第3話 地下官僚との事務的面談
翌日の放課後。
俺、久我陽介の平凡だった高校生活は、目に見えない場所でレールを切り替えられ、未知の領域へと走り出した。
ホームルームが終わるや否や、皇かれんは俺の席までスタスタと歩み寄り、教室中の男子生徒たちの視線を釘付けにしつつ、「行くわよ」と一言だけ告げた。まるで躾の厳しい姉か、手のかかる部下を連れ出す上司のように。
そのまま俺たちは校門を出て地下鉄に乗り込み、東京の中心部を目指した。
――霞が関。
日本の中枢であり、国会議事堂、財務省、警視庁、外務省などが立ち並ぶ、コンクリートと権威の街。
当然ながら、制服姿の高校生がふらつくような場所ではない。すれ違うのは、険しい顔をしてスマホを耳に当てているスーツの男性や、キャリアウーマン風の女性ばかりだ。場違い感が凄まじく、俺は肩身の狭い思いでかれんの背中を追う。
「あ、あのさ、皇さん。こんな目立つ場所にあるの? そのヤタガラスって」
「いいえ。あるのは目立たない雑居ビルの地下よ。このあたりは、表の省庁だけじゃなくて外郭団体の事務所とか、ペーパーカンパニーのオフィスも山ほどあるの。隠れ蓑には最適なのよ」
彼女が立ち止まったのは、大通りから一本入った路地にある古びた灰色のビルだった。
入口には「千代田資料管理センター」「第三統計研究所」といった、いかにも退屈そうなプレートが並んでいる。とてもじゃないがファンタジー要素のある秘密結社には見えない。むしろ確定申告の臨時会場のような生活感と殺伐さが漂っている。
かれんは慣れた様子でエレベーターホールへ進み、上昇ボタンではなく、一番奥にある何の変哲もないカードリーダーに、学生証――のように見せかけて、何やら複雑な紋様が描かれたカードをかざした。
ピッという電子音と共に、本来は「B2」までしかないはずのエレベーターのパネルに、ぼんやりと**『B4』**の文字が浮かび上がった。
「……すげぇ。本当に隠しフロアだ」
「騒がないで。ここからは職員専用のエリアよ。粗相のないようにね」
エレベーターが滑らかに下降を始める。耳の奥がツンとする感覚。
やがて扉が開くと、そこは――普通にオフィスだった。
薄暗いダンジョンを想像していた俺は拍子抜けした。スチール製のデスク、積み上げられた書類の山、ひっきりなしに鳴る電話、そしてコーヒー片手に死んだ魚のような目でキーボードを叩く職員たち。
ただし一点だけ異様なのは、壁や柱の至る所にお札やら注連縄やらがデコレーションされていることだ。最新のパソコン、サーバーに「厄除祈願」のステッカーが貼られている光景は、シュールの極みだった。
受付らしきカウンターへ行くと、白衣を着た三十代くらいの女性が、気だるげに応対してくれた。
「はーい、いらっしゃいませー。一般能力者登録の方ですかー?」
「予約していた皇です」
かれんが冷ややかに告げると、女性の目の色が変わった。
「あっ、皇様! 失礼いたしました。話は伺っております。担当の黒部が対応いたしますので、奥の第三会議室へどうぞ」
VIP待遇だった。皇様って、この人一体何者なんだ?
案内された会議室は、質素なホワイトボードと長机、パイプ椅子があるだけの簡素な部屋だった。空調の音がブォーと低く響いている。
「……緊張するな、これ」
俺が膝の上で手のひらを擦り合わせていると、かれんが呆れたように息をついた。
「やぁね。面接じゃないんだから、そんなにそわそわしないで。恥ずかしいわ」
「だって、いきなり『国が管理する秘密組織』だろ? 何聞かれるのか分かんねーし……」
「基本的に、私から根回しと事前申請は済ませてあるわ。貴方は自分の名前と住所を書いて、向こうの話に『はい』って答えていれば終わる話よ」
彼女の太いパイプは何なのだ。ヤタガラスの幹部に親戚でもいるのか、それとも彼女自身がエリートエージェントなのか。尋ねようとした矢先、ガチャリとドアが開いた。
「お待たせしましたー。いやぁ、今日の地下鉄は混みますなぁ」
入ってきたのは、くたびれたスーツを着た中肉中背の男性だった。
無精髭を生やし、髪はボサボサ。ネクタイは少し緩んでいて、片手に分厚いファイル、もう片手に缶コーヒーを持っている。
エージェントというよりは、残業続きの地方公務員といった風情だ。
「えー、今回担当します黒部です。よろしくお願いしますね」
「よ、よろしくお願いします」
俺が立ち上がって頭を下げると、黒部さんは「座ったままでいいですよー、気楽にやりましょう」とヘラヘラ笑って、対面の席に腰を下ろした。
かれんは既に座ったまま、優雅に足を組んでいる。この部屋で一番偉いのは、間違いなく彼女に見える。
黒部さんはファイルを机に広げ、ボールペンのノックをカチカチと鳴らしながら、眼鏡の位置を直した。
その瞬間、彼の目の奥に一瞬だけ鋭い光が走った気がしたが、すぐに元の眠そうな目に戻った。
「では、今回は『吸血因子保有型・能力者』として覚醒したということでお話を伺っていますが……間違いないですね?」
「は、はい。間違いありません」
改めて口にすると、自分の非日常確定を自ら承認するようで、胸がズシリと重くなる。
「そうですかそうですか。いやー、高校生で覚醒とはなかなか大変でしたね。心中お察ししますよ。ご安心ください、我々は能力者を保護・管理するのがお仕事ですから、変な実験に使ったりしませんので」
明るく言われると逆に怖いんですが。
「では、早速手続きの話をサクサク進めましょうか。まず一番大事なのは、今後の生活維持についてです。つまり、血液の確保ですね」
黒部さんは資料の中から、『医療用血液代替パック・申請マニュアル』と書かれた冊子を取り出した。
「今回のメインはこれ、輸血パックの配給登録です。これを定期的に摂取していただければ、飢餓感で理性が飛んだり、夜の街で誰かの首筋をカプッといきたくなったりすることは防げます」
「……ありがとうございます」
「で、ここで一つ確認事項がありまして。……ご実家の親御さんには、この件ご説明済みですか?」
その問いに、俺は言葉を詰まらせた。
母さんの顔が浮かぶ。父さんの顔が浮かぶ。
もし俺が「実は俺、バケモノになっちゃったんだ」と告白したら、二人はどんな顔をするだろうか。
悲しむか? 怖がるか? あるいは信じてくれずに、病院へ連れて行こうとするか?
「……えーと。まだしてないです」
俺は正直に答えた。
黒部さんは意外そうな顔はしなかった。むしろ「やっぱり」といった風に小さく頷き、ボールペンを回した。
「そうですねぇ。未成年の場合、本来は保護者の同意が必要な案件ではあるんですが……能力覚醒というのは、デリケートな問題でして」
彼は言葉を選びながら、淡々と続ける。
「いきなり息子さんが『血を啜る怪物』になったと言われて、冷静に受け止められる親御さんは、残念ながら少ないです。パニックになる、家庭崩壊する、あるいは宗教的理由で『悪魔祓い』をしようとして、最悪の結果を招く……なんてケースも過去には山ほどありまして」
「う……」
悪魔祓いとかリアルに言われると、シャレにならない。
「説明するメリット、しないメリット、それぞれあります。ご本人の判断が難しい場合は、あえて『伝えない』という選択も尊重されます。ヤタガラスとしては、能力者が社会に溶け込んで平穏に暮らすことが第一目標ですからね。勝手に我々から親御さんへ連絡するようなことは致しません」
「……ありがとうございます。助かります」
心の底から安堵した。親バレなしで手続きができる。これで少なくとも家に帰って、食卓の空気が凍りつく心配だけはなくなった。
「では、具体的な配給方法についてです。自宅に毎月郵送すると、家族に見つかるリスクがありますよね。なので、『鉄欠乏性貧血の治療』という名目で、ご実家の近くにある我々の協力医療機関――早い話が『組織の息がかかった病院』を手配します」
黒部さんがタブレット端末を操作すると、俺の自宅周辺の地図が表示され、いくつかの病院にピンが立った。
「ここで週一回、外来で輸血パックを受け取って飲んでもらう形にしましょうか。これなら『貧血の通院』という言い訳も立ちますし」
「なるほど。それなら怪しまれませんね」
週一の通院なら、部活のようなものだ。これなら隠し通せる。
「では手配しておきますので、こちらの書類にご実家の住所と現在の連絡先を記入してください。親御さんの欄は空欄で結構ですよ」
差し出されたペラペラの再生紙。そこには『第3種特殊事象管理対象・初期登録票』という仰々しいタイトルが印刷されている。
俺は渡されたボールペンを握り、自分の個人情報を書き込んでいく。久我陽介、住所……。
隣のかれんをチラリと見ると、彼女は興味なさそうにスマホをいじっていた。本当に「全部任せろ」と言った手前、細かい説明には口を挟まないつもりらしい。
「名前よし、と。住所よし。……ありがとうございます。あとはご本人確認用ですね」
黒部さんは手元のキーボードをカタカタと叩きながら言った。
「このあと、ヤタガラスが発行する『能力者証明カード』を作成します。これ、結構大事なものでして。免許証みたいなプラスチックのカードです」
「証明カードですか」
「ええ。最近は野良の能力者によるボヤ騒ぎとか多いですからね。もし夜中に職務質問されたり、他の能力者とトラブルになった時、これを提示すれば『自分は管理下の登録済み能力者です』という証明になります。警察の上層部なら、これで話が通じますので」
水戸黄門の印籠みたいなものか。確かに夜の公園で赤い目をしてうろうろしていて通報された時、これがないと即逮捕だろう。
「そのために、カード用の顔写真が必要です。……と言っても、ここには撮影ブースがないんですよ、予算削減でしてね、ハハハ」
黒部さんは乾いた笑い声を上げ、一枚の地図を俺に渡した。
「このビルの裏手に、昔ながらの写真館があります。我々の提携店です。そこで『証明写真をお願いします』と言えば分かりますので、この後行ってきてください」
「写真館……ですか。分かりました」
「説明は以上になります。他に何か不明点などはありますか?」
俺が考えるより先に、横から凛とした声が割り込んだ。
「黒部さん」
「はいはい、何でしょう皇様」
「今後の彼の『指導・監督』については、私が保護者ということで話が通っているはずだけれど?」
かれんの言葉に、俺は耳を疑った。
「えっ、保護者……?」
「言葉の綾よ。『指導員』兼『監視役』みたいなものね」
黒部さんは「あ、そうでしたそうでした」と自分の額を軽く叩いた。
「ええ、もちろん承知しております。新人研修および組織ルールのレクチャーについては、皇かれん様が全面的に代行するということで承認が降りています。いやぁ、我々としても手間が省けて助かりますよ。本来ならこのあと3時間の『コンプライアンス研修ビデオ(ヤタッピ出演)』を見てもらうところでしたから」
「それを見るのは時間の無駄だわ」
バッサリと言い捨てるかれん。3時間のビデオとか地獄かよ。彼女には感謝しかない。
「というわけで久我くん、基本的な注意事項や『能力者の掟』みたいなものは、全部彼女から教わってください。私からは以上です」
「……はい」
指導・監督。つまりこれからもずっと彼女と行動を共にしなきゃいけないということだ。それは嬉しいような、怖いような。
いや、今は頼もしさの方が勝る。この得体の知れない世界で、唯一の道しるべだ。
「では今日はこの辺で解散としましょう。あ、写真館への地図はこちらです」
「はい、受け取りました」
「記入済みの書類は、帰りに受付の箱に入れておいてくださいね。それでは」
黒部さんはそう言うと、また忙しそうにPC画面に向かい始め、面談終了の空気を出した。なんともあっさりしている。俺の人生の一大事が、ただの事務処理の一つとして処理されていく感覚。
「……失礼しました」
俺とかれんは会議室を後にした。
廊下に出ると、職員たちのざわめきが再び戻ってきた。
「さっさと提出書類に書きなさい」
かれんが冷たく急かす。
「この後、写真館にも行かなきゃいけないのよ。私も行ったことあるけど、普通の古びた写真館だから。ボヤっとしてると日が暮れるわよ」
「分かったよ。……へぇ、皇さんも撮ったことあるんだ」
「当たり前でしょ。私も登録済みの能力者だもの」
さらりと彼女は言ったが、何の能力者なのかはまだ聞いていない。
聞こうか迷ったが、今はボールペンを走らせるのが先だ。俺は近くの記載台で残りの空欄を埋め、自分の運命が決まった紙切れを、受付のトレイに提出した。
「よし、書けた。これで俺も国家公認の……なんだろうな、半人前の怪物か」
「感傷に浸る暇はないわ。次、写真館よ」
彼女の歩幅に合わせて、俺は出口のエレベーターへ向かう。
不思議と、昨日までの絶望感は少し薄れていた。淡々と進む手続きと、無愛想だが世話焼きな彼女のおかげかもしれない。




