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春を謳う  作者: 葵
7/10

政と祭

夜の王宮は静まり返っていた。

塔の鐘が二つを告げ、執務室の窓辺で油灯が低く揺れる。

机上には広げられた地図と政令の束。

封蝋の乾いた匂いが、まだわずかに残っている。


クラウスは椅子に腰を下ろし、組んだ指の影を机に落としていた。

やがて扉が静かに開き、白と紫の法衣が音もなく室内に歩み入る。


「――ご息女の誕生、改めておめでとうございます。王国にとっても、私個人にとっても慶事です」


高位神官セルジュ・フランベルクは穏やかに微笑んだ。

声は澄んで、部屋の隅々まで届く。

灯の揺れさえ落ち着くような調子だった。


「ありがとう、セルジュ。……君の家にも、男児が生まれたそうだな」


「はい、おかげさまで――健やかに育っております」


クラウスの口元に、わずかな笑みが刻まれる。


「男児もまた、国にとっては大切な宝だ」


セルジュは静かに頷き、机の縁に視線を落とした。

そこには王印と宰相印、神官庁印が並ぶ出生の記録――原本がある。

指先で髪を払いながら、その存在を確かめるように目を細め、再びクラウスを見上げた。


「いずれハルナ様がどんな道を望まれるのか――何でもお知らせください。祝祷の段取りも、『女神認定』の有無も、礼法の範囲も。私にできることは、力になりたい」


言い回しは申し分なく、公的には完璧だった。

だがその眼差しの奥には、暖炉の奥火のように温度の掴めぬ熱が潜んでいる。

クラウスはわずかに姿勢を正し、記録の上に薄紙を掛けた――それは守る仕草であると同時に、相手との境界を引く動作でもあった。


「感謝する。だが、女児に関する一切は、慎重に扱わねばならぬ。記録の写しが外へ出ることはない。必要な折は、宰相室から正式に照会する」


その声音は、先ほどまで祝辞を受けていたときの柔らかさを失い、ただ淡々としていた。

笑みも皺も消え、そこに残ったのは事務の線を引く宰相の顔。

感情の揺らぎを探ろうとしても、返るのは、凍りつくような静けさだけだった。


「もちろんです」


セルジュは少しも崩れない。


「女神は守られなければならない。――ただ、ハルナ様の“祈りの場所”が要る時は、私が責を負いましょう。護衛の配置も、礼拝所の調度も、静けさを損なわぬよう調えることができます」


クラウスとは対照的に、その声色は終始変わらなかった。

けれど言葉の奥に消えぬ火種のような熱が潜んでいた。


クラウスは短く考え、指を組み直した。

その癖は決断の前触れ――王宮の誰もが知る仕草だった。


「護衛は家の者で足りている。祈りの場所についても……当面は邸内で充分だ」


その声音も表情も崩さず、ただ決定だけを置いて、クラウスは沈黙した。


「承知しました」

セルジュは一歩退き、しかし視線は窓の向こう――王宮の外郭、はるか東の高台へわずかに流れる。

クラウスはその視線の揺れに気づいていた。


「セルジュ。私は君の腕を信じている。だからこそ、境界は明確にする。公は公に、私事は私に」


その声音は淡々としているのに、背後には揺るぎない決意が張り詰めていた。

譲歩に見えるが、実際には線を引く宣告。

クラウスの言葉は、静かな机上に一本の境界線を刻んだかのようだった。


「友として、盟友として――喜んで。

……ただ、もし必要とされるときが来れば、その時はどうか、私を思い出してください」


答えは柔らかい。

しかしその響きは、まるで祈りに似た懇願のようにクラウスの耳に届いた。


沈黙が落ちた。

窓辺のカーテンが、風にかすかに揺れた。

セルジュは懐から小さな包みを取り出し、机に置いた。

白い布に紫の刺繍で、祈りの句が一行。


「王妃殿下より。百合を調合した香りです。ハルナ様のお部屋へ」


「預かろう」


クラウスは包みを引き寄せ、封を確かめる。

視線の端で、セルジュの手が髪を梳く癖を見せた。

クラウスの視線を受けても、セルジュの笑みは揺らがなかった。

完璧に整えられた笑みは張り付いたまま。


「……最後に、ひとつだけ」


セルジュが言う。


「ハルナ様が“望む声”を、どうか早くからお聞き取りください。願いは幼くとも、道はそこで定まります。女神は――」


「女神はいつも、遅れて来る」


クラウスが淡々と継いだ。


「だから人が先に、道を敷く」


セルジュは微笑みを崩さず、静かに言葉を重ねる。


「……ですが、ハルナ様の隣には、もう女神が微笑んでおられるでしょう」


その声音は穏やかだったが、確信だけは揺るぎなかった。


二人の間に、目に見えぬ線が引かれる音がした。


セルジュは一礼し、裾を返す。


「では、今夜はこれで。――良い夜を、クラウス」


「君もな」


扉が静かに閉まる。


その外で、一瞬だけ気配が留まるのをクラウスは感じた。

だが次の瞬間には静寂だけが戻っていた。


ーーーー


廊の角を曲がる直前、セルジュはふと立ち止まり、前髪に触れた。

誰にも見えない場所で、その笑みにはわずかな影が差していた。


ーーーー


灯の揺れが元に戻り、紙の匂いが濃くなる。

クラウスは薄紙を外し、出生の原本を金庫へ戻した。

――王国は祝福に満ちている。

だが祝福は、しばしば鍵と同じ形をしている。

鍵が落ちる音がひとつ。


クラウスは机上の砂時計を逆さにし、短く息を吐く。

境界は引いた。

引いた線が、どれほど長く持つのか――その試しは、もう始まっている。

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