第1話 けだるき朝と深紅の宣告
けだるき朝と深紅の宣告
太陽が憎い。
これほどまでに切実に、空に輝く恒星を呪ったことが、かつてあっただろうか。
久我陽介くが ようすけは、布団から突き出した腕に直射日光が触れた瞬間、熱した針で皮膚を撫でられたような不快感に襲われて、目を覚ました。
スマートフォンのアラームが鳴るまで、あと五分。
貴重な二度寝の時間は、遮光カーテンのわずかな隙間から侵入した光の槍によって、無残にも奪われた。
「……あー、くそ。身体が鉛みてぇだ」
喉の奥から漏れたのは、枯れた老木のような呻き声だった。
起き上がろうと腹筋に力を入れるが、身体がベッドに縫い付けられたように動かない。
重力だけが俺の部屋で三倍になっているんじゃないかと疑うレベルだ。
関節の節々が軋み、頭蓋骨の内側では、泥をかき回すような鈍痛が渦巻いている。
完全なる寝不足の症状だ。
いや、寝不足というよりは、質の悪い風邪を一年中ひき続けているような感覚に近い。
(なんだってこんなにダルいんだよ、最近)
のろのろと上半身を起こし、頭を振る。
視界が揺れ、平衡感覚が仕事放棄を訴えてくる。
この謎の倦怠感が始まったのは、ここ二週間ほどの話だ。
別に夜更かしをして遊んでいるわけではない。
いや、結果として夜更かしにはなっているのだが、意図的なものではないのだ。
奇妙なのは、このダルさが「日中限定」だということだ。
昨夜のことを思い返す。
学校から帰宅し、夕飯を食べたあたりの記憶は曖昧だ。
ただひたすらに眠くて、リビングのソファで気絶するように仮眠をとった。
だが、日が完全に沈み、窓の外が闇に塗りつぶされた時刻――夜の九時を回った頃だっただろうか。
スイッチが切り替わるように、不意に目が覚めたのだ。
それまでの泥のような倦怠感が嘘のように消え失せ、頭の中がクリアになる。
視界は鮮明で、思考速度は通常の二割増し。
まるで脳味噌を冷水で洗ったかのように冴え渡っていた。
結局、俺はその全能感に任せて溜まっていた数学の課題を片付け、読みかけの小説を読破し、ついでに部屋の掃除までしてしまった。
深夜二時、三時になっても欠伸ひとつ出ない。
むしろ夜が深まるほどに、エネルギーが内側から湧いてくる感覚があった。
流石に明日の学校に響くと思い、無理やり目を閉じて布団に入ったのが明け方の四時。
そして今朝の七時。
わずか三時間の睡眠で、最強の太陽光線を浴びて強制起床。
これでは体調が悪くて当たり前だ。
「……昼夜逆転なのかなぁ」
洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、陽介はため息をついた。
もともと色白な方ではあるが、鏡の中の自分は陶器のように青白い。
目の下には薄くクマがあり、どこか病人のような儚さが漂っている。
名前には「陽」の字が入っているというのに、今の俺は日向に出ただけで蒸発してしまいそうな陰気さを纏っていた。
「行ってきます」
母親に声をかける声も、小さくなる。
トーストを一枚、胃に押し込むのが限界だった。
外に出ると、初夏の容赦ない日差しがアスファルトを焼き、照り返しの熱気が俺を包み込んだ。
肌がチリチリとする。
眩暈がする。
サングラスが欲しい。
なんなら全身を黒い布で覆ってしまいたい。
登校する生徒たちの喧噪が、遠い世界のことのように鼓膜を上滑りしていく。
(だりぃ……。学校サボりてぇ)
そう思いながらも、久我陽介の足は習慣というレールに乗って学校へと向かう。
平凡な高校二年生、帰宅部。成績は中の上、特技なし。サボる度胸もない。
それが俺だ。
まさかこの日常が今日という日を境に完全に崩壊するなんて、この時の俺は夢にも思っていなかった。
*
学校生活は、端的に言って地獄だった。
教室の窓際の席。
普段なら特等席のはずが、今の俺にとっては処刑台に等しい。
カーテン越しの光ですら、皮膚を通り越して骨の髄を焼いてくる気がする。
一時間目の現代文。
先生の朗読が子守歌に聞こえるどころか、意味のない呪文の羅列として脳を素通りしていく。
二時間目の体育。
見学を申し出ようか本気で迷ったが、怠けだと思われるのが癪で参加した。
結果、準備体操の段階で息切れし、サッカーの試合中はボールを追いかけるどころか、自分の足がもつれて転ばないようにするだけで精一杯だった。
「おい久我、大丈夫か? お前なんか顔色やべーぞ」
クラスメイトの友人が、心配そうに声をかけてくる。
「ああ……ごめん。ちょっと貧血気味かも」
「ちゃんと寝ろよー。まさかエロ動画の見過ぎか?」
「バカ言え。そんな元気ねぇよ」
昼休みも食欲が湧かず、購買で買った栄養ゼリーを流し込んだだけで終わった。
味気ない。
最近何を食べても、ゴムを噛んでいるような味がする。
もっとこう、味が濃くて鉄分を含んだようなものが欲しい――レバーとかだろうか?
そんな灰色の数時間をやり過ごし、ようやく訪れた放課後。
終業のチャイムとともに、教室がオレンジ色の斜陽に染まる。
その瞬間、俺の身体にいつもの変化が訪れた。
(……あ、楽になった)
鉛のように重かった手足から、重石が取り除かれていく感覚。
ぼんやりと霞んでいた思考の霧が晴れ、教室の隅々の埃まで見えるような視覚の鋭敏化。
夕方から夜にかけて調子が良くなるこの体質、便利なのか不便なのか判断に困る。
授業が終わってから元気になっても意味がないのだ。
帰ってまた、無駄に冴えた頭で宿題をやる羽目になるだけだろう。
鞄に教科書を詰め込み、席を立とうとした時だった。
ざわざわとしていた教室の空気が、不意に一点を中心にして凪いだ。
香水の匂いだろうか。
甘く冷ややかな香りが、鼻腔をくすぐる。
顔を上げると、目の前に一人の女子生徒が立っていた。
「久我陽介くん」
凛とした、鈴を転がすような声。
その声の主を認識した瞬間、教室中の男子の視線が突き刺さるのを肌で感じた。
皇かれん。
クラスメイトでありながら、住む世界が違うと誰もが認める「高嶺の花」だ。
腰まで届く艶やかな黒髪、切れ長の瞳、そして白磁のような肌。
彼女だけ画素数が違うんじゃないかと思わせる美貌の持ち主であり、成績優秀、品行方正。
噂によれば、どこかの名家の令嬢らしい。
これまでの高校生活一年ちょっと、俺は彼女とまともに会話をした記憶がない。
プリントを後ろに回す時に「はい」「ありがとう」と言葉を交わしたのが、最大にして唯一の接点だ。
そんな彼女が今、俺の机の前に立ち、俺を見下ろしている。
「え、あ、はい。何かな、皇さん」
驚きのあまり声が裏返った。
ダサい。
今の俺は間違いなく、先刻までの死にかけゾンビ状態から一変、動揺する男子高校生そのものだった。
かれんは、長いまつ毛に縁取られた瞳でじっと俺を値踏みするように見つめ、短く告げた。
「少しお話ししたいことがあるの。付き合ってくださる?」
教室が静まり返る。
数秒の沈黙の後、誰かが息を飲む音が聞こえた。
「……い、いいけど。今から?」
「ええ。ここでは目立つから、場所を変えましょう」
かれんは踵を返し、教室の出口へと向かう。
出口付近で振り返り、「ついてこないのか」と目で訴える。
俺は慌てて鞄を肩に担ぎ、彼女の後を追った。
背中に突き刺さる、クラスメイトたちからの嫉妬と好奇の視線。
なんだこれ? もしかして、いわゆる一つのラブコメ的展開ってやつか?
最近調子が悪い、気配を消しているような俺を、実はずっと見ていてくれた美女。
病弱(に見える)男子を放っておけない母性本能?
それとも、隠しきれない俺のフェロモンに気づいた?
いやいや、まさか。そんな都合の良い話が転がっているわけがない。
俺はただの帰宅部、久我陽介だぞ。
でも、心臓が早鐘を打っているのは事実だった。
夕方の涼しい風と相まって、妙な高揚感が胸を満たしていく。
これが俗に言う「春が来た」ってやつなのだろうか。
だとしたら、このダルい日常も悪くないかもしれない。
単純な俺は、先ほどまでの体調不良などすっかり忘れて、彼女の背中を追いかけた。
*
彼女が連れて行ってくれたのは、学校から二駅ほど離れた場所にある、落ち着いた雰囲気の純喫茶だった。
レンガ造りの内装に、深い色合いの木製テーブル。
ジャズが静かに流れ、コーヒーの芳醇な香りが漂っている。
ファストフード店ではないあたり、さすがはお嬢様だ。
俺はアイスコーヒーを、かれんはアールグレイの紅茶を注文した。
飲み物が運ばれてくるまでの間、俺はずっと落ち着かなかった。
テーブルの下で膝を揺らさないように、必死に我慢する。
目の前に座る皇かれんは、相変わらず美しかった。
伏し目がちにメニューを眺める横顔に、見惚れてしまいそうになる。
だが、彼女は席についてから一度も微笑んではいない。
その表情は硬く、どこか真剣で、張り詰めたような空気を纏っていた。
――告白とかじゃないよな、この雰囲気。
もっと真面目な話だろうか。
俺が何か学校でやらかしただろうか。
それとも生徒会への勧誘か?
ウェイトレスがグラスとカップを置き、去っていく。
俺はストローでアイスコーヒーを一口吸った。
冷たい液体が喉を通り、乾いた身体に染み渡る。
……やっぱり、ただの水のように味気ない。
もっと鉄っぽい苦味のあるものが飲みたいという衝動が、また頭をもたげる。
「久我くん」
不意に、彼女が口を開いた。
「あ、はい! 何かな、改まって」
努めて明るく振る舞おうとする俺を、かれんの漆黒の瞳が射抜く。
その瞳の奥には、恋愛感情も親愛の情も見当たらない。
あるのは、観察者が標本を見るような、冷徹で分析的な光だった。
「最近、体調が優れないみたいですね。特に日中、陽の光の下で」
ドキリとした。
見ていたのか。授業中に船を漕んでいる俺を。
「あー……うん。ちょっと寝不足気味でさ。なんかバイオリズムが狂ってるっていうか、昼間はどうしても眠くなっちゃうんだよね。だらしないよな」
頭を掻いて誤魔化す俺に、彼女は畳み掛ける。
「その反面、日が沈むと身体が軽くなる。視力が上がり、聴覚が鋭くなる。食べ物の味がしなくなり、代わりに鉄錆のような匂いに強く惹かれるようになる」
「……え?」
笑みが固まった。
グラスを持つ手が止まる。
なんでそこまで知っている?
「日中眠そう」までは分かる。「夜元気」「味覚の変化」なんて、誰にも話していないし、家族でさえ気づいていないことだ。
背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
高揚感は一瞬にして警戒心へと変わる。
俺の中で何かが警鐘を鳴らしていた。
こいつは何を知っている?
「あの、皇さん? 俺、君にそんな話したことあったっけ……」
「していないわ。でも、見れば分かるもの」
彼女は優雅な動作でティーカップを持ち上げ、一口だけ紅茶を含むと、静かにテーブルに戻した。
カチャリというソーサーとカップが触れ合う音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめ、これ以上ないほど明確な言葉で事実を宣告した。
「貴方、気付いていないみたいだから教えてあげる」
彼女の美しい唇が紡いだ言葉は、甘い愛の告白でも、冷酷な絶交の宣言でもなかった。
俺の常識を根底から破壊する、狂気の一文だった。
「久我陽介くん。貴方、吸血鬼になっているわよ」
時が止まった気がした。
店内のBGMも、隣の席の会話も、遠くで鳴る電車の音も、すべてが真空の中に吸い込まれて消えた。
「……は?」
しばらくして、俺の口から出たのは、間の抜けた一音だけだった。
吸血鬼? バンパイア?
映画とかゲームに出てくる、あの?
ニンニクと十字架が苦手で、人の血を吸う怪物?
この現代日本で。
ごく普通の高校生の俺に向かって。
学校一の美少女が真顔で言っている。
これは何の冗談だ?
ドッキリカメラか何かか?
どこかに隠しカメラがあるのか?
「あのさ、皇さん。いきなりどうしたの? 俺が今日調子悪いからって、その揶揄いはさすがに――」
「鏡を見て」
彼女は俺の言葉を遮り、自分のハンドバックから手鏡を取り出して、俺の顔の前に突き出した。
「冗談で言っていると思うなら、自分の眼を見てみなさい」
俺は恐る恐る、手鏡の中を覗き込んだ。
そこには見慣れた俺の顔があった。
ただし、一つだけ決定的な違いがあった。
喫茶店の薄暗い照明の中で、俺の両目は鮮血のような――いや、闇夜に輝く獣のような深紅に発光していたのだ。




