責任の連鎖
深い夜。館の地下。
どこからともなく忍ぶ気配が、空気をわずかに震わせていた。
明かり取りの小さな格子窓から、月の線が一本だけ差し込む。
その光のきわに、ひとつの影が立ち、ただ動かずにいる。
――あの夜に生まれた娘。
報せが耳に入った瞬間、静まり返った部屋で、たった一つの呼吸だけが熱を帯びた。
吐く息がかすかに震え、その震えが、止まっていたこの部屋の時をもう一度進ませていた。
影は首を傾け、乾いた声とも笑いともつかぬ短い音を洩らした。
「……これでいい。
ようやく、世界は満ちる――」
今、この夜に。
影は微動だにせず、それでも確かに言葉を落とした。
「……手筈どおりに進めろ。完璧にだ。些細な綻びも許さない。余計な動きは不要だ」
足音も匂いも残さず、気配だけが静かに遠ざかっていく。
何も感じぬまま、それをただ受け入れた。
何も知らぬハルナが眠る夜、誰にも気づかれぬまま、静かな歪みが、この家の底で生まれはじめていた。
ーーーーー
夜も更け、セレスティア家。
宰相執務室の蝋燭が、呼吸のようにゆらゆらと揺れていた。
重厚な扉を叩く、控えめな二度の音。
「……入れ」
オルランドが静かに扉を開け、敷居で一拍置いてから歩み入る。
背筋は真っ直ぐ、所作は寸分の狂いもない。
「クラウス様。少々、お時間を」
「構わん。どうした」
白髪の執事は深く一礼し、言葉を選ぶように口を開いた。
「恐れながら――ハルナ様にお仕えする面々について、懸念がございます」
クラウスは筆を置き、視線を上げる。
「若い者が多すぎる、ということか」
「はい。志に不足はございません。ですが――齢の浅さゆえに、どうしても“半拍の遅れ”が出ます。
抱き上げひとつ、扉の開け閉めひとつ、その刹那に刃が差し込む隙が生まれましょう。
……やはり、姫様の御身を守り抜くには、私のような者がしばしば側に控えるべきかと。
それに加え、信頼の置ける年長の従者を数名、輪に加えては如何でしょう。若き者たちを補佐し、備えをより盤石にするために」
短い沈黙。
紙の端で蝋の影が伸びる。
クラウスは指を組み直し、静かに応じた。
「――お前ほどの者にハルナを託せる。それが、私にとって何よりの支えとなる」
一拍置いて、クラウスは静かに続けた。
「だが同時に、彼らにも背負わせたい。未熟や失敗も、成長の代価として払わせるべきだ。
家の者は皆、ただ仕えるだけの存在であってはならない。守り、学び、次の代を形づくるために在る。
ゆえに、盾は増やす。だが翼は折らない。羽ばたく術を奪うことは、この家の矜持にも反する」
オルランドは深く頷く。
「心得ました。ならば私は“影”に回りましょう。いざという時だけ前へ出て、平時は彼らの半歩後ろで、礼と段取りを整えます。
――そして柱を増やし、この家を支える力を厚くいたしましょう。家の矜持にかけて、姫様の安全を最優先に」
口元に、ごくわずかな笑みが刻まれる。
「頼んだぞ、オルランド」
「はい。必ず」
執務机の上で封蝋が固まり、蝋涙がひとつ落ちる。
二人の言葉はそれ以上いらなかった。
役目は交わされた。
若さに機会を、家に柱を――。
扉が静かに閉まり、揺れる炎が元の高さに戻る。
二人が分かち合った責務を抱え、夜の静けさとともに館の奥へ溶けていった。
ーーーーー
季節は冬へと移ろい、セレスティア邸の空気もまた変わり始めていた。
希少なる女児――ハルナ・セレスティアが生まれてまもなく、従者たちの日々も試されることとなった。
日頃は剣や記録、料理や薬に秀でた若き従者たちも、ハルナを前にすれば勝手が違う。
穏やかに眠る小さな存在を前に、何をどこまで手を出せばよいのか――誰も答えを持たぬまま、ただ手探りの時間が積み重なっていった。
名門セレスティア家の筆頭執事オルランドの指導のもと、ぎこちなくも熱心に世話を焼く日々が続いている。
だが、宰相執務室でオルランドが口にした「半拍の遅れ」は、すでに小さな場面ではっきりと顔を出している。
ルカは小さな手足を拭いながら、ひとつひとつの手順を紙に書き留めていく。
角をそろえ、順番札を付け、次の担当の動線まで整える几帳面さが揺らぐことはない。
だが、筆を探して視線を落としたほんの一瞬、ハルナの小さな手が揺り籠の柵にかすかに当たった。
怪我には至らずとも、そのわずかな音に、従者たちは息を呑む。
「よし、湯加減は……ぬるすぎか?」
グレンは豪胆さを抑え、手のひらでそっと湯温を測った。
大丈夫だと踏んで、ハルナをそっと湯へと入れる。
だが、思った以上に熱がこもっていた。
驚いたハルナが小さな手足をジタバタと動かす。
咄嗟にグレンは力を入れすぎ、腕に抱く手が強く締まる。
一瞬、滑らせるか、抱き潰すか――その狭間で危うさが走った。
背筋に冷や汗を伝わせながら、グレンは慌てて力を抜き直す。
「驚かせるな。静かに――」
ジークは扉の外で警戒を怠らなかった。
足音と呼吸の数まで数え、立ち位置を半歩ずつ調整する。
その徹底した流儀は、誰よりも正確で隙がない。
だが、あまりに音を殺しすぎた。
気配に気づかぬ従者が振り返り、思わず短い声を洩らす。
その声に、ハルナが小さく肩を震わせた。
ジークは即座に視線を走らせたが、遅い。
守るための“静けさ”が、かえってハルナを怯ませてしまったのだ。
フェルは仮面をつけたまま、揺り籠の布をそっと直す。
仮面の縁に指を添え、声色を何千通りにも変えてみせる――舞台袖の道化らしい献身だった。
その声音は確かに眠りを誘う力を持ち、幾度もハルナを穏やかに導いてきた。
だが、ハルナはまだ小さすぎる。
時に声の変化そのものが刺激となり、眠りを深めるどころか、ふと瞼を開かせてしまう。
ハルナの眠りは、安定しているように見えて実は日々揺らぎ続けている。
その儚さの前では、いかに磨かれた技巧も、必ずしも通用するとは限らなかった。
シオンは、ハルナの体温や呼吸のわずかな揺らぎすら見逃すまいと、過敏なほどに目を凝らしていた。
小瓶の蓋をひねり、草花をすり潰した香を一滴ずつ調整する指先は、時の感覚を失うほど止まらない。
だがハルナの機嫌に絶対の正解はなく、今日うまくいった方法が明日も通じるとは限らない。
だからこそ彼はさらに確かめ、さらに微調整を重ねる。
その細やかさは確かに頼もしい一方で、度を越せば沐浴や食事の段取りを遅らせてしまう。
鋭さと未熟さが同居する、その手探りは今も続いていた。
アルビスは、初めて目にする赤子の仕草を淡々と克明に記録していた。
小さな指の動き、まばたきの回数、呼吸の間隔――手帳の頁には一つ残らず刻まれていく。
記録に感情は不要、そう信じて疑わない。
数字と事実こそが真実だと信奉する姿は、時に冷たさすら帯びていた。
だが、その徹底ゆえに、すぐ傍らで布がずれようと、頬が赤らみかけようと、筆を止めるのは一拍遅れる。
正確な記録は家の財ともなるが、その瞬間の反応が遅れれば命取りとなる。
その一瞬の遅れが、確かに危うさを孕んでいた。
エーデリアは、しなやかな指先で赤子の髪をなで、歌うようにあやす。
剣の代わりに姿勢で守る――まっすぐな眼差しが、そのまま盾になっていた。
だが、その盾は時に硬すぎる。
力強さゆえに、抱き上げる腕には余計な緊張がこもり、揺り籠を直す仕草にも無意識の力が乗る。
そのわずかな強さに、ハルナの小さな身体はふと居心地を乱される。
守りたいという意志が、そのまま重さに変わりかねない――それが彼女の未熟さだった。
失敗は日常茶飯事。
ミルクの温度を見誤ったり、沐浴で水加減を外してしまったり――
それでも、誰もが懸命にハルナの命を守ろうとしていた。
「――この手に抱く重みを、忘れるな」
オルランドは一同に静かに告げる。
「この子は、国の宝であると同時に、我らが守るべき“ただ一人の姫君”だ」
彼自身は半歩後ろから、礼と段取りを糸で繕うように整えていく。
従者たちは不器用な手つきで、確かにハルナの小さな命と向き合っていく。
小さな寝息が整うたびに、彼らは気づかぬまま――
ハルナという存在こそが、従者たちを育てているのだと。