戸惑いの揺籠
真冬の庭は雪に覆われ、音を吸い込むように静まり返っていた。
だが、その静けさすらも
――揺り籠の中のハルナには及ばなかった。
彼女の沈黙は外界の静寂を凌ぎ、従者たちの胸にじわりと重い不安を落としていった。
ハルナは、泣かなかった。
夜泣きも少なく、湯が熱すぎても、抱き上げられても、涙を流すことは滅多にない。
それどころか笑顔さえ希薄で、同じ月に生まれた子が声を上げて笑い、手を伸ばして甘える頃――
ハルナはただじっと、天井の模様や窓から差す光、そしてセレナが残してくれたタンザナイトのペンダントを見つめていた。
⸻
揺り籠の前に、従者たちがいつの間にか集まっていた。
誰も声を荒げるわけではない。
ただ小さな寝顔を覗き込み、それぞれが腕を組み、息をひそめ、何かを言い出そうとしながら言葉を探している。
その沈黙こそが、彼らの戸惑いを如実に物語っていた。
「……赤ん坊って、もっと泣いたり笑ったりするものだろう?」
グレンが揺籠を大きな手でそっと揺らしながらぼやいた。
その手つきは豪快さを抑えようと必死で、逆にぎこちなく見える。
「静かすぎる……。具合が悪いのでは?」
エーデリアは小さな頬を指先で撫で、眉を寄せた。
護りたい気持ちが強いぶん、その思考はどうしても心配へと傾いてしまう。
ルカは羊皮紙を抱えたまま、ふっと息をつく。
「……育児の正解は、書物の中には載っていないのですね」
几帳面に書き留めてきた手順や記録も、目の前の揺籠を前にすれば空しく思えた。
初めての育児――その答えは書にはなく、ただ日々の手探りの中にあるのだと、ようやく理解し始めていた。
「熱も正常、脈も呼吸も安定。病の兆候は何度確かめても見られないよ」
シオンが体温計を見つめ、飄々と言う。
その診断に迷いはない。
だがその声には揺れがあった。
持てる知識を尽くしても、“泣かぬ赤子”をどう説明すればいいのか――答えはまだ、彼には見えていなかった。
「記録として残しておくべきだ」
アルビスは手帳を取り出し、淡々と書きつける。
『本日も泣かず。覚醒時の反応は静。呼吸・脈ともに異常なし』
冷静そのものの筆致だった。
だが、めくった前の頁にもまったく同じ言葉が並んでいる。
事実を書いたのは自分であり、間違いはない。
――それでも、変化のなさがかえって不気味で、記した事実そのものを疑いたくなる衝動が胸をかすめた。
「――台本通り、というやつかもしれませんね」
フェルが仮面越しに肩をすくめ、大袈裟に言う。
「泣かないことすら“演目”の一部。私たち観客に合わせた演技、というわけです。いやはや、やり手のお姫様だ」
「演技で済むかよ!」とグレンがすかさず声を上げる。
「じゃあ“泣かないご褒美”に拍手でもするか?」
思わずこぼれたその言葉に、張り詰めていた空気がわずかに和らぎ、従者たちの間に小さな笑いが生まれた。
フェルは肩を大きく揺らして見せる。
「それでは、私の役目がなくなってしまいますね。……結局のところ、我々はこの姫様の掌で転がされているのでしょう」
その言葉に、皆はふと口を閉ざし、揺籠を覗き込む。
眠るハルナの横顔は静かで――誰もが答えを求めながらも、ただその沈黙に呑まれていった。
ジークがぽつりと呟いた。
「……泣かないのは、今、この世界を……見極めている」
従者たちが一斉に彼を見た。
「戦場に立つ前の兵が気配を読むように……戦況を読んでいる目だ」
「……は?」グレンが眉をひそめる。
「お、おいジーク、相手は赤ん坊だぞ。戦況って……」
思わず口にしてから、さらに言葉を探す。
「……いや、まさか本気で言ってんのか?」
ジークは首を傾げたまま、無表情に視線を揺籠へ戻した。
その真剣さに、グレンは冗談として笑うべきか、それとも本気で受け止めるべきか分からず、ただ大きく頭をかいた。
短い沈黙。誰も答えを持たなかった。
ルカが羊皮紙を胸に抱え直し、深く息をつく。
「……結局、どうしたものか。答えはまだ、出せませんね」
揺り籠の中のハルナは、いつのまにか起きていた。
しかしやはり泣きも笑いもせず、ただ静かに天井を見つめていた。
その瞳には、誰も知らぬ世界の景色を映しているかのように。
泣かぬことは、日常のささやかな場面でも従者たちを戸惑わせた。
沐浴の折。
思った以上に湯が熱を帯びたのに、ハルナは声を上げず、ただ小さな手をジタバタと動かしただけだった。
「普通なら泣きわめくはずだろ……」
グレンが慌てて冷水を足し、大きな手で湯をかき混ぜる。
その額にはうっすらと汗がにじむ。
しかしハルナは目を閉じたまま、湯の中で小さな胸を上下させ、静かに身を沈めていた。
授乳の折。
時間を過ぎても泣き声が上がらず、ミルクを欲しているのかどうかすら分からない。
エーデリアが抱き上げて首を傾げる。
「……空腹なら、なぜ泣かない?」
小さな顔を覗き込み、不安げに胸を押さえる。
すぐ横でシオンが慌てて唇の乾きを確かめた。
「泣いて知らせないのは危険だ。これじゃぁ飢えに気づけない」
その声には医師としての焦りが混じっていた。
すぐにアルビスへ摂取時間と量の記録を命じ、他の従者には「決まった時刻には必ず与えろ」と厳しく指示する。
泣かぬ姫を前に、従者たちは己の判断ではなく“刻”に従うしかなくなった。
アルビスの記録帳には、同じ光景が、日を追うごとに頁へ刻まれていった。
『泣かず。眠り深し。異常なし。』
その横には、シオンの指示も書き添えられていた。
『授乳は定時6時、9時、12時、量90ml』
『次回授乳15時予定』
記録は簡潔だが、余白には走り書きのように「理由、不明」とだけ残されている。
まるで、冷静を装う筆先の奥にだけ、不確かさが滲んでいるかのように。
従者たちが困惑を募らせる中、オルランドは一同を集め、落ち着いた声で告げた。
「泣かぬことを喜ぶな。泣き声は命の証であり、我らへの知らせでもある。
だが姫様は、その声を使わずとも生きている。――ならば、我らは倍の目と耳を持ち、呼吸の浅さ、指先の冷え、わずかな顔色の変化すら逃さず見極めねばならぬ。
それが、この家に仕える者の矜持だ」
その静かな言葉に、従者たちは息を呑み、胸に重く責務を刻み込んだ。
ハルナの静けさが異例であることに変わりはない。
だが、それを理由に怯えることは許されない。
守る者に求められるのは、恐れや疑心ではなく
――絶え間ない観察と、遅れなき行動。
オルランドは静かに、しかし揺るぎなくそう諭したのだった。