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循環するモデル 3 需要の限界から

 前回は、基本的な通貨循環モデルの説明をしました。今回は、その基本をもっと展開していきたいと思います。

 ただ、まぁ、そんなには難しくはないと思うので、心配しなくても大丈夫ですが。

 理論の展開方法にも色々ありますが、ここでは“需要の限界”に着目をして、それを行いたいと思います。

 

 前章でも少しだけ触れましたが、さっきのモデルの基本的な流れが起こるのは、生産物の需要に限界があると設定した場合のみです。もし、需要に限界がなければ、生産効率向上が起こったとしても、失業者は発生しないし、新しい生産物は誕生し難くなります。

 (因みに、既存にある経済学。特に古典派或いは新古典派経済学と呼ばれる経済学では、需要の限界について深く考えてはいません。というよりも、無限であると想定している向きすらあります。セイの法則ですが。だから、基本では、生産効率向上によって、景気が後退するケースがあるといった考えには至っていません)

 何故かっていいますと……

 まぁ、モデルを展開しつつで考えてみましょうか。

 生産物Aの生産効率が向上して、一人につき五個生産できるようになったとしましょう。でもって、需要に限界がない、と設定します。

 すると、どうなるでしょう?

 需要に限界がないのだから、生産された分だけ生活者が欲しがる事になります。だから、単純に一人につき五個生産できたなら、五個消費するようになります。生産物Aに対する循環量が増大する事になりますね。すると、社会全体の通貨循環量は単純に五倍になります。

 だから、もしも需要に限界がないのだとすれば、生産物の供給面にばかり注目をすればいい事になります。いかに、生産効率を上昇させるかのみが、経済発展をする為には重要になってくる、という訳です(その為、需要の限界を重視しない、新古典派経済学では、供給面に注目しているのです)。

 まぁ、実際にはしっかりと需要の限界があるので、そればかりに注目をしている訳にもいかなのですが。

 経験的に考えても、生産物の需要に限界があるというのは、当たり前に想定できる事です。

 冷蔵庫を五個も十個も欲しがる人が、そんなにいるとは思えません。それに、だからこそ労働力が余るし、新生産物の誕生も、それによって可能になるのだと思いますから。需要が無限の場合でも、(生産物間の相対的な需要差ってのを考慮すれば)全く新生産物が誕生しないとは限りませんが、少なくともかなり誕生し難くなりそうです。

 

 需要に限界を設定するのと、しないのとでは、まだ違いがあります。

 需要に限界があると設定すると、所得格差が少ない方が、つまり、ある程度は平等な社会の方が、経済発展には有利である事が導けます。

 先に用いた生産物A、Bが存在している状態の社会モデルを登場させましょう。

 生産物Aを五個、一人が生産しており、生産物Bを一個、残り四人が生産している社会です。この社会では、生産物Aを生産している一人が生産物A、Bを消費しており、残り四人は生産物Aのみを消費しています。

 価格は、生産物Aは10円で、生産物Bは40円でした。生産物Bを生産している四人は、高価なBを消費する事はできません。

 つまり、この社会は所得格差のある社会です。

 この状態の通貨の循環量を計算すると、生産物Aは、全体で五個売れるので50円。生産物Bは、全体で一個のみなので、40円。合計して、90円になります。

 生産物Bの生産効率が低い場合は、これは変化しようがありません。所得格差がある方がスムーズに通貨循環が起こる可能性すらあります(ただし、時期をずらして順番に生産物Bを消費するような社会を考えるのなら、所得格差のない社会でも通貨循環は問題なく起こります。家などの高額な商品の場合、こういった循環が、現実社会でも起こっていると想定するべきかもしれません)。

 しかし、ここで生産物Bの生産効率向上が起こったとします。生産物Bを五個生産する事が可能になったとするのです。生産物Bの生産量は上昇します。ここで、その増えた分の通貨循環量に合わせる為に、通貨の供給量を増やしましょう。生産物Bの価格は40円でそれが五個生産できるようになったので、その分の通貨を増やすのです。

 さて。

 この時に想定できるパターンには、二つの方向性が存在します。

 生産物Aを生産している一人に対して、その通貨を供給する所得格差のあるパターンと、平等に社会全体の生活者に通貨を供給する所得格差のないパターン。

 生産物Bの限界需要が、五個以上だった場合は、所得格差があるパターンでも、通貨の循環量は増えます。生産物Bを一人が五個消費するので、通貨循環量が増加するのです。

 しかし、生産物Bの限界需要が一個のみだった場合は、通貨循環量は増加しません。生活者は、一個だけ生産物Bを消費し、残りは貯金にしてしまうでしょう。

 つまり、生産物の供給量が高額所得者層の需要を超える場合は、所得格差があると経済発展は起こらないのです。しかし、所得格差がないパターンの場合は、当然ですが、通貨の循環量が増大し、経済発展が起こります。

 生産物Bに対して、一個のみだった通貨の流れが、五個に増えるのだから、これは当たり前です。

 要するに、充分な供給量が存在する場合は、平等な社会の方が経済発展には有利だという結論が得られるのです。

 まぁ、飽くまで消費の側から観た結論で、生産する側から観た場合は、競争原理を有効利用するという点で、ある程度の所得格差は必要になって来るのですが。

 これは別の説明も可能です。

 1千万円を一人に渡すと、一年間ほどならば全てを使い切りはしないで、500万円ほどは貯金になる可能性が大きいです。しかし、一千万円を十人で分けて、一人100万円ずつ渡したとしたら、全てを使い切る可能性が高いでしょう。

 これで観ると一人に渡した場合は、500万円の通貨循環、10人に平等に渡した場合は1000万円。平等にした方が、経済が活性化している事が分かります。

 実はこれは実際の社会でも知られた現象です。所得格差の少ない社会の方が、経済発展をしているのです。高度経済成長時の日本を思い浮べてもらえれば分かり易いかもしれませんが、当時、日本は世界でも例を見ない程の中流社会でした。反対に、所得格差の酷い社会は、発展途上国から抜け出せないという傾向が強いのです(もっとも、これには労働コストが低いあまりに、生産効率向上の努力を怠ってしまう、という要因も強く絡んでいるのかもしれませんが)。

 この現象は、既存にある経済学では巧く説明されてきませんでした。所得格差がない社会の場合、教育水準が高いからだ、という説明を目にした事がありますが、それでは、数学の教育水準では世界最高と言われているインドの経済成長が遅かった理由が説明できません。

 もっとも経済学でなければ、複雑系科学のコンピュータ・シミュレーション… パリ大学の物理学者ジャン・フィリップ・ブーショとマルク・メザールの行った実験で、生産物の売買を繰り返すと富が平等になるように推移した、という結果があります。

 ただし。

 この想定には、一つだけ例外あります。需要限界が極めて高い通貨の循環場所(生産物による通貨循環、としてしまって良いかは正直、分かりません)が存在するのです。

 そして、それが活発化した場合は、所得格差が開いたとしても、通貨の循環量が増加し経済成長が起こります。

 それは“金融”という分野。

 株式投資(投機)などの金融商品では、需要限界が極めて高いので、所得格差が開いても問題なく経済成長が起こるのです。通貨を膨大に手に入れても、それを再び投資(投機)に回すために、通貨循環が増加するのですね。

 その昔は、物理的な制約によって、投機需要に制限が自動的にかかりましたが、近年になってインターネットが普及すると、この事情は変わりました。ネット上で、取引が迅速かつ、膨大な量行えるようになったので、需要限界が一気に高くなってしまったのです。

 この典型的な例は、何と言ってもアメリカです。アメリカでは、株式投資の文化が社会に定着をするのとほぼ同時期に所得格差が開き始め、経済成長も促されました。日本でも、これは起こりつつあるように思えます。所得格差が開いても、経済成長が起こっているように思えるのです(2007年6月頃に、これは書きました。今は、どうでしょうかね?)。

 しかし、金融分野による経済の活性化には様々な問題点があるので、恐らく、これは歓迎するべきものではありません。

 (この点は、今回の僕の通貨循環モデルでは、説明できる範囲ではありませんが、重要な話なので、もうちょっと後に、もう少し詳しく述べたいと思います)

 

 平等の話に触れたところで、ついでに説明しておきたい事があります。

 所得格差がなく完全に平等。かつ、生産物の消費量が同じで、全ての生産物をその社会の生活者が消費している、という理想状態にある社会を想定すると、

 

 労働人口の比 = 生産物の価格比

 

 という関係性が導き出せます。

 先の循環モデルでこれを観ると、

 

 生産物A:生産物B

 

 として、労働者の割合は、

 

 一人:四人

 

 となって、価格の割合は、

 

 10円:40円

 

 となっています。

 労働人口の比と、価格の比が同じである事が分かると思います。

 どうしてこうなるのかの証明は簡単で、労働者に全生産物を消費できる分の賃金を支払うとすると、結局、生産物の価格を労働人口の割合と同じに設定しなければならなくなるので、必然的に同比になるのです。

 普通によく言われている物の値段決定は、需要と供給のバランスですが、労働コスト、労働人口の割合もそれに追加しなければならないってところでしょうか。

 因みに、価格の硬直性や、需要は低いけれど高額な生産物は、これで説明する事が可能になります(供給量に対して、労働人口の割合が大きいと、専門書のような、一部の人間にしか需要がない生産物の価格は高くなるのです)。

 また、この結論から、循環しない通貨は、失業者を発生させる結果をもたらす事も導けます。つまり、通貨をいつまでも使わないで、貯蓄し続けると、いずれは失業者を発生させてしまうのです(少し考えれば分かるのですが、通貨を使うと、その循環場所に労働者は用いられます。ならば、逆に通貨を使わなければ、労働者を使わない… つまり、失業者を発生させる事になるのは、直感的にも理解できるはずです)。

 因みに、先に述べた理想状態の社会の場合、貯金÷平均所得の単純な式で、貯蓄し続けると何人が失業するのかを求める事ができます(と言っても、現実社会では、本当に使われない貯蓄なのか、将来は使われる貯蓄なのか、判断がし難いといった点や、所得格差や需要の差などで誤差が絶対に生じるだろう点を考慮すると、この式に実用面の価値はそれほどないかもしれませんが)。

 

 さて。

 生産物一種類に対する需要の限界から話を展開してきましたが(一部、そうでもないですが)、今度は生産物全体に対する需要の限界に注目をしたいと思います。

 生産物一種類の需要に限界が存在するのはほぼ自明であると考えられますが、生産物の種類が増えるのにも、限界が存在するのではないだろうか?って話ですね、今度は。

 生産物の種類は、今までに述べてきた通り、A、B、C、D… と増加し続けるはずですが、もちろん、無限に増加するはずはありません。必ず、限界があるはずです。

 つまり。

 生産効率が向上した。労働力が余った。しかし、新生産物が誕生をしない。そんな状態が予想できるって話です。

 もし仮に、人間の性質上、需要限界が存在しないとしたとしても、物理的に、無限の需要を想定する事は不可能なので、絶対に生産物種類の増加にも限界があります。

 (だって、時間当たりの消費量には、絶対に限界があるはずでしょう? 限界なく、無限の速度で、何かを買い続ける事ができる人なんていません)

 この状態では、通貨が余る事になります。余った労働力の分だけ。もちろん、失業者が存在するのですから、深刻な問題です。社会は不況状態から脱却できません。解決しなくちゃなりませんが… その詳しい方法は次で説明したいと思います。

 因みにこれと逆のパターンも、もちろん想定できます。つまり、生産効率の向上が限界に達した場合。

 この場合は、もし新たな生産物が欲しかったなら、別の生産物の生産を中止して、その分の労働力を新生産物の生産に当てる必要があります。

 経済社会が萎縮するなんて事は起こらないので、深刻な問題は(少なくとも経済的には)なさそうです。

 では、次は、今まで説明した事柄の、現実社会での活用方法を色々と書いていきたいと思います。

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