第19話 廃線跡のノイズと永遠の夕暮れ
――吸血鬼協会への登録、能力訓練、そして初めての給料による装備の充実。
慌ただしくも充実した「新人エージェント」としての生活が板につき始めた頃、俺、久我陽介に新たな辞令が下った。
それは、いつもの夜の学校巡回が終わった直後のことだった。
汗を拭いながらスポーツドリンクを飲んでいる俺に、皇かれんが歩み寄ってきた。
夜風になびく長い黒髪。相変わらず絵画から抜け出してきたような美貌だ。だが、その瞳はいつになく真剣な光を宿していた。
「久我くん。来週の予定、空いてる?」
「え? まあ放課後は、いつも通り部活に来るつもりでしたけど」
「それをキャンセルして。……出張よ」
「出張?」
俺は聞き返した。学生風情に出張も何もないだろう。
かれんはタブレットを取り出し、地図アプリを表示させた。指されたのは、俺たちの通う高校から電車で三駅ほど離れた、隣町にある公立小学校だった。
「来週、この『桜木小学校』が林間学校に行くの。三日間、児童も教師も完全に不在になるわ」
「へぇ、いいですね。のんびりできて」
「逆よ」
かれんはピシャリと言った。
「学校という場所は、子供たちの生気……『陽の気』で守られているの。それが三日間もごっそり消えると、どうなると思う?」
「陽の気がなくなる……ってことは」
「そう。抑え込まれていた『陰の気』が一気に噴き出す。霊的な真空状態ね。そこを狙って、普段は隠れている古い怪異たちが活性化するわ。……最悪、学校が『あっち側』の巣窟になりかねない」
なるほど。学校自体が結界であり、生徒たちが電池の役割を果たしているのか。
それがなくなる三日間は、魔界の蓋が開くようなものだ。
「そこで、ヤタガラスから私たちに要請が来たわ。期間中、この小学校に出張して、現地の浄化及び警備を行う。……私と貴方の二人でね」
「えっ、二人? 剣持先輩たちは?」
「自校の守りを空にするわけにはいかないでしょう? それに……」
彼女は俺の目を、真っ直ぐに見つめた。
「今回の任務には、貴方の能力が適していると判断したの。その『魔眼』がね」
「俺の眼ですか?」
先日、金髪幼女(化身)から貰った『時間鎖』。
対象の時間を遅くする能力だが、それがどう警備に関係するんだ?
「行けば分かるわ。……準備しておいて。修学旅行気分で行くと、痛い目を見るわよ」
*
出張当日。
俺たちは電車を乗り継ぎ、夕暮れ時に目的地の駅へと降り立った。
都心から少し離れたベッドタウン。古い木造家屋と、新しいマンションが混在する、よくある郊外の町だ。
「こっちよ」
私服姿のかれん先導で、俺たちは薄暗くなり始めた路地を歩く。
俺は、ヤタガラスのネット通販で購入したばかりの『対怪異用強化繊維コート(見た目は普通の黒いロングコート)』を羽織り、懐には愛刀『無銘(打刀)』を隠し持っている。
さらに今回は、腰のポーチに『浄化塩グレネード(煙幕弾)』などの小道具も仕込んでみた。遠征となると、装備にも気合が入る。
「目的地は小学校ですけど、先に寄る場所があるわ」
かれんは地図も見ずに、入り組んだ細い道をすいすいと進んでいく。
やがて、周囲の家並みが途切れ、古いコンクリートの壁が続く道に出た。
「ここは……」
「廃線跡よ。昔、物資を運んでいた貨物線の跡地ね」
言われてみれば、アスファルトの割れ目から錆びたレールが顔を出している。線路は既に撤去されているが、かつてここを重い鉄の塊が走っていた気配が残っている。
カァ……カァ……。
カラスの鳴き声が、やけに大きく響く。
まだ日は完全に落ちていないはずなのに、この場所だけセピア色のフィルターがかかったように視界が暗い。肌にまとわりつくような湿気、そして微かな鉄錆の匂い。
――吸血鬼の嗅覚が告げている。これは「血」の匂いだ。古い、染み付いた血の記憶。
「見えてきたわ」
かれんが足を止めた。
そこには、踏切があった。
線路も途切れ、道路も舗装されておらず、ただ雑草に埋もれた二本の遮断機と、錆びついた警報機だけがポツンと立っていた。
電線など繋がっていないはずなのに、黒く汚れたランプ部分が、俺たちを見下ろす目のように感じられる。
「『桜木小学校』の裏手にある、通称『三千代さんの踏切』。今回のメインターゲットの一つよ」
かれんは静かに説明した。
「戦前……昭和初期の時代。当時、女学生だった少女がここで事故に遭ったと言われているわ。空襲警報が鳴り響く中、忘れ物を取りに学校へ戻ろうとして、軍用列車に……」
「悲惨な事故ですね……」
「ええ。以来ここは『神隠しの名所』として、地元では恐れられている。特定の時刻になると踏切が鳴り出し、迷い込んだ子供を『連れて行く』という噂よ」
その時だった。
カンカンカンカン……。
静寂を引き裂くように、警報音が鳴り始めた。
錆びついたスピーカーから出ている音ではない。もっと深い地底から響いてくるような、歪んだ金属音だ。
そして、動くはずのない遮断機が、ギギギ……と悲鳴を上げながら、ゆっくりと降りていく。
「……陽介、下がりなさい」
かれんの声が低くなる。
「えっ?」
俺は、踏切の向こう側に目を凝らした。
夕闇が濃くなる向こう側。雑草が生い茂る廃線跡に、人影が立っていた。
おかっぱ頭の少女だった。
着ているのはセーラー服ではなく、戦中によく見られたモンペ姿。手には、ボロボロになった通学鞄を提げている。
彼女は俯いていて、表情は見えないが、その肩が小刻みに震えているのが分かった。
「あれが怪異……?」
「そうよ。Tier4上位、『時間干渉型』の地縛霊ね」
かれんが補足する。
「彼女は待っているの。永遠に来ない電車を、あるいは渡れるはずだった向こう側を」
少女が一歩、踏み出そうとする。
俺は反射的に「魔眼」を発動させた。危険を察知して、彼女の動きをスローにして見極めようとしたのだ。
――カッ。
瞳が赤く発光する。視界の色が変わる。
「……っ!?」
だが、そこに見えたのは「遅くなった映像」ではなかった。
飛んでいた。
レコードの針が飛ぶように、映像が壊れていた。
少女が右足を上げる。次の瞬間、足は地面についている。その直後、また右足を上げている。
一秒進んで一秒戻る。あるいは三秒進んで五秒戻る。
時間軸が滅茶苦茶にシャッフルされ、ノイズ混じりのテレビ画面のように、世界が痙攣していた。
「なんだこれ……!」
俺はこめかみに激痛を感じて、目を覆った。
「時間がバグってる……?」
「ええ。彼女の周囲だけ、因果律が破綻しているわ」
かれんは冷静に分析する。
「死の瞬間の恐怖と未練が、時間をその場に縫い止めてしまったの。『事故が起こる3分前』の世界を、延々と、それこそ八十年間も繰り返している」
カンカンカンカン……。
警報音が次第に速く高く、狂ったリズムになっていく。
遮断機の向こうから、強烈な風圧が押し寄せてきた。
ゴォォォォッ……!!
列車の走行音だ。それも、ここには存在しないはずの幽霊列車。
だが、吸血鬼の肌には感じる。これに当たれば、物理的にミンチにされると。
「来るわよ、陽介」
かれんの手から、目にも留まらぬ速さで数枚の符が放たれた。
「空間固定、急急如律令!」
彼女の符が空中で光の壁を作り、押し寄せてくる「時間の奔流」を受け止める。
しかし、空間そのものがミシミシと悲鳴を上げている。Tier1のかれんが防御して尚、この圧力か。
「……強い」
俺は黒刀に手をかけながら、震えそうになる足を叱咤した。
これが怪異、土地に根付いた因習の重さか。
学校で退治してきたポップな怪異たちとは、漂う絶望感の質が違っていた。
少女が顔を上げる。
そこには、顔がなかった。
ただ、暗黒の虚無だけが、俺たちを静かに見つめていた。




