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一刻ほど前まで、けたたましく鳴り響いていた怒号と角笛の音は止み、あたりはそら恐ろしいほどの静けさに満ちていた。
見渡す限り一面の無彩色。
立ち上るくすぶる黒煙、焼き払われた灰色の大地。
それは、かつてあった夢のように美しい樺の森の残骸だ。
今、そこらに転がるのは折れた剣に槍、地面に刺さったままの矢、倒れて動かなくなった馬、そして地面に滴り、どす黒く乾いた血、その主……。
阿鼻叫喚の痕が、混沌とした戦場の記憶をまざまざと残す。
低く立ち込めた黒雲からは、小さな雨粒が零れ落ち始めていた。
その荒野と変わり果てた森の跡を見下ろす絶壁に、男が一人佇んでいた。
視線は眼下、遥か遠く緩やかに流れる川の向こうに据えられている。そこでは、肉眼で微かに捉えられるほどのわらわらと動き回る黒い人の粒が、天幕を張り、火をおこす。
「……っ……」
男が顔をしかめた。
暗赤の瞳を翳らすように、長く伸びたくせのある灰色の髪が揺れる。
細身だが、よく鍛えられた体つきの、少し浅黒い肌。すらりと伸びた長身に数種の鳥の羽を下げた錫杖を携えた姿は、一見して術士と見てとれる。
まだ年は二十四、五といった容貌だが、纏う雰囲気にはもっと落ち着きがあった。
ちらついていた雨は、いつしか豪雨に変わっていた。
できたばかりの水溜りを撥ねらせながら、男のそばに護衛らしい重装備の精悍な兵士がやって来る。男より年上だろう。熟練の兵、といった言葉が似合う。
「敵軍は川向こうに拠点を構えるつもりのようです。今の我々にできることはありません。ティジット将軍……帰還いたしましょう……」
護衛兵の遥か後方には、戦に疲弊した軍隊が砕かれたように力なく待機している。
ティジットと呼ばれた男は感情を殺した顔で、静かに頷いた。
「……わかっている」
そうしてまた、戦の跡地に目をやった。
降りしきる冷たい雨が、ティジットたちを容赦なくずぶ濡れにする。
きっといつもなら涼やかなのだろう端正な顔が、今は哀しみに曇った。
◇
緑青の霧に包まれた森の奥に、静かに横たわる深い湖。
それに囲まれた内に、戦乱の世にありながら無垢に佇む、繊細でいて荘厳な白亜の館がそびえ立つ。
神話のように美しい圧巻の回廊に、季節の植物に溢れた趣向を凝らした庭園、館の要所に施された過去の英雄たちをモチーフとした彫刻群……。
その一室、城とも見まごう館の上部に主の間はあり、風格漂う高貴な身分らしい女性と、そのそばに立つ体格のしっかりした剣士らしい姿の大男が誰かを待っていた。
ほどなく、入り口の警備の兵がうやうやしく頭を下げる。
開け放たれた大扉の向こうから、一人の青年がきびきびとした動きで羽織を翻しながら、張り詰めた面持ちで護衛を引き連れやって来た。
広い主の間の中ほどで護衛は主人を離れて待機し、青年一人が奥までやって来て、胸の前で拳を固く握り、頭を垂れた。
「奥方様、……申し訳ありません。フェーリーの森は、南の強国、アンデルア皇国に落とされました」
くせのある長い灰髪に暗赤の瞳。整った面長の顔。浅黒い肌。
そうだ。戦場跡地に佇んでいたティジット将軍だ。
戦の息遣いそのままに、返り血を受けた装束そのままに、緊迫感を漂わせ報告をする姿からは、嫌でも戦闘の激しさが伺われた。
その正面に鎮座した、奥方と呼ばれる身なりの良い優美な女性の眉が、わずかに引きつる。若くはないが、美しい容姿、佇まいは、神々しさと威厳を放っていた。
「非情なアンデルア軍の前には、我が軍の勇敢な兵士たちの猛攻も虚しく……」
ティジットの言葉を、奥方は鋭く遮る。
「早馬の伝令によりすでに聞いています。フェーリーの森……あの美しかった穏やかな森……。アンデルア皇国め……どこまで我ら森の民の地を荒らせば……!」
女性特有のきんと張った高い声が、あたりの空気をさらに張り詰めたものにする。報告を続ける青年の表情に一層陰が落ちた。
「……森には火が放たれ、焼き払われてしまいました……。全て失われてしまいました……。『森の民』と自らを称し、森を愛する我々には耐え難い屈辱です。著しく士気も下がっています。全て敗戦の将である私の責……奥方様にはなんとお詫び申し上げれば……」
奥方は優美な細い眉を吊り上げたまま微動だにしない。自責の念でこわばる若い将軍を突き刺す研いだ刃のような瞳だけが鋭く光っている。それが余計にこの場を緊張させた。
「わたくしに詫びなどいりません。そんな無駄なことを考えているくらいだったら、腕を磨き、知略を凝らして、戦果をあげなさい」
語気は静かだが、内包するものは憤りに満ちている。
「……はい……」
深く頭を垂れたティジットが唇を噛み締めた。じんわりと血が滲む。
玉座のそばに控える剣士が同情するような視線を向けた。
苛立ちを振り払うように、奥方は優雅で柔らかなドレスを翻し勇ましく立ち上がる。そうして脇にあった小机に向かい、全く似合わないが、慣れた手つきで粗暴に地図を広げた。
「さあ……フェーリーを奪ったのなら、次はきっとナルディムの丘を攻めてくるはずよ」
奥方が広げたのは、ここから幾分離れた南の地方の地図だ。いくつか印や文字が書かれている。これらは要塞や拠点の場所だ。地図上のフェーリーの森にはすでに、赤く大きな×印がつけられていた。
地図を辿る奥方の細く繊細な指が、その森の北方、ナルディムの丘と記された文字の上で止まる。
一歩一歩、南から、森の民の土地はアンデルア皇国に狭められつつあるのだ。
「世代を渡り侵略を進めてきた皇国ですが、今、軍を鼓舞し戦へと導いているのは、血気盛んで支配欲旺盛な、まだ若い第二皇子と聞きます。先の大戦でこの中津森の主であった旦那様は亡くなり、跡を継ぐ我が息子も幼い。今が好機と捉えているのでしょう」
つまり、奥方とは、ここ中津森の民を率いていた戦死した主の奥方のことだ。
王政ではないが、王国に例えるなら、女王の身分に相当する高貴な女性なのだ。
「しかし、そんなことはさせません。今は、わたくしが民と土地を守ります」
奥方は炎が燃え上がるようなきりりとした表情を浮かべる。その顔つきには、王者の風格が十分に漂う。森の主無くとも、跡継ぎが幼くとも、ここにはまだ奥方がいる。
ティジットが身をすくませた。
「かといって……奥方様にこんな真似をさせてしまって……」
「私にも多少の戦の才があったことを神に感謝しているわ」
多少どころの才ではない。アンデルア軍を押さえているのは、実際に戦場に立つ将軍や兵士の活躍はもちろんだが、大局から戦を切り盛りする奥方の才覚によるところも大きい。
先の森の主がまだ存命の間は、その軍才をむしろ隠していたのだろう。とても外見からはそのような荒々しさは想像できない。
ティジットは身を正した。
「このティジット、中津森の将として、どんな戦にでも出る覚悟はできております。遠慮なく命をお下しください!」
そうして胸に手を当て、うやうやしく頭を下げた。中津森での最敬礼の形だ。
ずっと黙っていた奥方のそばの剣士が、我慢できないといった様子で割り込んでくる。
「俺だってそうですよ! 将軍ですからね! いや、将軍じゃなくっても! なんでも俺たちに任せてください!」
剣士が、纏った甲冑がへこみそうなほどの勢いで、その厚い胸をどん、と叩いた。
ティジットよりもかなり年上だろうが、くだけた物言いや仕草には、どこかにはつらつとした奔放な少年らしさが漂う。
奥方は太陽のように眩しく、誇らしげに微笑んだ。
「ティジット、エイク。二人とも頼もしいわ。さすがは私が選んだ将軍たちね」
半ば恍惚とした表情を浮かべ、ティジットと剣士エイクは奥方の前に深々と頭を下げた。
奥方が柔らかな衣服の袖を翻し、ばっと片手を薙ぐ。
「さあ、ではティジット。フェーリーの森を守れなかったその責、次のこの戦で取りなさい。エイクには西の護りを任せましたよ。同胞の西津森が皇国に滅ぼされたばかりです。避難民がいたなら受け入れるのです」
◇
主の間の大扉が閉まる。
警護の兵が、退出する二人の将軍に深々と頭を下げた。
廊下には、まるで日が変わったかのような開放感と清々しさが広がっていた。
蔦のからまる柱の間から漏れる爽やかな午後の光と落ちた影。それで綺麗に模様付けされた床を行き、二人は大階段を下りていく。
先ほどの剣士、もう一人の将軍、エイクが、まだ難しい顔をしているティジットに向かい、気を利かせたのか冗談っぽく笑った。
「奥方様の最高級の叱咤だったな」
「……」
ティジットは口をますます固く横に引いて、黙った。
エイクが肩をすくめる。がたいのいい大男がそうする様は、なんだか、どこか滑稽だ。
「まあ、生きて帰ってこられただけいいってもんだ。なんせ今回は兵力が違いすぎた」
針金のようなこげ茶色の短い髪と、魚のようにぎょろっとした大きな青い目。不細工とまでは言わないが、エイクの容姿はとても美男子とは程遠い。
線の細い整った顔立ちのティジットのそばに立つと余計だ。その剣士らしい傷跡だらけの逞しい体つきには、それとは違う美しさがあるのだが。
そのティジットは、容姿端麗な青年らしく、言葉に憂鬱なため息を交じらせる。
「ええ……しかし……。有史より我々、森の民を育んでくれていたいくつもの美しい森は焼き払われ、ここ二十年のうちに、かつての半分にまでなってしまいました……。十五年前、まず手始めに東津森が、そして先日は西津森が……。同胞の森はもうありません。このままではこの中津森すら、全てアンデルア軍に侵略されてしまうでしょう」
気回し虚しくますます暗く沈んでいくティジットに、エイクが噛み付いた。
「んなこたない! 俺たちが将軍に任命されてからというここ数年は勢いづいてるから大丈夫だ! まあ……ちょっとフェーリーは取られちまったけどな。最近のアンデルアの猛攻は凄まじいからな……きっと、あれだ。敵さんも焦ってるんだ。やばい奴らが将軍になっちまったもんだ、ってな」
「だといいのですが……」
「前の将軍だった死んだ爺さんたちには悪いけどな、ありゃ戦い方が下手だった。だが、俺とティジットは違うぞ? 俺たち二人いれば十分アンデルアから森を守れるって! 兵たちも根性がついてきてる!」
ティジットはまだ納得していない。哀しそうに首を振った。
「……私たち森の民は、到底、あなたみたいにはなれません」
「俺ぁ、流れの異民族だからな。色んなとこの混血。どこにいってもつまはじき者さ」
なぜか、どこか楽しそうにエイクが鼻で笑った。ティジットが慌てる。
「そういう意味で言ったんじゃありません。私たち森の民は戦が苦手だと言いたかったのです」
「わかってるよ。おまえがそんな風に思ってるわけないし、他の奴だってそうだ。森の民ってえのは、ほんっとのんきで人がいい奴が多いからな。だから戦いなんか向いてない」
「ええ、その通りです。だから私も……」
エイクがティジットの行く手を遮って大声を張り上げる。
「ばっか! でも、お前は別格だよ! お前みたいに戦の上手い森の民はいねえ! 信じらんねえよ。俺と対等に将軍職が務まるんだから」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。兵の数が十分だったら、今回の戦いはいけたと思うけどな」
ティジットが苦笑する。慰められたと思ったのだ。
「あなたには感謝してますよ。戦が不得手な私たちを上手く鼓舞してくれるのですから」
「だっから本音だっての。最近、この森の西隣に広がってた西津森もアンデルアにやられて、逃げてきた兵士志願者が大量にこの館に集まって来てる。そいつらもそろそろ使い道になる頃だから、きっと次は心配いらねえよ」
ティジットは再びため息を落とす。今度はそばの豪快な男にではなく、滅びた隣森の同胞を思ってだ。
「戦で行方知れずの西津森の主は無事でしょうか。奥方様の祖父にあたるのだとか……」
「もう爺さんだからな。駄目かもしれないな」
「西津森の民のためにも、このまま負け続けるわけにはいきませんね」
「お、よしよし。やる気が出てきたようだな! それでこそティジットだ」
二人はいくつかの階段を降り、ほどなく中庭に出た。
神や精霊が降り立ち遊ぶような見事な彫像が並び、大きくはないが綺麗な水を湛えた噴水の飛沫が日の光にきらきらと輝く。そこには森の小鳥やどこからか入り込んだ小動物たちまでもが立ち寄る。
まるで館を取り囲む森をそのまま持ってきて、いくらか手入れを施したような美しい場所だ。ここは兵士ではない館の外の集落に住む一般の民も出入りが許されていて、いつも憩いに賑わっている。
その中を横切って、ティジットとエイクは並んで進んだ。
「しっかし、お前も大変だよな」
エイクがティジットをちらりと見る。当のティジットは不思議そうに首を傾げた。
「なにがですか?」
「……っと、噂をすればおいでなすったぜ」
エイクの視線を辿ったティジットは、見るだけで匂うような薔薇のアーチで飾られた小道の向こうからやって来た、年頃の若い娘たちと目が合った。
娘たちが嬉しそうな甲高い声を上げながらこちらに手を振る。そうして口々にティジットの無事を声に出し喜びながら、ぱたぱたと兎のように愛らしい仕草でお目当ての人物に向かって駆けて来た。
けれどティジットは立ち止まらず、柔らかい笑顔を作ると優しく手を振り、むしろ早足になってその前を通り過ぎる。
その色男の背中をゆっくり追いかけて、エイクがにたついた。
「顔良し、性格良し、頭も良いって、そりゃもてるわ」
「男は戦で減っていますからね」
ティジットは真面目な顔で極めて冷静にそう言う。エイクが少しよろけた。
「いや、もてる理由はそういうことじゃないだろ……。現に、俺んとこには来ないぜえ? こんなに空いてるのに」
筋肉豊かな太い腕を持ち上げ、大男は両脇をがっぽりと空けてみせる。
「エイクこそ多くの女性に慕われているのではないかと思っていましたが……」
ティジットが心底信じられないという顔をする。エイクはがっくりと肩を落とした。
「男にもてるんだよな、俺。求めてないのに舎弟がわんさかだぜ?」
「それはそれで幸せなことです」
「女にもてる方がいいよ。お前が羨ましい」
聞いたティジットは急に立ち止まり、エイクに困った顔を向けた。
「……申し訳ないとは思うんですが、正直、あまり興味がないんです」
「男色家か?」
「違います。過去にはお付き合いさせていただいた女性も何人かいます」
エイクが「がはは」と下品に笑った。からかわれたようだ。
「知ってる。知ってる。何人かじゃねえだろ。なんか若いころはずいぶん慣らしたってハナシじゃねえか。ん?」
「しかし、今は戦のことを思うと……」
聞こえていなかったはずはないのだが、答えずに、ティジットは首を振り、少しやつれた横顔を見せた。無視したのは呆れたのでも、触れられたくなかったからでもない。
様子を見て、少し唖然としていたエイクだったが、我に返ってにんまりと笑うと、急に鋭くティジットの鼻先に指を向けた。
「そりゃあれだ。戦のせいだけじゃない。お前の心を動かすような女に、まだ出会ってないからだ」
「そうでしょうか」
ティジットはふいとかわす。全く相手にしていない。それどころか、不謹慎な話題だとでも言わんばかりに、嫌悪感を顕にしてしまったくらいだ。
避けられたエイクは、どた足で駆けてまでティジットの正面に回る。
「きっとそうだ。お前、意外と、好きになったら命がけだと思うぜ。しかも一目惚れだ」
「そんな自分は想像ができませんね」
「その時はさんざん茶化してやるから待ってろ。がはは」
白けて覇気のないティジットの背中を、エイクは勢いよく叩いた。
よく鍛えられた生粋の剣士の一撃によろけて、ティジットがむせる。そして迷惑そうに睨む。だが、それが消えた顔には、ようやく少しだけ笑みが浮かんでいた。
エイクの力技で、無理矢理に。