第16話 強制停止の「言葉」と対抗呪文(マジックガード)講座
深夜の校舎二階の渡り廊下。
霊脈探知アプリの警告音がけたたましく鳴り響く中、俺たちは「ソレ」と対峙していた。
出現したのは、黒い霧の中から実体化した、人間のような形をした怪異だった。
だが顔がない。のっぺらぼうの顔面の真ん中に、巨大な「口」だけが裂けるように開いている。
身体には経文のような刺青がびっしりと浮かび、見るからに「術師」タイプのTier4上位種だ。
「おいおい、また気持ち悪いのが出やがったな」
剣持先輩が刀を抜き、先陣を切って走り出す。
俺も遅れてはならじと、身体強化のギアを入れて飛び出した。
「行くぞ!」
先輩が踏み込む。
その瞬間、怪異の巨大な口がグパァッと開いた。
『――動くな』
低く重く、鼓膜ではなく脳幹に直接響くような、嗄れた声。
その言葉を聞いた瞬間、俺の身体に異変が起きた。
「……っ!?」
ガクン。
前に踏み出したはずの右足が、まるでコンクリートに埋まったかのように硬直した。
次に腕。呼吸。心臓の鼓動までもが、見えない鎖でがんじがらめに縛られる。
金縛り? いや違う。これは強制的な命令だ。「動くな」という言葉が、現実として俺の肉体に上書きされた感覚。
――動けない。指一本、瞬きすら許されない。
(な、なんだこれ!? やばい!)
俺は完全に棒立ちになり、冷や汗だけが背中を伝う。
無防備なサンドバッグ状態。このまま攻撃されれば終わりだ。
目の前で怪異が、勝ち誇ったように笑った――気がした。
だが、次の瞬間。
「甘ぇよ!!」
俺のすぐ横を、一陣の疾風が駆け抜けた。
剣持先輩だ。彼は止まっていなかった。
そして修理屋の美島さんも、スパナを構えたまま何食わぬ顔で、怪異の背後へ回り込んでいる。
(えっ!?)
驚く俺の目の前で、先輩の刀が一閃した。
「セイッ!!」
躊躇のない横薙ぎ。
怪異は自分の「命令」が通じたと思っていたのか、完全に虚を突かれて反応できなかった。
『ギャ……』
刃は怪異の首を両断し、黒い靄に変えていく。
断末魔の声を上げて、怪異はその場から掻き消えた。
「――ぷはっ!」
怪異が消滅した瞬間、俺の身体にかかっていた金縛りが解けた。
地面に膝をつき、大きく息を吸い込む。心臓が早鐘を打っている。
「……なんすか今の。マジでビビった」
「おう、大丈夫か新人」
先輩が刀を鞘に納め、何事もなかったように肩を叩いてきた。
後方から、指揮役の皇かれんが歩み寄ってくる。
「初見殺しに引っかかったわね、久我くん。今のはTier4の『呪い言葉』……つまり【呪言使い】の怪異よ」
「呪言……使い」
「ええ。ほら、世間でも『言霊』とか『有言実行』とかよく言うでしょ? 強い意志の籠もった言葉には力が宿る。それを攻撃能力に特化させたのがこの能力ね。要は『言ったことを強制的に現実化させる』能力よ」
「『動くな』と言われたら、物理的に動けなくなるってことか……」
シンプルだが凶悪極まりない。防ぎようがないじゃないか。
「でもおかしくないですか? みんなはどうして平気なんです? 俺だけガッツリかかりましたけど」
俺は疑問をぶつけた。剣持先輩たちには効いていなかったように見えた。耳栓でもしていたのか?
剣持先輩はニヤリと笑った。
「ああ、『慣れ』と『魔力ガード』だな」
「魔力ガード?」
かれんが補足する。
「所詮、相手はTier4レベルよ。放出される魔力量には限りがあるわ。対して、Tier3近い私たちや、ある程度場数を踏んだ能力者なら、自身の周りに無意識に魔力の防壁を張ることができるの。相手の命令が届く前にその防壁で弾く……これを『自動抵抗』と言うわ」
「自動抵抗……!」
「加えて、あからさまに『口』がデカい怪異が出た時点で、『ああ、こいつ喋るな』って分かるでしょ?」
先輩が得意げに語る。
「呪言が来ると事前に分かってれば、相手が言葉を発した瞬間に、魔力や霊力を一気に高めて、意識的にガードを固めるんだ。耳を塞ぐんじゃなくて、魂を閉じるイメージだな」
「なるほど……。気合とテクニックで無効化できるのか」
「そ。所詮、Tier4が使う程度の呪言じゃ、格上や同格には通じにくいってこと。これがTier2クラスの大妖怪、例えば『件』とか『牛鬼』みたいな奴が使う予言や呪いだったら、私たちでも抵抗できずに死んでるかもしれないけど」
「つまり今回の敵は……雑魚ってことですか?」
「怪異が使う能力としては、かなり残念能力に分類されるわね」
かれんはバッサリと言い切った。
「呪言使いの怪異って、実は本体が貧弱なパターンが多いのよ。言葉という搦め手にリソースを全振りしてるから、接近戦にはめっぽう弱い」
「言われてみれば、先輩の一撃であっさり沈みましたね」
「一人で戦う時は常に言葉を警戒していればいいし、今回みたいに集団で戦うとさらに効力が薄れるの。『動くな』という命令が複数人に分散しちゃうから、一人ひとりにかかる呪いの強度が下がっちゃうのよ」
「あー、それで俺以外のメンバーには全く効かなかったわけか……。強そうなのに残念だなぁ」
一対一の初見殺しには最強だが、集団戦や格上には無力。
それが怪異における【呪言】の評価らしい。
「でもな」
剣持先輩は真剣な顔で付け加えた。
「あくまでそれは『知能の低い怪異』が使った場合の話だ。――人間の能力者が使う呪言は、桁違いに危険だぞ?」
「え、そうなんですか?」
「ああ。『眠れ』の一言で即オチさせられるし、『心臓を止めろ』なんて言われたら、即死もあり得る。人間は狡猾だからな。言葉巧みに誘導して、抵抗できないタイミングで命令をぶっ込んでくる」
かれんが頷く。
「呪言はね、攻撃魔法というよりは高度な精神干渉の一種なのよ。アフリカの呪術師、ネイティブ・アメリカンのシャーマン、そして日本なら京都の陰陽師や古神道の家系……そういう古い術式を受け継ぐ『継承型』のエリートに多い能力ね。意外と裏社会で遭遇する確率が高いわ」
「戦闘以外でも便利な使い道があるのよ」
美島さんが、工具を片付けながら口を挟む。
「催眠能力としてよく使われるんよね。例えば、目撃してしまった一般人に『貴方は何も見てない!』って強い言葉で暗示をかける。すると、認識そのものが改ざんされちゃうの」
「おお……それこそ『メン・イン・ブラック』みたいだ」
「ヤタガラスの『事後処理班』なんかも、そういう呪言や認識阻害のエキスパートが多いわね。隠蔽工作で大活躍よ」
なるほど便利な能力だ。物理で殴るよりも、よほどスマートに問題を解決できる。
「今回の教訓は一つ」
かれんは俺の方を向き、ビシッと言い渡した。
「『一人で戦う時は常に警戒を怠らないこと!』。特に言葉を操るタイプの敵に会ったら、相手に喋らせる前に喉を潰すか、常に魔力ガードを展開しておくこと。これは能力者の基本中の基本よ」
「はい! 肝に銘じます!」
言葉は武器になる。
この業界における「口論」は、比喩ではなく命取りになるのだ。
俺は、消滅した怪異の残滓を見つめながら、改めて気を引き締めた。
まだTier4。俺の魔力ガードなんて、紙っぺらみたいなものだろう。
だが金髪幼女から教わった「魔眼」で時間を遅くし、相手が言葉を発する前に斬ることができれば……攻略の糸口はあるかもしれない。
戦うたびに知識が増える。経験が積まれる。
夜の掃除屋としてのレベルが、また一つ上がった夜だった。




