんです。あれほど強力なのですから。呪抜きとは訳が違います。……だから正直、あなたでなかったら即座に解呪を決断することはできなかったでしょう。私は仮にも将軍ですし、この森の兵を率い戦う責務があります。戦況が安静な時ではありましたが、いつ均衡が崩れるかも分かりません。いくら奥方様の願い、そして相手の命がかかっているとはいえ、私の身を危険に晒すということは、将軍としての責任を放棄するということであり、ひいては森の民の命、全て危険に晒すということに等しいのですから……」
ティジットは言いにくそうに、一瞬、僅かに口ごもる。
「……あの時奥方様は、私を睨みました。しかし、頼った手前、きっと私を責めることができなかったのです。それに私の行動を『人としては間違いではない』と言いました。つまり、将軍としては……。何事も無かったから良かったようなものの、後日事情を知ったエイクにも、軽率な行動だったと叱られました」
「す、すみません……!」
「謝る必要はありません。私が勝手にした事です。それに、後悔もしていないんです。そう言うとエイクは少し許してくれましたけどね。気持ちは分かる、と」
苦笑するティジットに、イーシュは悲壮なまでの眼差しを向ける。
「わ、私は感謝しています! それに、そこまで分かっていて、そんな決断ができるなんて、ティジット様を尊敬します!」
穢れのない青緑の瞳が、水晶のように煌めき震える。いつもなら、そんな風に見つめられれば、えもいわれぬ恍惚に落ちるだろうに、なぜか哀しそうにティジットは目を細めた。
「感謝、尊敬……それだけですか?」
「え?」
「……私はあなたを愛している。私があなたに望むものは……」
「……それは……」
イーシュは言い澱む。何か言いかけた言葉を呑む。そうして当然のことを言う。
「私の全ては、神や精霊に捧げています……。これ以上のことは……」
「知っています。あなたに初めに聞きましたし。それに後から、神官には厳しい戒律があることも知りました。あなたがもし、今のまま誰かを愛するのなら、巫女の地位を降ろされ、場合によっては聖職を永久に追放されることもあると……。でも……それでも……」
それと引き換え、償うほどの覚悟と愛がある。強くて切ない暗赤の眼差しはそう語った。
イーシュから返ってくる言葉は無かった。
二人はそのまま時が流れるのを待った。
月夜を渡る雲だけが動きを止めない。その合間から時々、遮られていた月の明かりが降りてきて、あたりをほのかに照らし出す。
ティジットの唇が開いた。
「近日、また、私は戦場に発ちます。昨今の戦いはますます肉薄している。戦とはいつもそうですが、『必ず』はありません。……だから……いえ、これは単なる私のわがままなのですが……。もしも帰ってこられたら、いつかのように、またあなたをこの腕に抱いて……抱き締めてもいいですか?」
「……」
抱き締めるという行為に込められた意味を、言わずともイーシュも肌で感じているはずだ。愛を分かち合うかどうか、その答えが再び問いかけられていた。これまで通り神の道を進むのか、それを降りてティジットと共に歩む道へ行く先を変えるのか。
愛しい眼差しを惜しげもなく注ぎ込んでくる青年を見つめ返すイーシュの瞳が、迷いで揺らめいていた。あの庭園での時とは違った。
「答えは、また会えたその時に……」
身動きを止めているイーシュの白い頬すれすれに唇を寄せて、ティジットは囁いた。