第4話 真夜中の放課後活動はじめました
放課後の喧騒から切り離された駅前の純喫茶。
あの「宣告」を受けた運命の場所で、俺、久我陽介は再び皇かれんと向かい合っていた。
ただし今回は、絶望的な告知をされるためではない。経過観察のためのミーティングだ。
「それで? 輸血パックの方はどう?」
かれんは、優雅にロイヤルミルクティーのカップを傾けながら尋ねてきた。
「ああ、かなり快適。っていうか、劇的ビフォーアフターだよ」
俺は素直に感謝を口にした。
指定された病院で週に一度処方される、点滴パックに入った深紅の液体。
最初は見た目のグロテスクさに抵抗があったが、ストローを差して恐る恐る飲んでみて驚愕した。
トマトジュースのような見た目に反して、それは極上の赤ワインのように濃厚で、渇き切った俺の身体に染み渡ったのだ。
味気なかった世界に、色が戻る感覚。
「日中のダルさも、完全にとは言わないけど、普通の人並み……いや、全盛期の手前くらいまでは回復した。授業中も起きてられるようになったし」
「それは良かったわね。血中の魔力濃度が安定してきた証拠よ」
「あとさ、夜。全然眠くならなくなったんだ」
以前は「夜になると元気になる」程度だったが、パックを摂取し始めてからは「睡眠欲そのもの」が消失した。
「勉強したり、ゲームしたり、あとベッドで夜明けまで延々とスマホで動画見たりしてる。無限に自由時間があるみたいで、ちょっと得した気分だよ」
「ふん、時間を浪費してるだけじゃない」
かれんは呆れたようにため息をついたが、その表情はどこか満足げだった。
「まあそれが正常よ。吸血鬼だもの、睡眠なんて生理機能は不要。脳も身体も、魔力というガソリンさえあれば二十四時間稼働できるわ」
「人間やめちゃった実感がすごいけどな」
「実感が湧いたところで、本題に入るわよ」
カチャリとカップをソーサーに戻す音が、日常から非日常への切り替わりの合図だった。
彼女の漆黒の瞳が鋭さを帯びる。
「生活が安定したのは結構。じゃあそろそろ、本格的に『吸血鬼としての能力』を使うわよ。今日から実戦訓練を始めるわ」
「訓練って……どこでやるの? ヤタガラスの地下?」
「いいえ」
かれんは窓の外、俺たちが通う高校の方角を指差した。
「学校よ。夜の九時、正門前に集合して」
「……は? なんで学校?」
予想外の指定場所に、俺は目を丸くした。
「貴方、なんで学校っていう施設が全国津々浦々にあると思う? 教育のためだけじゃないの」
かれんは声を潜めて、この世界の裏設定を語り始めた。
「これはまた聞きだけどね。学校は『霊地』の上に建てられていることが多いのよ。土地の霊脈……パワースポットの流れを整える杭の役割をしているらしいわ。だから当然、霊的なエネルギーが集まりやすい」
「霊的エネルギーって……つまり」
「そう。光があれば影があるように、霊地には『怪異』と呼ばれる有象無象の淀みが集まってくる。妖怪、魔物、悪霊……呼び方はなんでもいいけど、そういったノイズを掃除する必要があるの」
「それが俺たちの役目?」
「正解。うちの高校にも、そんな『裏の掃除当番』を請け負っている学生がいるわ。登録済みの能力者で構成された、非公認の生徒会みたいなものね」
非公認の生徒会。掃除屋。
なんだその厨二心をくすぐる響きは。俺が知らないだけで、いつもの学び舎の裏ではそんな戦いが繰り広げられていたのか。
「全部で10人ほどいるわ。サボってこない奴もいるし、一匹狼で街中の狩りに出ている連中もいるけれど……基本的にはシフトを組んで、夜の校舎で怪異を間引いているの。今日は貴方を彼らに紹介するわ」
「なるほどな……。だから皇さん、あんなに事情通だったのか。てっきりヤタガラスのエージェントかと」
「そういうこと。私もそのメンバーの一人だから。……じゃあ九時に校門前で。遅刻しないでよ?」
言い残して席を立つ彼女の後ろ姿を見送りながら、俺は残ったアイスコーヒー(もう氷が溶けて薄い)を一気に飲み干した。
夜の学校。七不思議じゃ済まないリアルな怪異退治。
普通の高校生活への復帰は、どうやら永遠に不可能なようだ。
*
夜九時。
住宅街の静寂に包まれた県立高校の正門前。
街灯の下で待つ俺の元に、夜の闇に溶け込むような黒いパーカー姿のかれんが現れた。
制服姿とは違うラフだが動きやすそうな服装。
それでも隠しきれない育ちの良さが漂っている。
「早いわね、久我くん。覚悟は決まった?」
「まあ、一応。お化け退治って聞いてビビってたけど、仲間がいるなら心強いかなって」
「仲間と言っても、みんな個性派揃いよ。覚悟しておきなさい」
彼女はIDカードらしきもので校門の電子ロックを解除し(こんなものまで持っているのか)、俺を校内へと招き入れた。
夜の校舎は不気味だ。ガラス窓に反射する月光が冷たい。
だが吸血鬼としての知覚が鋭くなっている俺には、それがただの建物ではないことが分かった。
空気が濃い。まるで水飴の中を歩いているような、皮膚にまとわりつく粘度のある気配。
これが「魔力」とか「霊気」というやつなのだろうか。
「向こうよ。体育館に集まってる」
静まり返った渡り廊下を抜け、体育館の重い扉を開ける。
キィィ……と錆びついた音を立てて扉が開くと、予想外の明るさが視界に飛び込んできた。
水銀灯がフル稼働して煌々と照らされたフロア。
バスケットコートの真ん中で、数人の影が車座になって談笑していた。
「お、来たか!」
「うわ、マジで新人連れてきた」
「かれんちー、おっそーい!」
集まっていたのは、制服を着崩した生徒やジャージ姿の者たち。
全部で五、六人。男女半々といったところか。
その中で真っ先に立ち上がり、手を振りながら駆け寄ってきたのは、ショートヘアの小柄な女子生徒だった。
見た目は一年生くらいに見えるが、手に巨大なスパナを持っているのがシュールだ。
「おっ、君が噂の新人君? かれんから聞いてるで! 吸血鬼だってね、レアキャラやん!」
コテコテの関西弁。そして人懐っこい笑顔。初対面の緊張が一瞬で解ける。
「よろしく! うちは美島。能力は『復元』系やねん。学校の設備とか、みんなが戦闘でブッ壊した備品を修理する担当! 修理屋って呼んでな!」
「あ、どうも……久我です」
「で、俺が戦闘班のリーダー兼教育係だ」
修理屋の背後から、一人の男子生徒が歩み出てきた。
長身で肩幅が広い。詰め襟の学生服のボタンを外し腕まくりをした太い腕には、時代劇に出てくるような日本刀が握られている。
その刀身からは、ゆらゆらと陽炎のようなオーラが立ち昇っていた。本物だ。しかもただの刃物じゃない。
「三年、剣持。能力は『刀剣強化』と『身体硬化』だ。……まあ、よろしくな」
ぶっきらぼうだが敵意は感じない。むしろ新しい玩具を見るような、ギラついた好奇の視線を感じる。
「よろしくお願いします、剣持先輩」
「おう。かれん、こいつはどこまで仕上がってるんだ?」
「全然よ。輸血パックでやっと貧血が治ったレベル。戦闘経験はゼロだと思って」
かれんが肩をすくめる。酷い言われようだ。
「マジかよ。宝の持ち腐れだな……。よし」
剣持先輩はニヤリと笑うと、刀の切っ先を俺に向けた。
「自己紹介も済んだし、とりあえず今日は『実力テスト』だ。吸血鬼のスペック見せてもらうぜ」
「え、いきなりですか!?」
「戦場で待ってくれる敵はいねえからな。ほら構えろ!」
理屈もへったくれもない。これだから体育会系は!
俺は慌ててカバンを投げ捨て、半身に構える。
構えるといってもケンカなんてしたことがない。ボクシングの真似事のようなファイティングポーズをとるのが精一杯だ。
「行くぞ!」
ドッ! と床を蹴る音がした瞬間、剣持先輩の姿が消えた――ように見えた。
速い。目で追えない。
反射的に右へ飛びのいた瞬間、左脇を疾風が通り抜けた。鞘に収まった刀による突き。
もし真剣だったら、脇腹に穴が空いていただろう。
「おっと、反応はいいな。眼が良い証拠だ」
通り過ぎざま先輩が笑う。
そこから数分間、俺は一方的に防戦一方――いや、逃走一方だった。
先輩の手加減した攻撃を、必死で転がりながら避けるだけ。攻撃しようにも、どう動けばいいのか分からない。
息が上がり、膝に手をついたところで「止めだ」の声がかかった。
「……あー、全然ダメだな。話にならねえ」
剣持先輩は刀を肩に担ぎ、呆れたように頭を振った。
「運動経験ゼロだろお前。身体能力も人並み以下だし、吸血鬼としての膂力が全然引き出せてねえ」
「はぁ、はぁ……すみません。頭は冴えるんですけど……身体能力が上がるイメージはないですね……」
「そこだ。イメージが足りねえんだよ」
先輩はツカツカと俺の目の前まで歩み寄ると、俺の胸板をトンと小突いた。
「魔力には目覚めてるはずだ。お前の中にガソリンはある。だがエンジンの回し方を知らねえ。……見てろ、お手本見せてやる」
「お手本?」
剣持先輩は軽く膝を曲げ、深く息を吸い込んだ。
その瞬間、彼の身体の周囲の空気がビリビリと震え、不可視の圧力が放たれたのを肌で感じた。
「ふんっ!」
ダンッ!!
爆音と共に体育館の床板が蜘蛛の巣状にひび割れ、ささくれ立つ。
次の瞬間、先輩の身体は砲弾のように垂直に跳ね上がった。
バスケットゴールの遥か上、二階席の手すりどころか、十メートル以上ある体育館の天井付近まで一瞬で到達し、キャットウォークの鉄骨に着地した。
「う、嘘だろ……」
俺は開いた口が塞がらなかった。ワイヤーアクションでもあんなに速くはない。
重力を無視したような跳躍。
「と、まあこんなもんだな」
先輩は天井からヒラリと舞い降り、音もなく着地した。衝撃吸収すら魔力で制御しているのか。
「俺は鍛えてるからこれだけ出来るが、お前も吸血鬼なら潜在能力はもっと高いはずだ。血を燃やして爆発させる感覚……身体能力強化ってのは、そういうもんだ」
「血を燃やす……ジャンプ力を強化するイメージ……」
俺は目を閉じる。
血管の中を流れる血液。そこに溶け込んだ魔力。
かれんが言っていた「ガソリン」という言葉を思い出す。
イメージしろ。身体が軽くなるんじゃない。足の筋肉がバネに変わる。血が火薬になって爆発する。
(……熱い)
身体の芯が熱くなる感覚。
今まで感じたことのない力が、ふくらはぎに集中していく。
「――よし!」
俺は思い切り地面を蹴った。
バン!!
足元から破裂音がした。視界が一気に下へ流れる。
ふわりとした浮遊感。気づけば俺の目線は、バスケットボールのリングと同じ高さにあった。
「うおおお!?」
驚きのあまり空中で体勢を崩し、ドサッと無様にマットの上へ着地する。
「おー、出来た出来た! 出来るじゃん、新人君!」
修理屋の美島さんが、パチパチと拍手をしている。
剣持先輩も、満足そうに頷いた。
「へぇ、一発でコツを掴むとはな。センスあるぜ」
自分の手足を見る。
ジンジンと痺れているが、嫌な痛みではない。全身に力が漲っている。
これが吸血鬼の身体能力強化……!
「身体能力強化を覚えたら、次は格闘術と剣術だ」
先輩が自分の腰に差していた刀を一本外し(二本持ってたのかよ)、俺の方へ放り投げてきた。
「おっと!」
慌ててキャッチする。ずしりと重い黒い鞘の刀だ。
「俺のお古の刀やるよ。刃は潰してあるが、練習用には丁度いい」
「えー……でも置き場がないっす。親にバレたら補導されますよ」
「大丈夫だ。『認識阻害』の札が貼ってある。普通の人間には『木刀』か『丸めたポスター』くらいにしか見えねえよ。家に置いておけばいい」
なんというハイテク(?)オカルトグッズ。
「じゃあここからは、格闘術を実践形式で叩き込むぞ。死なない程度に加減してやる」
先輩が鬼の形相で構える。
背後で美島さんが、巨大スパナをくるくると回しながら言った。
「頑張りやー! うちが直すけど、学校の備品は壊し過ぎないようにね! 予算ないんやから!」
俺は覚悟を決めて刀を握り直した。
紅い瞳が、先輩の動きをスローモーションのように捉え始める。
長い長い、吸血鬼としての初陣の夜が始まった。




