7-2
それからしばらくした、よく晴れた日だ。
温暖な森にも、温もりが恋しい、ごく短い季節がやって来ていた。
今年一番の冷たい風が吹いても、森は葉を落とさずにさわさわと静かに唄う。せせらぎは凍らず、澄んだ水の音を絶やさない。森は少しの間、成長を遅め、まどろむだけだ。
館の裏手、将軍専用の馬小屋の近くで待ち合わせた遠出の用の外套を纏った普段着のイーシュの元に、ティジットの髪の色のような灰毛の馬にまたがったその人がやって来た。
「すみませんね。こんな寒い日に」
「構いません。私は楽しみにしていましたので。でも……ティジット様は大丈夫なのですか? 私用で館を離れることなど、そう簡単には許されないのでは……」
「それについてはエイクに責任を取ってもらいましたから大丈夫ですよ。どうしても行けと言うのは彼なので。……ああ。エイクのことは知っていますか?」
「……! いくら私がティジット様のことをよく知らなかったからといって……もうそろそろ色々と分かります……!」
エイクは将軍だ。これだけの時間を館に暮らして、知らない方がどうかしている。それに舎弟に囲まれ、日々騒がしい。
それでイーシュが珍しく、半分怒ったような、恨めしげなすねた目をした。ティジットが堪えきれず笑みを漏らす。
「ふふ……。そんな表情を見られるなんて、それだけで今日会えた価値があります」
「……!!」
イーシュは頬を押さえると、真っ赤になってそっぽを向いてしまった。
法衣を纏う時とは少し違ったイーシュ。それをティジットは嬉しそうに眺める。
「馬には乗れますか?」
首を振るイーシュに、分かっていたようにティジットは微笑んで、手を引いて自分の前に優しく乗せた。
「道中、少しずつ教えて差し上げますよ」
二人は一頭の馬に乗って、館を離れた。
朝の早い時間に出て、街道に沿ってやや南西に走る。
館より南にはあまり目立った集落はない。
森の中にひっそりとうずもれる集落を繋ぐ道を辿る。途中すれ違った乗合馬車や、森の間に時折覗ける畑に、イーシュは興味津々と言う様子で目を釘づけにしていた。やはり、幼い頃から神殿に暮らしていたというイーシュは、外のことをあまり知らないらしい。
ここらは、過去、戦場になったことがある。国境は、遠くはない。いくつかの森を超え、沼を越え、谷を越えた先にはアンデルア皇国がある。
だが今、ここらには、奥方が住まう館から比べると安穏とした空気が漂う。現在アンデルア皇国が侵攻を進めるナルディム側とは別方面だからだろう。
「夜の帳が下りてからが美しいのです。ああ、大丈夫ですよ。帰りは飛ばしますから、就寝の鐘が鳴るまでには帰れますよ」
途中で綺麗な清水を見つけ、喉をうるおしたり、宿場で食事を取ったり、時間を楽しみながら進む。まだイーシュが馬に慣れていない為の気遣いもあるのだろう。
日が傾き始め、風がさらに冷たさを増す頃、二人は小さな集落のそばを通りかかった。
集落の柵の外を流れるひと気ない小川で馬に水を飲ませるために留まっていると、通りかかった土地の者らしい男が一人、こちらの様子を伺い始めた。
ティジットが訝しげにそちらに目をやる。
いくらか離れた木陰に、嫌な気配を撒き散らす痩せた男が立っていた。
擦り切れる寸前の粗末で簡素な衣服に、森仕事で荒れた固い皮膚の手。朝剃っただろう髭が伸びかけた四角い顎。
将軍であるティジットや、神官のイーシュのように整った身なりではないが、館を離れれば中津森では通常のことだ。
その男が何かの確信がいったらしく、突然、こちらに勢いよく大股で近づいて来た。
「お前は……ティジット将軍だな?」
瞳が異常な光で爛々と燃えている。
ティジットは眉をひそめ、目を細めた。見覚えが無い、というように。しかし男の方はお構い無しに食いつく。
「はっ! 優雅なもんだな。将軍ともなると。こんな上等な女連れで、館から遠く離れたこんなところまで馬乗りとは!」
軽蔑しきった男の唾が、そこかしこに飛び散る。ティジットはそれとなくイーシュを自分の背に隠して、男と向かい合った。
「……あなたは?」
男は質問には答えず嘲笑した。
「サイラスという名前を知っているか?」
「……!」
途端に、ティジットの顔が戦慄を憶えたように強張る。男が満足して鼻を鳴らした。
「ちゃんと覚えているようだな」
ティジットは求められもしないのに、そのサイラスとやらのことを語り始めた。
「彼は……フェーリーの森の戦いで命を落としました……。私の盾となり……直属の部下ではありませんでしたが……」
それを聞いて、背中に隠れていたイーシュがはっとしてティジットを仰ぎ見た。ナルディムへの出陣の朝、ティジットが初陣の若い兵に言っていたことを覚えていたのだろう。『くれぐれも盾になどなってくれるな』と。
何気ないように見えたあの言葉は、ティジットや護衛たちには深い意味があったらしい。
対峙した質素な男は、眉間に深く皺を刻む。
「俺は、あいつの兄だ。……いや、『だった』というべきか……」
「……気のいい男でした……」
申し訳なさそうにうなだれるティジットの言葉が癇に障ったのか、男は唾を地面に吐き出した。そうして睨み付け、まるで炎が燃え広がるように、矢継ぎ早に責めた。
「……俺は戦争が憎い。あいつが兵士になるのも反対だった。だが、あいつはいつも言ってた。見送りに館まで行った俺に、出陣の朝まで言ってた。『ティジット将軍がいるから大丈夫だ』と!」
男は悲しみのあまりか、笑う。
「でも、もう、あいつは帰ってこない。お前は帰ってきて、あいつは帰って来ないんだ。もう帰って来ないんだ。どうしてだ? どうしてなんだ!? あいつはお前がいるから大丈夫だと言っていたんだぞ? 盾になっただと? 何故そんなことをさせた? お前にとって兵は戦に勝つための駒でしかないのか? ……お前があいつを殺したようなもんだ!!」
ティジットが兵の命を軽んじることなどあるはずがない。事実、サイラスは激しい戦の最中、自ら盾になって果てた。
しかしティジットはうつむいた。
「……すみません。確かにその通りです。私が殺したも同然でしょう。兵士を鼓舞し、戦いに駆り立てる。それが私の仕事です。全ては指揮を執った将軍である私の責……。いくら砦を防衛しようと、中津森の土地を奪い返そうと……ましてフェーリーの森は負け戦……失われた命は戻らない……」
あの戦で亡くなった者は、サイラスばかりではない。
初めの警戒心を失わせて、ティジットは悲しそうに佇んだ。雨に打たれながら、焼け野原となったフェーリーの森を断崖から見下ろしていた時と、同じ目をしている。
「……っ。弟の無念を晴らしてやる!」
興奮した男は、おそらく森仕事で使うのだろう樹脂のこびりついた小さなナイフを、腰から抜き出した。それをむやみに振り上げて突進してくる。全く訓練されていないズブの素人の動きだ。
けれど、避けられるはずなのに、男を見たままティジットは動かない。まぶたを閉じ、腕を力なくだらりと下げた。
その肩口に向け、男がナイフを斜めに振り下ろす。
肉が裂ける。鮮血が、なまくらの刃先から飛び散る。
が、それはティジットのものではなかった。
「……っ……」
ティジットの鼻先にかかる、温かな赤い液体。
なんと、イーシュのものだった。
後ろで見ていたはずなのに、二人の間に割って入って来ていた。
途端に青ざめたティジットが、傍に跪く。
「イーシュ!」
少女は小さく呻き、その場にうずくまった。
傷口を押さえた細い指の間から、赤いものが溢れて、滴る。みるみるうちに外套の下の、覗けた白い衣服の袖口までもが染まっていく。
「あ……」
サイラスの兄が持った粗末なナイフが手をすり抜け、からりと地に落ちた。当の切りつけた本人が、真っ青になって呆然自失と立ち尽くす。
イーシュが痛みに細めた目を、男に向けた。動かすまいとするティジットを空気で振り切って、身を強張らせながら立ち上がる。
そうしてぽたぽたと地面に赤い斑を落としながら、おぼつかない足取りでその男にゆっくりと近寄った。
「う……わ……」
男が歪めた口の隙間から何事か漏らす。顔が恐れの形に強張る。一見、か弱そうな少女の内に秘めた凛とした気迫と、自らのしでかしたことの重大さに今さらおののいたのか、次第に後ずさりを始めた。
けれど、男を見つめたイーシュの瞳にあるのは怒りでも悲しみでもなかった。
「あなたもわかっておいでですよね……? あなたの大切な人がいなくなってしまったのは、ティジット様のせいではありません……アンデルアのせいですらありません……。戦地に赴くと決めた弟さんの意思……それは確かにそうですが……でも違うんです。本当は、誰のせいでもないんです。誰かという『人』のせいではないんです……全て『人』という生き物の弱さが生んだ争いのせいなんです……」
慈悲だった。
「く、来るなあっ……!」
男が悲鳴に近い絶叫を上げた。
頭に血が上っていただけで、もともとそんな度胸のある男ではなかったのだろう。それに、恨みどころか面識すらない少女を傷つけて平気でいられるほど、倫理がないわけでもなかったらしい。血に汚れたナイフを気づかずに踏みつけ、奇声を上げながら森の向こうに逃げ去っていってしまった。
それを見届けた後、イーシュは自らの身をきつく抱き、力尽きたようにまたその場に座り込んだ。
ティジットが駆け寄り支える。
外套を剥がしてよく見れば、イーシュの頬と、肩から腕までもがざっくりとやられていた。白く柔らかな肌が、むしられた花びらのように無残に破れている。
傷口など見慣れているはずのティジットが、顔を歪めた。
「これは……ひどい……。早く館に戻りましょう!」
「……分かってもらえたでしょうか……」
イーシュはそれでもまだあの男のことを想っていた。目を伏せる。
痛みのせいもあるだろう。鈍い、切れ味の悪い刃で切られるのは、よく研がれたものよりも相当な苦痛に違いない。雑菌の侵食も心配される。
我が身を心配しないイーシュを、ティジットは素早く抱きかかえ、川辺に降ろして、服を裂き、流水で傷口を洗った。鮮やかな紅色の液体が川面を流れる。切り口が荒い。出血も多い。
「すみません。少しいただきますよ?」
そう言ってイーシュの反対の腕の袖を捲り上げると、ここでは一番清潔だろう、その身につけた長袖の肌着を裂く。それを使って丹念に洗った傷口を拭く。
手馴れた素早い処置に、戦場でのティジットの様子が僅かだが伺われた。傷みに引きつっていたイーシュが、その手際に感心して見惚れる。
だがティジットはうつむき唇を噛んでいた。不甲斐なさで目を合わせられなかったのだ。
「……すみません……私がいながら……」
そのティジットに、イーシュは光のような眩い笑みを見せる。
「ティジット様が謝る必要はありません。私が好きでしたことです。……それなのにこんなご迷惑をおかけして……私の方こそ申し訳がありません……」
「何を言ってるんですか。辛いのはあなたの方です。肌に……傷がついたのですよ?」
灰色の髪の間で、弱りきった赤い瞳がわずかに揺らぐ。イーシュは小さく首を振った。
「構いません。それで争いが回避されたのなら」
「しかし……」
「ティジット様のせいではないと、あの方に気づいていただけたらそれでいいんです。あの方の目は、悲しみで見えなくなっていただけ……」
「だからと言って、あなたが肩代わりすることはない……!」
言葉と共に、ティジットに怒りと悲しみの二つの色をした憤りの炎が燃え上がった。
それを哀しそうにイーシュが見つめた。そうして静かに、呟き、語りかける。
「……。いくら将軍だとはいえ、ティジット様が全てを負う必要はないと思うのです」
「……!」
その言葉はティジットの声を失わせる。
「サイラスさんでなければ、他の誰かが戦場で傷つき倒れたでしょう……。そうすれば、あの方ではない他の誰かがティジット様に刃を向けたかもしれません。もしかすれば、あの時、指揮を執っていたのはエイク様だったかもしれません。……なにもかも同じです。今はティジット様でなく、私が血を流しただけのこと……。負から負へ、出口を求めて想いが移っていくだけのこと……。泡の飛沫のように飛び散るだけのこと……それを誰かが受けるだけのこと……」
イーシュの言うことは少々宗教的で、抽象的で、理想だ。
それは今は、反感を買うに十分だった。
「偶然なのだと言うのですか? だから憎むなと? 戦うなと? ……諦めろと!? あなたは……甘んじてただ流されろと言うのですか?」
兵士に対するような強い語気で、なぜかティジットはイーシュに迫る。
決して、脅したいわけではない。
むしろその様相は、何かに追われているような必死さで引きつっていた。ある意味、怯えすがるようでもあった。サイラスの兄の話だったはずが、だんだんと別のものを匂わせていく。
いつもと違う取り乱したティジットを見守り、言葉が途切れると、イーシュは不思議そうに口を開いた。
「……それは、ティジット様の方が、私などより分かっていらっしゃるのではないですか?」
少女の目が問いかけている。「それを私に聞くのか?」と。
それに気づき、ティジットは、はっとした。
そうして僅かの間身動きを止めた後、諦めたような深い息を吐き、目の前の少女の瞳の奥まで覗き込んだ。
「……あなたは本当に姿通りの少女なのですか? 心の底まで見透かされているようです」
イーシュの森のような色の瞳は、ただ皮肉った笑みを浮かべるティジットを映している。
「そうやって……私が長年恐れて、見て見ぬふりをしてきたことを、白日の元に晒すのですね……」
観念したかのように笑ったあと、ティジットの口が開いた。
「ええ、ずっと、私も考えていましたよ。憎むことは何も生まない……。そうでしょう。力には力で、血には血で……返す度に、返す程に、その根は深くなっていく……。もはや種がどこにあったのかすら見えなくなるほど……」
ティジットが悲しそうに、うつむく。
「アンデルアから森を取り返したとて、次の世代にはまた攻め入られるでしょう。そしてまた、森の民も戦うでしょう。勝っても負けても、戦はきっと終わらない。ええ、憎むことは何も生まない。わかります。……でもわかるだけです」
夕闇近い冷たく肌を刺す風が吹き抜けた。
どこか儚げに佇むティジットの灰色の髪を舞い上がらせる。赤い瞳が、今は乾きかけた血の色のように、くすむ。
「……赦せと言うのですね?」
イーシュの真っ直ぐな瞳が、言葉もなく問いかけを肯定した。
険しい顔のティジットは首を振る。
「……到底できません。……イーシュ、私はあなたのようには全てを赦せません……」
「ティジット様はあの方に斬られることで、その怒りや悲しみを慰めて差し上げたかったのですよね? あの方を……十分に赦しておられた。ティジット様は赦していたんです」
「しかし、戦争は違う。……アンデルア皇国相手にはそうはいきません。一対一の人間の関係ではないんです」
その萎えた青年の手を、イーシュはいつか祈祷した時のようにさっと優しく取る。
「ティジット様……私とて、故郷を奪った皇国を思うと平常心ではいられません……。でも思うことはあります。……それが人なのだと。それでもいいのだと。憎しみを無理に捨てることはできません。でも切り離すことはできます。二つの心を持てという意味ではありません。憎しみは感情です。心ではありません。感情と、行いは……別にすることができます。それも、ひとつの赦しだと思うのです」
問いかけるような瞳のイーシュに、ティジットはうなだれて首を振った。
「分かりません……私は愚かな男です……」
「ティジット様……」
イーシュの慈愛の眼差しが、術法など使わずに温かく全てを包み込む。それでも、哀しげな青年は、一旦は開いた目をまた閉じ、絶望したようにさらに深くこうべを垂れた
「……私は明日も戦うでしょう。憎しみを力に変えて……。戦に意味を見出せないまま、そんな自分を受け入れることもできないまま……」
戦争は一人の力ではどうすることもできない。人の心が隣り合い、合わさるこの世界は、うまく形がはまらなくて、綺麗にはなれない。
光を放つようだったイーシュの顔が、哀しみに染まった。
「ご自分を責めないで下さい……。そうするしかない時もあります……そうするしかないことばかりです。悟ったようなことを言っても、私にもどうしたら戦争が終わるのかなんて分かりません。自衛とはいえ戦わなければ食い尽くされるだけだということも理解しているつもりです。ですから私にできるのは、心を軽くするよう、その人に寄り添って差し上げることだけ……。ああ……宗教とは……神の道とはなんの為に……。いえ、すみません……忘れてください」
全てを言わず、イーシュは口をつぐんだ。そうして瞳を閉じた。
戦えど戦えど、終わりの見えない戦。
祈り、赦せど、尽きない人々の苦悩。
ティジットと同じ種類の虚無感を、もしかしたら、イーシュもずっと背負って生きてきたのかもしれない。
答えを見つけられず黙りこくった二人のそばで、せせらぎの音がただ静かに、延々と流れていく。
「……ここまで来ましたが、外出は取りやめましょう。館に帰り、治癒院で見てもらわなければ……。怪我が心配です」
おもむろにティジットが口を開いた。こうしている間にも、イーシュの体からは血液が失われていく。
もう館の方角を向いているティジットに、だが、その当のイーシュが首を振った。
「もしよろしければ、このまま約束の場所に連れて行ってくださいませんか? ティジット様と……どうしてもその景色を見てみたいのです」
「イーシュ……。これは治癒術が必要なほどの怪我です。痛みも尋常じゃないはずです。でも残念ながら、私の術では痛みを抑えることはできても、治すことはできないのです」
戦場では治癒術を使うティジットが険しい顔でそう言う。イーシュが首を傾げた。
「……すべきじゃないんです。傷跡が残ってしまうのです。私の術はそもそも戦場で軍医が足りずに命を落としていく兵士たちを救いたくて、試行錯誤のうちに出来上がったものです。正規の治癒術ではありません。血を失わぬよう、傷口を無理矢理、塞ぐだけのものです。傷を誇りとする兵士にはそれで十分ですし、私もそれ以上を必要とは思っていませんでした」
「傷跡くらい……」
反論しようとするイーシュをティジットが押し込める。
「でもあなたは違う。兵士じゃない。女性です。それも美しい。私はどんなあなたでも愛する自信がありますが……その美しさは、あの精霊舞を踊るためにも必要です。この森の財産といってもいい」
「……」
「術を使わずとも応急処置くらいは私にもできます。幸い止血がよく効いています。館に帰るのには支障ありません。痛みは、私が術法でなんとか軽減しましょう」
そこで一旦黙ったティジットが、申し訳無さそうに伏し目でイーシュを見つめた。
「……私もあなたが痛みに苦しんでいるのは辛い……ですが、そうしてはいただけませんか?」
いつしか黙りこくっていたイーシュの瞳から、水晶のような涙の雫が一粒落ちた。
「イーシュ? 痛むのですか?」
問いに、イーシュは首を振る。
「……すみません。お忙しく館を離れられないティジット様が無理をきかせてくださったのに……」
それが痛いらしい。
共にいればいるほど感じるティジットの想いが、一層イーシュの心を震わせていた。
ティジットがうなだれる。
「いいえ、謝るべきは私です。私の責任です……。すみません……あなたを護れたはずなのに……」
「もうその話は……」
「何度でも言います」
ティジットはイーシュの手をとって、懺悔でもするようにきつく額に押し当てた。