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五、梅の誓約

 三ヶ月が経った。

 永和との暮らしは平穏に過ぎた。豆児が外出する際には必ず永和が侍女兼護衛として同道した。誰も疑う者はいなかった。


 良いこともあった。紅玉が残していった難しい書物を永和に読み解いてもらうのは毎日の楽しみとなった。

 並んで楽器を奏でたり、舞をしたり、共に男装して芝居を観にいったり。心弾む日々が続いた。

 紅玉という姉を失った豆児にとって、永和は最上の姉代わりであり友であり家族であり、かけがえのない人となっていた。

 父が永和を求めることもなかった。自分で口走っておきながら、もし父が本当に永和を妾にすると言い出したら、思いっ切り邪魔をしてやろうと考えていた。

 永和本人が望むなら別だが、それでも、妻である私にはわがままを言う権利があるのではないかと思っている。父に本音を伝えるのをわがままと言えるなら。


(もっと私を愛してほしい。本当の娘のように大切に慈しんでほしい) 


 そうしてくれたら、さして価値のないつまんない私は愛で満たされ、幸せを感じることができるだろう。


 だからある日、尋ねてみることにした。


「どうして永和は平気なの? 男として育てられて贅婿にさせられて。不自由な生き方を強要した親を恨んでないの?」


 永和は一瞬意外そうな顔をしたあと、豆児を静かに見つめた。


「豆児は親を恨んでいるの?」


「いいえ、とんでもない。感謝してもしきれないくらいです」


「それならよかった。私も憎んでなどおりません。父も母もよくよく考えてくださったうえのことのです。いずれ豆児さんにもわかってもらえると思います」


「いずれではなく、いま説明してほしいのですけど」


「説明したいのは山々なれど勝手なことは……」


「豆児、永和、どこにいる」


 父の呼び声がした。ずいぶんと焦っている。


「おお、ここにいたか。大変なことになった」


 着替える時間も惜しいのか、父は官服のままだ。


「なにがあったのですか」


「陛下が、皇帝陛下が、なくなられた……!」


 狩りの最中に落馬して岩に頭を打ちつけたのだという。


「おそらく新しい皇帝は異腹の兄君になるだろう。皇子の一人でもいれば違ったかもしれんが」


 はっと息を呑んだ。短命だった皇帝には子がいない。となると妃嬪は……。


「なにも書き残されてはいなかったのでしょうか」


 永和が問いかけると、父は首を振った。


「まだだった。時間が足りぬ。紅玉は頑張ってくれていたのだが」


「詔勅は成っていないのですね。残念です」


 なにを言っているのだろう。豆児は父の袖を掴んだ。


「姉は、紅玉はどうなってしまうのですか」


 父は沈痛な面持ちで瞼を伏せた。代わりに答えたのは永和だった。


「一番の寵姫ゆえ、殉死は免れまい」


「だったら私が……私が行けばよかった!」


 豆児は我知らず叫んでいた。


「父上、なんとかしてください。紅玉を救ってください!」


「できることならそうするが」


 膝の上で岩のようにぎゅっと握りしめた豆児の手を、永和の手のひらが優しく包んだ。


「紅玉は覚悟の上だ」


「嘘よ。誰だって死にたくないでしょう! 殉葬のしきたりを知っていたとしても、若くて頑健な陛下だから、いずれ子を授かるだろう、自分が殉死するわけないと思っていたはずよ」


 紅玉の絶望はいかばかりかと思うと豆児の胸は激しくわなないた。


「安家のために、皇統のために、紅玉は犠牲にならなければいけないんですか」


 父はすでに息を整え、いつもの冷静な顔に戻っている。


「落ち着け。紅玉の犠牲でわしは出世する。かねてから希望していた尚書省に転属となるだろう。この機会を生かさぬ手はない」


 殉死した娘の実家はそれ相応の見返りがあるのだという。金品が下賜されたり、身内が出世したりといったような現実的な見返りが。


「父上……」


「紅玉の死を無駄にしてはならんぞ。豆児は幸せにならなければいかん」


 永和の手を振り払い、父の胸を両拳で叩いた。

 勝手なことばかり言って、酷い、酷い。叫びながら、何度も叩いた。両目が熱くなってぶわっと感情が吹き出した。父に猛る思いをぶつけたのは初めてだった。


「もうおやめなさい」


 永和が豆児の肩に手を回した。そのまま体を返して豆児は永和の胸に抱き留められた。


「殉葬が始まって百年近く経つ。はるか昔には、皇太子の母が殺される決まりがあったのだが、豆児は知っているか」


 無言で首を振る。歴史は苦手だった。


「権力の偏在は避けねばならない。いつの世も最善の方法が求められている。代が変わるごとに一新するのは誰かにとって都合がいいのだ。だが皇族の中には妃嬪の殉葬に反対している方もいる」


「なんでそんなことがわかるのです」


「ずっと気にかけていたからだ」


 父も永和もなぜ悲しい顔をして冷酷な言葉を吐けるのか、豆児にはわからなかった。




 夜の庭をひとり散策する。

 いつのまにか梅はおろか、桐の花の季節も過ぎていた。

 姉と梅花の話をしていたとき、蕾はまだ炒り豆みたいに硬かった。花が咲いたら一緒に愛でようと約束していたのに、すっかり忘れていた。

 梅の木は夜の翳りに息をひそめている。そっと幹に触れた。


「その梅がどうかしたのか」


 豆児の背に永和が問いかける。

 どうしてひとりにしてくれないのかと思う。


「姉が好んでいた白梅なのです」


 心なしか、枝ぶりがしょんぼりとして見える。


「老木なのでもう咲かないかもしれない」


「夜なので生気がないように見えているだけです。きっと咲いてくれますよ」


「あなたになにがわかるのです。姉のことをなにも知らないあなたが……!」


「横になってごらんなさい。このように」


 永和は木の下にごろりと横になった。


「……何をしているのです」


「芳しい香気を放つ梅の花が見えますよ」


「ばかにしないでください」


「私はあの花なのだ」永和は花などついていない枝を指さして言う。「他の大きな花の後ろに隠れ、目立たないように身を潜めている」


 声に笑みを含んでいるが表情は影になって見えない。

 豆児は身をかがめて驚いた。永和が歯を食いしばった怒りの表情で、静かに涙を流していたからだ。 

 不自然にならぬよう目をそらすには、豆児も同じように仰向けになって梅の花を探すしかなかった。

 夜空には数え切れないほどの星が瞬いている。

 豆児は思わず「あ」と声を上げた。

 梅の枝にはたくさんの星の花が咲いている。見事な梅花と化していた。

 永和が天に向かって呟いた。


「豆児は勘違いしているよ。きみは誰より愛されている」


 そんなことはないと反論したかったが自分が惨めになるだけなのでやめた。

 本当に自分はひどくわがままなのだ。

 誰かの特別な存在でいたいなんて身の程知らずの願いを捨てきれない。

 こうやって永和を困らせて、情けないったらない。


「慰めてくれなくていい」


「いや、真実を言う。安家の本当の子供はきみで、養女は紅玉のほうだ」


 冗談を言う口ぶりではなかった。としたらその意味するところはなにかと考えて、豆児は言葉を失った。

 姉は、用意された子だったのだ。

 後宮に娘を差し出さねばならないときの、豆児の身代わりとして。

 

 そして姉はそのことを知っていたのだと思い至った。

 皇帝と引き合わせないように仕向けたのも、豆児を殉死の危険から遠ざけるためだったのだと今ならわかる。


「紅玉は陛下のお考えを変えさせるために後宮に……?」


「殉葬を禁止する勅詔を書かせるために。それが使命だった。でも間に合わなかった」


 永和は悔しそうに唇を引き結んだ。

 誰もが黙っておとなしく殺されるはずはないのだ。これまでにも数多同じような試みはあったのだろう。死が積み重なったのだろう。そしてこれからも試みは続くのだろう。

 女児であることを隠され、男児として育てられた永和。それも親に愛されたゆえなのだ。


「私にもなにか……できないかしら」


「豆児、われわれは動いてはいけない。立ち向かってはいけない。お願いだから一緒に耐えてくれ。あの梅を紅玉だと思って、誓ってくれ」

 

 喉から血を吐くような、永和の声音だった。


 花が溶けた。ぼやけて流れた。

 その誓いは、大足を無理やり纏足沓にねじ込ませることよりずっと苦しくてつらい。

 

 もどかしくて、耐えがたくて、口を開こうとしたとたん嗚咽がもれた。

 豆児は生まれて初めて、姉を想って泣いた。



呼んでいただきありがとうございました。

お粗末様でした。

結局豆児が誓ったかは……。

明代の殉葬には記録に残らないドラマがあったんだろうなあと

勝手に妄想して書きました。



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