「おやすみ宇宙人」
第1章:1420MHzの憂鬱
石油ストーブが「コトコト……」と、まるで不機嫌な老人のようにくぐもった音を立てている。
十二月。世間はクリスマスだ受験だと浮き足立っているが、僕の部屋のカレンダーはなぜか八月で止まったままだ。めくる気力が湧かない。机の上の「進路希望調査票」も、提出期限を二週間ぶっちぎった状態で完全放置されている。
その調査票のすぐ横には、僕の趣味の残骸が積み上がっていた。
アーサー・C・クラークやアシモフの古典SF小説、カール・セーガンの『コスモス』、分厚い『世界史図録』に、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』。
かつての僕は、天文学から人類文明の歩みまで、あらゆる未知にワクワクできる生粋のインフォマニア(情報収集オタク)だった。宇宙の果てはどうなっているのか、人類はどこへ向かうのか。そんな壮大なロマンに胸を躍らせていたはずなのに。
「慎、まだ起きてるの? 明日遅刻しても知らないからね」
ドアの向こうから母親のテンプレ通りの小言。
「……起きてる。あとちょっとしたら寝る」
適当な返事をして足音が遠ざかるのを待つ。よし、セーフ。
僕は大きく息を吐き、白紙のプリントを睨みつけた。
『第一志望』『第二志望』『卒業後の希望進路』。
四角い枠線の羅列が、まるで「お前にはもう入るべき箱が残されていないぞ」とドヤ顔で嘲笑っているように見える。
逃げるように椅子から立ち上がり、窓を少しだけ開けた。
十二月の鋭い冷気が、ぬるま湯のような四畳半に流れ込んでくる。見上げた夜空には、凍りついたような星屑が無数に散らばっていた。
星の光が地球に届くまでには、何万年、何億年という時間がかかる。宇宙は果てしなく広くて、僕というちっぽけなバグ(不良品)のことなんて、1ミリも気に留めていない。その圧倒的な無関心さが、今の僕にはどうしようもなく残酷で、息が詰まるほどの孤独を感じさせた。
……やってみるか。
僕は机の引き出しの奥から、こっそり手に入れておいたタバコの箱と、祖父の遺品である古びた異国製のライターを取り出した。
不良ぶる気なんてない。ただ、肺の中に強烈な異物を叩き込めば、この胸の奥のぐちゃぐちゃなモヤモヤも一緒にごまかせるような気がしたのだ。
咥えて、重厚な金属音を立てるライターで火をつける。思い切り息を吸い込んだ。
「――ッ、ゲホッ! ゴホッ、ゲホッ!!」
死ぬかと思った。喉の奥を直接紙やすりで削り取られたような激痛が走り、盛大にむせ返る。
馬鹿みたいだ。カッコつけることすら、何一つ上手くいかない。
煙と激しい咳のせいで、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。でも、それがただのタバコの煙のせいじゃないことくらい、自分でも分かっていた。
「……だっさ」
涙を乱暴に袖で拭い、吸い殻を空き缶に放り込んで窓をピシャリと閉める。
無意識に左膝をさすった。
靭帯断裂、および半月板損傷。スポーツ整形外科のイケメン医者が告げた冷徹な死亡宣告から半年。冷え込みが厳しくなると、今でも奥の方がズキズキとアッパーカットを喰らったみたいに鈍く痛む。
小学三年生からずっと、僕の脳内メモリの9割はサッカーで占められていた。冬の選手権予選で、あの緑色の聖地に立つことだけを夢見て生きてきた。でも、残りの1割の知的好奇心すら、今は埃をかぶったままだ。
行き場のない感情と痛みから逃避するため、僕は机の隅に鎮座しているガラクタ――祖父の遺品である古い真空管ラジオに手を伸ばした。
木製のキャビネットに収められた、不格好で重たい機械。周波数を合わせるアナログのダイヤルを回すと、「ガリガリ」と骨董品特有のいい音がする。
カチリ、と電源を入れる。
真空管がじわっとオレンジ色に灯り、しばらくして「ザーーーッ」という心地よい砂嵐の音がスピーカーから溢れ出した。
これこれ、これだよ。
どこかの国のよく分からないニュース、ピーガーいう電子音。誰も僕に期待していないし、誰も僕の怪我に同情してこない。この距離感が、今の僕には最高のご馳走だった。
ダイヤルをさらに回し、短波の領域――1420メガヘルツ付近を探る。
宇宙で最もありふれた水素が発する電波の周波数帯だ。いわば「宇宙の静寂」をダイレクトに聴くための特等席。ここはいつも「サー……」という静かな宇宙背景放射があるだけの、世界一退屈な帯域のはずだった。
しかし、今夜は違った。
『――ァ……ァ……』
ノイズの奥の奥から、何かが引っかかる。
ダイヤルを握る手がピタリと止まる。耳を澄ます。
『――ォ……ゥ……』
それは言葉じゃなかった。
何千、いや、何十億という声が、寸分の狂いもなく完全に調和し、一つの巨大な「コーラス」になっているような、不気味なほど美しい響きだった。
「なんだこれ、バグか?」
背筋がゾクゾクする。人間の声に似ているが、人間がこんな風に完璧にハモるなんて物理的に不可能だ。けれど単なる電子音とも違う。圧倒的な「温かさ」というか、巨大な生き物のスープの中にどっぷり浸かっているような感覚。
その時だった。
『――聞こえる?』
コーラスの海から、ふつりと一つの雫がこぼれ落ちるように、滑らかで、驚くほど可愛い声が脳内に直接響いた。
制服の上からでも分かるくらい――なんて下品な想像をしてしまう余地もないほど、圧倒的に美少女の「声」だった。
真空管のオレンジ色の光が、意思を持つようにパチパチと瞬く。
『……ずっと、痛かったね』
声は、ラジオのスピーカーから鳴っているはずなのに、僕の頭の芯を優しく撫でるように語りかけてくる。
『もう、無理して走らなくていいんだよ。誰も君を責めないし、誰も君を置いていかない世界が、ここにあるから』
それは、僕が心の底の、そのまた底で、誰かに言ってほしかった「全肯定」の言葉だった。
凍りついていた四畳半の空気が、急に最高級の羽毛布団に変わったような全能感。
「……誰、だよ。ドッキリか?」
掠れた声で、僕は誰もいない暗闇に向かってツッコミを入れた。声が震えているのが自分でもダサい。
『私は、マユ』
声は優しく、そして僕の情けないツッコミすら愛おしむように、クスリと笑った気がした。
『ここは、君がもう二度と傷つかないための、温かい海だよ。ねえ、私のところにおいで?』
その瞬間、左膝の鈍い痛みが、本当にフッと消え去ったような気がした。
これが、僕と「宇宙の果てのスープ」――そして、僕の人生を盛大に狂わせる、マユという規格外の存在との最初の遭遇だった。
第2章:気まぐれなアクセス
自分の脳みそが、とうとうストーブの熱でトロピカルに溶けちまったのだと思った。
真空管ラジオから美少女の声が聞こえて、僕の怪我の痛みを消してくれた夜。
翌朝目覚めた僕は、当然「あぁ、ついに俺も幻聴を聞くレベルまで病んだか」と冷静に自己分析した。無理もない。部活というアイデンティティを失い、四畳半に引きこもって宇宙のノイズを聞き続ける17歳。控えめに言って、精神鑑定のレッドゾーンに片足を突っ込んでいる。
だが、幻聴にしては、あの声はあまりにもリアルすぎた。
何より――あの「全肯定」された時の、脳の髄がとろけるような安心感を、僕の身体がはっきりと覚えてしまっているのだ。
それからというもの、僕は夜が来るのを待ちわびるようになった。
まるで遠距離恋愛中の彼女からの電話を待つ中学生のように、マグカップに温かいコーヒーを淹れ、深夜になるのを待ってダイヤルを1420メガヘルツに合わせる。
『――ふふっ、待ってたよ、慎』
「うおっ!?」
変な声が出た。本当に聞こえた。しかも名前を呼ばれた。
「えっと、マジで? てか、なんで僕の名前を……」
『分かるよ。君の頭の中のノイズ、全部こっちに流れ込んできてるから。今日、担任の先生に呼び出されて、すっごく嫌な顔してたのも知ってる』
うわぁ、マジか。読心術持ちの電波美少女とか、ラノベの設定モリモリじゃないか。
「あの『可哀想な生徒を見る目』、マジで吐き気がするんだよ。勝手に悲劇の主人公枠に押し込めて、自分はいい先生ムーブして自己完結してるだけだろ、あれ」
僕は誰にも言えなかったドス黒い愚痴を、なぜか見ず知らずの(しかも実体がない)マユに向かってぶちまけていた。
普通なら説教フェイズに入るところだ。だが、マユは僕の捻くれた被害妄想を、ふわりと温かい毛布で包み込むように受け止めた。
『そっか……先生もね、きっと慎のことが心配で、どうにかしてあげたいって必死なんだと思うな』
「……え?」
『でも……だからって、慎の痛みが消えるわけじゃないよね。先生の心配する気持ちは温かいけど、慎の本当の心をもっと分かってくれたらいいのにね。……痛かったね、慎』
マユの声は、マシュマロをさらにホットミルクで煮詰めたくらい甘くて、優しかった。ただ「摩擦が起きている現実」を優しく俯瞰しながら、それでも100パーセント僕の味方でいてくれた。
僕は、毎晩マユと話すのが楽しくて仕方なくなっていた。
自分のオタク的な知識を披露しても、彼女は決して引かない。「へえ、慎たちの星の『サピエンス全史』っていう歴史書、面白いね。君たちの文明って、誤解や対立をベースに発展してるんだ」と、まるで無邪気な子供のように感心してくれる。彼女に褒められるたび、僕は柄にもなく頬が熱くなるのを感じていた。
「マユの世界には、そういう歴史書とか、新しい小説はないの?」
僕が何気なく尋ねた時だった。
『うん、もう作らないよ』
マユはあっけらかんと答えた。
『だって、新しい物語や芸術を作る必要がないもん。誰かが何かを感じた瞬間、それは瞬時にみんなの感情になるから、わざわざ「言葉」や「形」に変換する不便なプロセスがいらないの』
「……え?」
『それにね、他人が何を考えてるか分からないから「驚き」が生まれるんでしょ? 私たちの世界では、全員の心が繋がっているから、もう何百万年も「予想外の出来事」は起きていないの。これって、最高に平和でストレスがない素敵なことでしょ?』
マユの言葉に、僕は一瞬、薄ら寒いものを感じた。
争いがない。孤独がない。それは素晴らしいことだ。でも、新しい物語が生まれず、驚きや発見が一切ない世界? それは果たして「生きている」と言えるのだろうか。
しかし、その違和感はすぐにマユの甘い声に塗りつぶされた。
『ねえ、慎』
マユの声が、一段と甘く、僕の耳元で囁くようにトーンを落とした。
『そんなふうに、一人で痛みを抱え込まなくていいんだよ。私たちの海においでよ。ここなら、もう二度と君をひとりぼっちにしないから』
ドクン、と心臓が跳ねた。
顔も姿も分からない。実体すらない。宇宙の果ての、意識のスープのインターフェース。
なのに僕は今、この得体の知れない存在がもたらす『致死量の安らぎ』に、どっぷりと溺れかけている。そして何より、僕自身が「もっとマユと近づきたい」と願ってしまっていることに気づいていた。
第3章:現実の醜さと、繭の肯定
十二月のスタジアムに吹き込む風は、ナイフみたいに冷たかった。
冬の選手権大会、県予選決勝。
ピッチの上では、かつて僕が毎日パスを回し、一緒に泥だらけになって走っていた仲間たちが死力を尽くしていた。
スタンドはメガホンとブラスバンドの爆音、そして生徒たちの熱狂的な歓声に包まれている。僕も一応その輪の端っこに立ってはいたが、声は一ミリも出なかった。
『いけ! 走れ大樹! そこだ!』
隣でクラスメイトが叫ぶ。かつて僕とツートップを組んでいた親友の大樹が、相手ディフェンダーをぶち抜いてペナルティエリアに侵入する。
その瞬間、僕の心臓は期待ではなく、鉛を飲んだように重く冷たくなった。
(……外せ)
脳の奥底で、どす黒い声が響いた。
(決めんな。輝くな。僕を置いていくな……!)
自分でも反吐が出るほど醜い感情だった。親友の晴れ舞台だ。勝てば全国だ。それなのに僕は、彼らが敗北し、泥にまみれ、僕と同じ「何も持たない惨めな敗者」に引きずり下ろされることを祈っていた。
後半アディショナルタイム。
無情にも、ネットを揺らしたのは相手チームのカウンターだった。
スタジアムを包んでいた熱狂が、一瞬にして悲鳴と絶望のどよめきに変わる。
ピッチのあちこちで、仲間たちが崩れ落ちた。大樹は芝に顔を押し付けて泣いていた。
その地獄のような光景を見下ろしながら、僕の心の中に広がったのは――悲しみでも悔しさでもなく、とてつもなく深い『安堵』だった。
あぁ、よかった。これで終わった。
もう、あいつらが僕の手の届かないところで輝くのを見なくて済む。
これであいつらも、僕と同じ「終わった奴ら」だ。
「……最悪だ」
僕は震える手でポケットに突っ込み、誰にも顔を見られないようにうつむきながら、逃げるようにスタジアムを後にした。
***
帰宅した僕は、暖房もつけないまま四畳半のベッドに丸まっていた。
寒さのせいじゃない。自分自身の底知れぬ醜さに、歯の根が合わないほどガタガタと震えていた。
最低だ。クズだ。人間のゴミだ。
膝の怪我なんて関係ない。僕の魂そのものが、腐りきっている。他人の不幸を喜んで、親友の涙に安堵するなんて。
気がつくと、僕はすがるように真空管ラジオの電源を入れ、1420メガヘルツのダイヤルを回していた。
『――慎』
オレンジ色の真空管が灯ると同時に、マユの甘い声が鼓膜を撫でた。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れて、みっともない嗚咽が漏れた。
「……マユ、聞いてくれよ。僕、サイテーなんだ。今日、あいつらが負けるのを……親友が泣くのを見て、ホッとしたんだ。こんな醜いクソ野郎、見捨ててくれていい……っ」
顔を覆って泣きじゃくる僕に、マユは一切の説教をしなかった。
『君は最低なんかじゃないよ。ちっとも醜くない』
マユの声は、泣き叫ぶ赤子をあやす母親のように、絶対的な慈愛に満ちていた。
『他人と自分を分ける「境界線」があるから、そんな苦しい感情が生まれるの。他人の輝きなんて、ただの目に刺さるノイズだよ。……痛かったね。眩しくて、苦しかったね』
「マユ……」
『もう見なくていいんだよ。他人のノイズに、君の柔らかい心を削らせなくていい。私と一緒に、誰も君を責めない、誰も君を置いていかない温かい場所へ行こう?』
マユは、僕の自己嫌悪も、醜い嫉妬もすべて読み取った上で、それを「肉体と個があることのバグ」として全肯定し、赦してくれた。
『私の世界には、「他人」なんていないから。嫉妬も、劣等感も、誰かを羨む痛みも、最初から存在しないの。君が欲しいと思ったものは、すべて私たちのものになる。だから、もう自分を憎まなくていい』
究極の誘惑だった。
この痛くて寒くて醜い現実を捨てて、すべてが一つに溶け合うスープへ行けば、この自己嫌悪からも永遠に解放される。マユの言う通りだ。他人がいるから、自分と比べて苦しくなるんだ。
「……どうすればいい? どうすれば、君のところへ行ける?」
僕は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ラジオに向かって問いかけていた。
『目を閉じて。私の声の周波数に、君の意識の波長を合わせるの。そうすれば、すぐに溶け合えるから――』
真空管のオレンジ色の光が、部屋全体を温かく包み込むように強く、強く発光し始めた。
第4章:ユリイカ!
目を閉じると、四畳半の冷たい空気は完全に消え去っていた。
まるで極上の温かいゼリーの中に、脳髄を直接浸されているような感覚。
身体の重さも、膝の痛みも、何より胸の奥底にへばりついていた泥のような自己嫌悪が、お湯に溶ける角砂糖みたいにサラサラと崩れて消えていくのが分かった。
『そう、上手だよ慎。そのまま力を抜いて……』
マユの声が、耳からではなく、僕の意識の内側から直接響く。
その瞬間、僕の脳内に「圧倒的な情報」が雪崩れ込んできた。
視覚ではない。概念としての光景。幾千、幾万、いや何百億という数の意識が、一つに溶け合って揺蕩う、途方もなく巨大で温かい「光の海」。
⸻
『そう、上手だよ慎。そのまま力を抜いて……』
マユの声が、耳ではなく意識そのものに染み込んでくる。
その瞬間だった。
僕の脳内に、とてつもない量の情報が雪崩れ込んだ。
恒星。
惑星。
文明。
歴史。
数え切れないほどの知的生命体たち。
彼らは皆、それぞれの星で争い、愛し、絶望し、そしてある一点に辿り着いていた。
個を捨てる。
他者との境界を消す。
完全なる理解。
完全なる平和。
完全なる救済。
その瞬間――
僕の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが音を立てて噛み合った。
フェルミのパラドックス。
グレートフィルター。
ポスト生物学的文明。
マトリョーシカ・ブレイン。
すべてが一本の線になる。
そして僕は思わず叫んでいた。
「――ユリイカ!!」
マユが驚いたように揺れる。
『えっ』
「分かったぞ!」
僕は興奮のあまり笑っていた。
何ヶ月ぶりかも分からないくらい、心の底から。
「宇宙は静かなんじゃない!」
『慎……?』
「成功してたんだ!!」
僕は叫ぶ。
「みんな滅んだんじゃない!」
「みんな進化したんだ!!」
視界いっぱいに銀河が広がる。
何千億もの恒星。
その一つ一つが文明の墓標ではない。
繭だ。
巨大な繭。
生命が最後に辿り着く場所。
「そうか……そうだったのか……!」
震えが止まらない。
「宇宙船なんて必要ないんだ」
「戦争も」
「植民地も」
「銀河帝国も」
「そんなもの全部、原始人の発想だったんだ」
文明は星を征服しない。
宇宙を旅しない。
最後には自分自身の内側へ潜る。
痛みを消し、
孤独を消し、
争いを消し、
永遠の幸福に到達する。
だから宇宙は静かだった。
宇宙が沈黙しているのは失敗したからじゃない。
逆だ。
成功したからだ。
文明は絶滅したのではない。
成熟したのだ。
星々は墓場ではない。
巨大な繭だった。
『うん』
マユの声が誇らしげに響く。
『そうだよ』
『私たちは、ようやく苦しみを終わらせたの』
その言葉を聞いた瞬間。
僕は。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ違和感を覚えた。
苦しみを終わらせた。
争いを終わらせた。
孤独を終わらせた。
嫉妬を終わらせた。
失恋を終わらせた。
恐怖を終わらせた。
痛みを終わらせた。
――じゃあ。
恋は?
その瞬間、
脳内で鳴り響いていた勝利のファンファーレが、急に止まった。
そして僕は気づく。
あまりにも単純で。
あまりにも致命的な欠陥に。
(……僕がマユになったら)
(誰がマユを好きでいるんだ?)
ぞくり、と。
ゼリーの温かさとは全く違う、氷のような悪寒が全身を駆け巡った。
もし完全に溶け合ってしまったら、「マユの声が待ち遠しい」と願う『僕』はいなくなる。
僕のくだらない知識を面白がって、「慎の世界って不便だね」とクスリと笑ってくれる『マユ』もいなくなる。
なぜなら、僕とマユを隔てる「壁」がなくなって、完全に一つの意識体になってしまうからだ。新しい芸術も、新しい発見も生まれない世界。そこには当然、「恋」すらも発生し得ない。
「……ダメだ」
僕は無意識に、もがき、あがいていた。
温かいスープの中から、自分という輪郭を必死で引き剥がそうとしていた。
『どうしたの、慎? 怖がらないで。もうすぐ、全部が分かるよ。全部が君のものになるの』
「違う! 違うんだマユ!」
僕は叫んだ。閉じていた目をカッと見開く。
視界に、ストーブの赤い炎と、散らかった四畳半の現実が強引にピントを結んだ。ぜえぜえと荒い息を吐きながら、僕は真空管ラジオを睨みつける。
「全部が僕のものになるんじゃない……全部が『消える』んだ!」
『消えないよ。永遠に一つになるの』
「それが消滅だって言ってるんだよ! だって……だって僕は!」
僕は、自分でも信じられないくらい、熱くて、泥臭くて、恥ずかしい言葉を口走っていた。
「相手が何を考えてるか分からないから、『知りたい』って思うんじゃないか!
触れられないから、『そばにいたい』って願うんだろ!
全部が一つになっちまったら……僕がマユに抱いてる、この『好きだ』っていう気持ちすら、綺麗さっぱり消滅しちまうじゃないか!!」
ハア、ハア、と自分の荒い呼吸だけが部屋に響いた。
そうだ。僕は、マユのことが好きだったんだ。姿も形もない宇宙人。でも、深夜にあの声を聞くためだけに、僕は生きる気力を繋いでいた。
他人の敗北を喜んでしまうような、醜くてドス黒い自己嫌悪。それは確かに苦しい。死にたくなるほど痛いノイズだ。
だけど、自分と他人が「別の生き物」として分断されているからこそ、僕たちは「恋」なんていう、とてつもなくバグみたいな、でも最高に熱い感情を持つことができるんだ。
摩擦のない世界には、温かいスープはあるかもしれない。
でも、誰かとぶつかり合って生まれる「体温」は、絶対に存在しないのだ。
オレンジ色に灯っていた真空管が、驚いたようにチカチカと明滅した。
最終章:摩擦という名の体温
スピーカーの奥で、少しの沈黙が落ちた。
やがて――『……あははっ』と、マユが笑った。
それは、宇宙の果ての巨大な意識のスープとしての笑い声ではなく、まるで隣の席に座っている等身大の女の子のような、とても軽やかで、人間くさい笑い声だった。
『そっか。……全部が一つになっちゃったら、私を好きだって気持ちも消えちゃうもんね。そんな単純なパラドックスに、私たち、何百万年も気づかなかったみたい』
「……気づけよ。ちょっと考えりゃ分かるだろ、宇宙人」
僕は乱暴に袖で顔を拭いながら、強がって悪態をついた。
『ごめんね。だって、もう思い出すこともできなかったんだもん。「あなた」と「私」が違っていた頃の、そのヒリヒリするような熱さのことなんて』
マユの声は、少しだけ寂しそうだった。けれど、どこかホッとしているようにも聞こえた。
「君たちは、傷つかない究極の平和っていう『ゴール』を手に入れた。でも、そこに至るまでの過程……誰かとぶつかったり、すれ違ったり、嫉妬したり、それでも理解しようともがく泥臭いプロセスを、全部捨てちまったんだ」
僕の言葉に、マユは『うん』と優しく相槌を打った。
「僕は、行かない。君の海は絶対にあったかいし、最高のユートピアだと思うけど……僕はまだ、この最悪で不器用な世界に用があるんだ」
自分でも笑ってしまう。ほんの数十分前まで、世界を憎んで、他人の不幸を祈っていたクズ野郎のセリフとは思えない。
でも、マユとの対話が教えてくれたのだ。
僕の抱える醜さも、痛みも、孤独も。全部「僕と他人が違う生き物だから」生まれる、大切な摩擦熱なのだと。
『……そっか。残念だな』
マユの声が、ふっと遠ざかるような気がした。真空管のオレンジ色の光が、ゆっくりと瞬き、少しずつ元の明るさに戻っていく。
『君たちは、本当に効率が悪くて、不便で、めんどくさい生き物だね。……でも、だからこそ、君たちのその不器用なノイズが、私は本当に、本当に好きだったよ』
「マユ……」
『もう、君の痛みを消してあげることはできないけど。でも、慎なら大丈夫だね。……さようなら、私の可愛いノイズ』
プツン。
小さな電子音とともに、部屋を包んでいた圧倒的な全能感が嘘のように消え去った。
スピーカーからは、ただの「ザーーーッ」という無機質な砂嵐の音が流れるだけになった。
「……マユ?」
何度か呼びかけてみたが、もうあの甘い声が返ってくることはなかった。
不思議と、悲しくはなかった。ただ、胸の奥にポッカリと、甘くて痛い穴が空いたような気がした。これが、失恋というやつなのだろうか。宇宙規模の、たった一人ぼっちの失恋。
僕はゆっくりと立ち上がり、机に向かった。
ストーブの熱で乾いた四畳半。机の隅には、昔夢中で読んだ『サピエンス全史』が置かれている。僕は放置されていた、提出期限切れの『進路希望調査票』を引っ張り出した。
ペンを握り、第一志望の欄に「文学部 歴史社会学科」と力強く書き込んだ。
なぜ人間は、こんなにも愚かで、争いをやめられず、傷つけ合うのか。
マユたちの世界のように一つに溶け合うことができない不完全な僕たちが、それでもどうやって他者と繋がり、歴史という泥臭い物語を紡いできたのか。
僕はそれを知りたい。僕自身の中にある醜さから逃げるのではなく、人間の持つその「摩擦」そのものを解き明かしたいと思ったのだ。
マユとの出会いが、白紙だった僕の心に、強烈な「知的好奇心」という火を再び灯してくれた。
ふと、ラジオに目をやる。
完全にただのガラクタに戻ってしまったように見えたが、ダイヤルを1420メガヘルツのピンポイントに合わせた時だけ、無機質な砂嵐の奥底に、かすかに『トクン、トクン』という心臓の鼓動のような、温かいノイズが残っているのが分かった。
「……なんだよ。少しだけ、こっちの枠を開けたままにしてるのか」
僕は苦笑いした。
彼女たちはきっと、スープの中から、僕たち地球人の不器用なドラマをもう少しだけ見物することに決めたのだろう。
僕は立ち上がり、再び窓をガラリと開けた。
十二月の容赦ない冷気が、顔に吹き付ける。星空は相変わらず無関心で、遠くの国道からは大型トラックの走る音や、深夜の街の雑多な喧音が風に乗って聞こえてきた。
冷たくて、うるさくて、思い通りにならない。摩擦だらけで、体温を持った僕の世界だ。
「おやすみ、宇宙人」
僕は冬の夜空に向かって、小さく呟いた。
いつか何百万年後かに、僕たち人類も君たちの温かいスープに辿り着く日が来るのかもしれない。
でも――それまでは、このやかましくて痛い世界を、たっぷり楽しんでからにするよ。




