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春から小学校に通う子を持つ親向け短編小説『まっさらのページ』

作者: 明石竜
掲載日:2026/03/26

 春が来る少し前、リビングの棚のいちばん下に置いてあったスケッチブックを、娘は引っ張り出してきた。

 表紙は角が丸まり、白だったはずの紙は、ところどころ薄く黄色い。

「これ、つかっていい?」

 六歳の娘――陽向は、もうすぐ幼稚園を卒園する。

 私はキッチンで洗い物をしながら、「いいよ」とだけ答えた。

 娘は床にぺたりと座り、クレヨンの箱を開ける。

 赤、青、黄色、みどり。少し短くなった色たちが、カラカラと音を立てた。

 最初のページに描かれたのは、ぐるぐるした線だった。

 何を描いているのか、私にはわからない。

「これはね、ようちえん」

 そう言って、娘は紫色を重ねた。

 その上に、黄色で小さな丸をいくつも描く。

「おともだち?」

「うん。せんせいもいるよ」

 説明はそれだけだった。

 私は「そっか」と言って、また洗い物に戻る。

 気がつくと、娘は二枚目のページを開いていた。

 今度は、少しだけ線が整っている。

 茶色で四角、青で屋根のような三角。

「おうち?」

「ちがう。しょうがっこう」

 娘は得意そうに言った。

 私は思わず手を止める。

「もう、描けるんだ」

「テレビでみた」

 そう言って、娘はクレヨンを持ち替える。

 赤い線で、大きな四角を描き、その横に細い線を二本。

「これは?」

「ランドセル」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけきゅっとした。

 まだ早いと思っていた。

 まだ幼稚園のままでいてほしいと、どこかで願っていた。


 三枚目のページは、まっさらだった。

 娘はしばらくクレヨンを持ったまま、何も描かない。

「どうしたの?」

「ここは、あとで」

 そう言って、スケッチブックを閉じた。


 その夜、娘が寝たあと、私はそっとスケッチブックを開いた。

 ぐるぐるの線、少し歪んだ学校、赤いランドセル。

 最後の、白いページ。

 そこに、何が描かれるのだろう。

 数日後、玄関に小さな段ボールが届いた。

 中には、真新しいランドセルが入っていた。

 赤くて、少しだけ大きい。

 娘は目を丸くして、声も出さずにそれを抱きしめた。

「おもい?」

「うん。でも、だいじょうぶ」

 鏡の前で背負う姿は、少し不格好で、でも確かに“小学生”だった。


 その日の夜、娘はまたスケッチブックを開いた。

 最後のページに、今度は迷わずクレヨンを走らせる。


 描かれたのは、小さな丸がひとつ。

 その背中に、赤い四角。

 その前に、少し大きな丸がひとつ。

 手を伸ばしている。


「これ、だれ?」

「わたし」

「こっちは?」


 娘は一瞬だけ考えてから言った。

「いっしょにあるいてる、ママ」


 私は何も言えなかった。

 胸の奥で、何かが静かにほどけていく。

「しょうがっこうはね、ちょっとこわい」

 娘はぽつりと言った。

「でもね、ランドセルがあるから、いける」

私は娘の頭を、そっと撫でた。


 スケッチブックの最後のページは、もう白くない。

 でも、これから先のページは、まだ見えない。


 それでいいのだと思った。


 クレヨンみたいに、少しずつ短くなっていく時間の中で、

 描ききれなかった線も、はみ出した色も、全部抱えたまま。


 ランドセルは、きっと重たい。

 でも、その重さの分だけ、世界は広がっていく。


 私は、玄関に並んだ小さな靴を見ながら、そう思った。


 まっさらじゃなくていい。

 きれいじゃなくていい。


 今日まで描いてきた全部の上に、

 明日が、そっと重なっていけばいい。


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