経済を複雑系科学を交えた視点で
今回は循環モデルから離れて、複雑系科学の視点から、経済を考えてみたいと思います。
――資本主義経済、ひいては近代経済学の創始は知っての通りあの有名なアダム・スミスによって成されました。
その中でも、特筆すべきなのが“見えざる手”によって、市場は自然と適切な状態へと導かれる、という考えでしょう。
需要と供給のバランスによって、生産物の価格が自動的に決定され、更に、進化論にも通じる競争原理によって、生産物の質が向上していく……。
この考えは、市場に任せておけばベストな状態に至るという“市場万能主義”として古典派経済学(新古典派経済学)へと受け継がれていく事になります。
この考えを持った新古典派経済学では、だから市場への介入はできうる限り抑えるべきだと主張されています。余計な市場への介入は、悪影響を与えると考えられているからですね。
もちろん、これに異を唱える人達も存在しています。新古典派経済学と対になるようにして在るケインズ経済学と言われる経済学派の学者達が、その代表的な人達です。
ケインズ経済学では、市場は失敗をする事も有り得ると考えます。だから、積極的に政府が市場に介入し調節を行うべきだ、と主張されているのです。
この考えは、世界恐慌に陥った時代背景とも重なり、説得力のある意見として世の中に広がっていきました。多くの国が、ケインズ経済学を基にした政策を執ったのです。そして、それはある一定の効果を持ちました。しかし、結果として“膨大に膨らむ財政赤字”という弊害ももたらしてしまったのです。
どうしてなのかと言うと、その為には国が通貨を積極的に使わなければいけなかったからです。民間の需要が低く通貨を使わない、その為に供給過剰になって不景気になる。なら、国が通貨を使ってやればいい。そんな発想で、国が借金して通貨を使いまくったのですね。
因みに、この発想には、“通貨の循環場所を増やす”って事がそれほど重要視されてはいませんでした。需要を増やしさえすれば、何でもいいってノリで通貨が使われまくっていたのです。ですが、今まで論じてきた通り、生産物の需要には限界があります。だから、一時的には需要を増やせても、新生産物を誕生させなければ、安定して通貨循環が増えるなんて事は起こりません。直ぐに元通りになってしまいます。通貨の循環が増えないのであれば、税収の増加は見込めません(不景気のままなら、増税もし難いでしょう)。ならば、それは借金に頼って行われるしかありません。膨大な財政赤字は当然の帰結になります。
“通貨の循環場所”って発想が抜け落ちていたが為に、そんな事にも気付けなかったのですね。
ただ、適切な介入で収まっていたのなら、これはそれほどの問題にはなっていなかったかもしれません。傷は浅かったかも。ですが、それらの政策は、多くの場合で、実質的な効果のみを目的には行われなかったのです。
……人間ってのは利益や権力が絡むと悪い事をし始めるもので、その国が使う膨大なお金に吸い寄せられるようにして、様々な人が群がり、過剰な無駄遣いが行われるようになってしまったのです。言うまでもなく、国の政策を利用して、甘い汁を吸おうって人がたくさん現れたからですね。その所為で環境破壊が加速されてしまったりとか、財政問題以外にも色々と問題を引き起こしています。
何かを思い出す人もいるかもしれませんが、これは現在(2007年6月)の日本が陥っている状況と全く同じです。つまりは、日本に限らす、世界中で似たような問題が起こっているって事です(もっとも、先進国の中で一番深刻なのは日本ですが)。だからこれは、日本固有の社会問題というよりも、システム自体に根本的な欠陥がある、と捉えられるべきものなのでしょう。
さて、この失敗からか、結果として、古典派経済学が“新古典派経済学”なんて、なんだか矛盾するネーミングがつけられて、“市場万能主義”と共に復活をしました。これは主にアメリカで盛んに主張されています。実際に、ニューエコノミーと言われ、成功を収めてもいた訳ですが… 実を言ってしまうのであれば、アメリカ国内からも多数の疑問の声が上がっているのです。
ニューエコノミー。市場万能主義と、近年の情報技術革命が結び付く事がメインですが、しかし、それに加えて、金融経済の活発化といった要因がこの“ニューエコノミー”には強く絡んでいるのです。情報技術によって、より活発になった金融経済。本当の主役はむしろそちらであると捉えた方がいいかもしれません。実質経済の何十倍とも言われる規模の金融経済こそが、アメリカ“ニューエコノミー”時代の発展を支えたのです。
注視しなければならないのは、金融経済には、実体経済とは違った点が存在するという事実です。その為に、金融経済にはアダム・スミスが“見えざる手”と表現した市場原理が有効には働きません(有効に働かないからこそ、バブル経済なんて現象が起こってしまうのです。自動調節機能が、壊れてしまっている)。
これは実はかなり問題かつ、重大な事実です。その点を指摘する人はあまりいませんが(と言っても、ちゃんと指摘している人もいます)、資本主義が前提としている市場原理が通用しないのだから、大問題のはずです。
つまり、金融経済における市場万能主義の効果は、アダム・スミスが主張したそれとは全く別物なのです。
それがどう違うのかといった説明は後に回すとして、まずはどうして金融経済には、市場原理が有効に働かないのか、そこから説明をし始める事にしましょう。
アダム・スミスの“見えざる手”の効果を、現代の複雑系科学の概念によって説明すると“フィードバック”の効果、となります(因みに、アダム・スミスの時代にはこんな概念はありませんでした)。
取り分け、需要供給バランスによる価格の自動調節機能に焦点を当てるのなら、“負のフィードバック”の効果です。
負のフィードバックとは、大き過ぎれば減少し、小さ過ぎれば増加するというルールで原因が結果に影響を与える現象を言います。例えば、エアコンの温度を25度に設定して、部屋の温度が28度だったなら、エアコンは冷気を強め温度を下げようとします。反対に、22度ならば冷気を弱めるか止めるかして、部屋の温度を上げようとするでしょう。結果的にエアコンの温度は25度前後にキープされる事になります。これが、“負のフィードバック”の効果です。
これと同じ効果が、資本主義経済における生産物の価格にも当て嵌まります。供給に対して需要の方が高ければ、生産物の価格は高くなるでしょう。このまま高くなり続けられたら大変です。誰もそれを買えなくなってしまう。ですが、もちろん、永久に価格が高くなり続けるなんて事は起こりません。何故なら、価格が高くなれば需要が低くなるので、結果的に価格はある一定範囲にキープされる事になるからです。
しかし。
これは、飽くまで普通の生産物に関するお話です。生産物自体に需要がある場合、市場効果による需給バランスによって“負のフィードバック”が成り立つので、価格は自動調節されるのですが、金融に関してはこの“負のフィードバック”の効果が働かないケースが存在するのです。
金融経済における生産物は、それ自体に需要があるのではなく、その生産物を売買する事によって利益を得られるという“期待”にこそ需要があります。
需要が高くなれば、金融経済でも当然、生産物の価値は高くなっていきます。その過程で、「これは高くなり過ぎだな」という不安が起これば、利益を確定させる為に売られ、需要が低下し価値も下がりますが、集団心理によってその不安が麻痺をすれば、需要は低くはならないのです。それどころか、逆に益々高くなります。何故なら、売る事によって得られる利益が更に増えるだろうという“期待”が更に強くなるからです。
つまり“期待”が“期待”を呼んで、価値の上昇が止まらなくなってしまうのです。もちろん、そんなものは幻想なので、いつかは崩壊するのですが。言うまでもないかもしれませんが、これが“バブル経済”です。因みに、このような効果は“正のフィードバック”と呼ばれます。つまり、バブル経済とは“負のフィードバック”から“正のフィードバック”への転換が起こる事によって、価値の自動調節が働かなくなり、引き起こされてしまう現象なのです。
この現象は、土地や株に限らず、売買する事によって利益を得られるものならば、何にだって起こる可能性があります(過去、ウサギやチューリップの球根なんかでも、バブル現象が起こった事例があります)。
当たり前の話ですが、こんな事が起こる社会は不安定で暮らし難くて仕方ありません。バブルの崩壊が起これば、かなりの数の人を巻き込み、何万、何千という規模の死者を出してしまいます。そして、市場万能主義では、“バブル経済”を防ぐ事はできないのです(むしろ、引き起こし易くしてしまうといった懸念すらあります)。
金融経済においての市場原理の効果が、アダム・スミスが主張したものとは全く異なっている事がよく分かると思います。“負のフィードバック”ではなく、“正のフィードバック”が起こってしまうのですから。
金融経済に市場万能主義を適応させる事には、明らかに問題があります。こういった問題を起こさせない為にも、国による規制やコントロールがどうしても必要ですし、不必要に活発化させる事も避けるべきでしょう(バブル経済なんてものが、頻繁に起こるようでは大問題です)。
更に、金融経済の問題点は、まだこればかりではないのです。
実は、金融経済には“富の集中”を引き起こす効果も存在しているのです。これも“正のフィードバック”が関係してくるお話なのですが、それだけではないので、今回もまずは抽象概念から説明を始めたいと思います。
この世界には、何かが集中をしているという現象がよく観察できます。
星は物質が一部に密集してできたものですし、都市は人口が一部に集中をしてできたものです。近年に入って観られるようになった例を出すのなら、インターネットの巨大サイトにはリンクが集中をしていたりしています。
こういった何かが一部に集中をする現象には、自己組織化現象と呼ばれるものが絡んでいるのですが、それを引き起こす作用の内、最も単純なものの一つにも“正のフィードバック”があります。
都市の人口集中で考えましょうか。
人口が多いという事には様々なメリットがあります。人が多ければ、商売にも適していますし、商業が活発になれば、様々な生産物を得る事ができるようになり便利です。その他、文化の発達、交流などなど様々な利点があり、その事が人を集め易くします。
つまり、人が多い事には、人を集める力を強くする要因があるのです。すると、人が集まれば集まるほど、益々、人を集める力が強くなるという“正のフィードバック”が働く事になるのです。
結果的に、人口は一部に集中をし、都市が形成されるに至ります。星の誕生や、巨大サイトの誕生も、抽象概念で観れば同じように“正のフィードバック”によって、物質やリンクの一部集中が起こっているのです。
さて。
この“正のフィードバック”によって集中が引き起こされる事象の一つに“権力と富”があります。
権力が集中をすれば、当たり前ですが、他よりも有利になります。すると、富を集める力が更に強くなります。富が集まれば、権力が更に強くなり、ますます富は一部へと集中をしていく、という現象が起こるのです。
権力者が、自分達にとって有利なルールを敷いて、社会運営を行いたがる事はよく知られた事実ですが、それはこの“正のフィードバック”と重ねる事ができます。
つまり、人間社会には“権力と富”の集中を引き起こすシステムが、初めから内包されているのです。実際、封建社会はこの効果が働くが為に、権力と富が一部へと集中していましたし、共産主義国家でも同様の作用があったが為に、権力と富が一部へと集中していました(平等を説いた社会システムに、それがある事はとても皮肉ですが)。
もっとも、資本主義システムにもこれと同様の効果があります。利益を得れば得るほど、その企業は有利になっていく。富の集中が起こってしまいます。ですが、資本主義社会は同時に民主主義システムを採用しているケースがほとんどで、そしてこの民主主義システムが富の集中を緩和していました。
資本主義システムでは、成功すればするほど権力が集中していきますが、民主主義システムでは、富める者にも貧しい者にも平等に権利を与えています。それによって、一部の人間にとってのみ有利なルールを設定させる事を予防できているのです(もっとも、飽くまで理想な訳ですが。実際には、数多くの不正によって、一部の人間にとって有利なルールが設定されています)。また、累進課税制度が不平等を緩和してもいます。
実際、民主主義と資本主義がセットで現れた時代から、貧富の格差はそれまでよりも少なくなっていきました。ある程度の格差はむしろ必要でしょうから、程好い格差が実現できていたと言えるかもしれません。
もっとも、これは飽くまでバランスが取れた状態において言える事です。権力と富の集中する力が、民主主義システムのそれを拡散する効果よりも強ければ、過剰な“権力と富”の集中が起こります。
金融経済。
そして、金融経済には、過剰な“権力と富”の集中を起こす効果があるのです(金融経済の場合、富が一部へ集中しても、経済発展が可能なのは、以前に説明した通りです)。
通貨を持っていれば、持っているほど、金融経済では有利であるが為に、通貨が一部へと集中する。これは、旧くはドイツの経済学者ヒルファーディングの『金融資本論』の中で述べられていて、最近だと、(先にも一度、例として出しましたが)複雑系科学のコンピュータ・シミュレーション… パリ大学の物理学者ジャン・フィリップ・ブーショとマルク・メザールの行った実験で、富の集中が観察できています。
金融経済における富の集中効果は、恐らく強過ぎます。金融経済によって、富が一部に集中した事により、企業内で明らかな権力濫用が目立ってきている例すらもあります。その様子は、皮肉な事に、まるで共産主義国家の様だと形容されてもいます。
これはアメリカで主に起こっている現象ですが、これを抑える為、金融業界にとって不利な法律が制定されようとすると、金融業界から圧力がかかり、その法案は潰されてしまうそうです。つまり、権力を手にした人間が、自分達にとって有利なルールを社会に設定する、という現象が起こっているのです。
(これは、とても怖い事です。が、日本も他人事ではありません。人権擁護法案なんかを観れば、分かると思いますが)
金融経済システムには、明らかに、権力を一部へ集中させる効果が過剰にあります。この点からも金融経済を不必要に活発化させる事には、問題があると言わざるを得ないでしょう。
しかも、富の集中が臨界点を超えれば、破滅的な崩壊が起こってしまうかもしれないのです。自己組織化臨界点って概念が複雑系科学にはあるのですが、例えば、雪崩がある時に突然起こるように、経済システムがある日、一気に崩壊するなんて事が起こり得るのです。
更に言うのなら、金融経済は実体のない経済です。人々の気分で簡単に揺れてしまう。そんなものに依存している経済の状態は、明らかに不健全です。金融経済に依存している状態で、もしそれが麻痺すれば、食糧自給率の低い日本は危機的状況に陥ります。実体経済中心の体制を、早く取り戻すべきでしょう。
個人的意見を言わせてもらうのなら、金融部門への増税を行うべきだと考えています。全てが不必要な訳ではありませんし、今の経済状態で規制したら、どんな事が起こるのか分かったものじゃない。なら、金融経済を不活発にするよう増税によって働きかけるのがベストなのじゃないだろうか?と。
増税すれば税収も上がる訳で、財政難に陥っている今の日本の状態を鑑みても、メリットがあります。
さて。色々と複雑系科学の概念を利用して経済を中心に語ってきた訳ですが、もちろん、複雑系科学の概念が使えるのは、こういった事ばかりではありません。もっと様々な事象を捉えるのに用いる事が可能です。
例えば、社会システムについてのこんな分析が可能になります。
社会は集団→個人、個人→集団という相互影響によって成り立っています。この相互影響によって、社会は健全に維持されるのです。集団→個人という流れがなければ、社会は組織として機能する事ができません。個人を従わせるルールがなければ、動的過ぎて社会は混沌状態に陥ってしまうでしょう。その反対に個人→集団という流れがなければ、静的過ぎて社会は柔軟に変化する事ができません。個人の自由を奪い過ぎると、やがて社会が破綻してしまう事は、共産主義社会の自滅を観ても明らかでしょう。
これらを踏まえた上で、民主主義システムのメリットを考えてみます。
民主主義には、知っての通り選挙制度があります。この選挙制度は、個人の影響を集団に伝える役割を果たしてします。つまり選挙制度は“個人→集団”の流れを起こしていると表現できるのです。
個人から集団へのフィードバックですね。
集団から個人へ負荷がかかると、選挙制度を通して、社会全体が変化をします。そして、負荷が取り除かれる(そうじゃない場合もたくさんありますが)。つまり、小規模な変化をたくさん起こし、社会全体を微調整しているのが民主主義というシステムなのです。
それに対して、共産主義国家のような専制的なシステムでは、この微調整が行われません。よって、負荷がたまっていき、結果的に大きな変革… つまり、革命が起こって一気に社会が変わる事になります。
もちろん、まだ欠点もたくさんある訳ですが、こうして観ると、常に微調整を行っている民主主義の方が他のシステムより安定している事が分かります(個人の自由を認めているのにも拘わらず、民主主義社会が安定している事には、自己組織化って概念が当て嵌められるのですが、説明が長くなるので割愛します)。
他にもこういった分析を行っていけば、問題点をよりはっきりさせる事が可能で、それによって対応策も見えてくるはずです。
財政赤字が膨大になるのを予防する方法を考えてみましょう。
通常、国債を発行し、借金をしたとしても官僚などにはほとんどデメリットがありません。デメリットがあるのは、納税を行っている一般の国民でしょう。そして、官僚などにデメリットがないからこそ、借金を止める力が働かないし、無駄遣いを抑える力も働かないのです。これにより、“正のフィードバック”による権力集中が起こってしまいます。
なら、国が借金をする事に、官僚などにとってのデメリットを作ってやりましょう。
利子なし国債。
そういうものを作ります。利子のない国債なんて誰も買う訳はありませんが、国債を発行する場合には、ある一定割合でこれを混ぜ、そしてこの利子なし国債を、公務員や政治家などに支払う給料や歳費の一部とすれば、それを消化できます。
そして、ある一定の期間、財政状態が悪い状況では利子なし国債の換金はできない、売買は禁止、等のルールを敷けば、財政を悪化させる事への抑止力を作る事ができます(もちろん、利子による財政悪化も緩和させる事ができます)。
財政が破綻した時、真っ先に損をするのは自分達な訳ですからね。財政悪化は避けようとするはずです。
もちろん、こんなルールを、権力を握っている人達が設定するはずはありませんが……、少なくとも為す術がないって訳ではないのです。他にも、こういった発想を応用すればやりようはあるかもしれませんし。