拍を刻む館
数月が過ぎ、陽の傾きが早くなった。
窓辺に射す光は乾きを帯び、輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
庭の木々は、風に触れるたびに小さな音を立てる。
枝が何かを手放し始めた頃――セレスティア家の館は、静けさに包まれていた。
祝いの客は引き、贈り物の箱は片づけられ、残されたのは赤子の寝息と、出立を控えたわずかな気配だけ。
セレナは各地の民謡を集める巡業の支度を終え、長い髪を肩へと流した。
手にあるのは、夜空のような輝きを宿すタンザナイトのペンダント。
留め具には小さな金の粒がひとつ――青と金の“双星”を思わせる意匠だった。
「これは、あの子のように深く澄んだ瞳の色。ハルナ、あなたのお守りよ」
赤子の頬にそっと唇を寄せ、ペンダントを朝の光にかざす。
色の深さを確かめると、セレナはそれを柱に結わえ、微笑んだ。
「ここに掛けておきましょう。いつでもハルナから見えるように」
その仕草を見届けながら、クラウスは揺らめく青を見つめ、低く短く答える。
「この輝きを曇らせるようなことはしない。……安心して行くといい、セレナ」
視線が一瞬だけ揺り籠に落ち、眉間の皺がわずかにほどける。
だが次の瞬間には執務の顔に戻り、護衛と行程の最終確認へと目で合図を送った。
セレナは揺り籠の傍らに腰を下ろし、祈りのような子守唄をそっと口ずさんだ。
透きとおる旋律は、ハルナの小さな耳に深く、柔らかく沁み渡る。
「いつか、この歌が必要になったら――思い出してね」
背後からクラウスがそっと肩を抱き、
「……寂しくなるな」
と小さく呟く。
彼女は振り返り、微笑みを浮かべて少し甘えるように囁いた。
「必ず帰るわ。どこにいても、あなたとハルナに何かあれば――私は迷わず駆け戻る」
その微笑みは柔らかだったが、声には揺るぎない決意が宿っていた。
護衛の合図が廊の奥で小さく響く。
扉が開き、光とともに一枚の葉が舞い込んだ。
石畳に車輪の音がひと度だけ鳴り、やがて遠ざかる。
残された館には、静けさと赤子のかすかな寝息だけが満ちていた。
セレナの旅立ち――それは、この家に白き気配が忍び込む合図でもあった。
窓辺のレースがかすかに揺れ、部屋にはまだ歌の余韻だけが漂っている。
ハルナは眠り、その長いまつ毛の下で、母の歌だけが澄んだまま、静かに留まっていた。
ーーーーーー
セレナの不在を埋めるように、館はいつもより早く動き出した。
朝の湯気とともに命令が流れ、廊を渡る足取りが重なり合い、一日の拍を刻む。
ハルナの小さな笑い声や、布団の上でころりと転がる気配が、始まりを告げる合図となる。
従者たちは慣れぬ育児に翻弄されながらも、“支える者”として、それぞれのやり方で空いた席を埋めていった。
ルカは書庫の机を占領し、育児書に色紐で索引をつけた。
沐浴の水温、抱き上げる角度、眠りに入るまでの時間――ページの端に小さな印が増えるたび、動線の図も更新される。
抱き方の練習は人形ではなく、布で包んだ砂袋でハルナの重さを性格に再現し、重さの癖を体に覚えさせてから、ようやく揺り籠へ腕を差し入れた。
「失礼いたします、ハルナ様」
声は低く短く、手のひらは静かな弧を描く。
眠りについたなら正解、微かな動きが続いたなら段取りの再調整――感情は後だ。
手袋の指先で、揺り方の幅をほんの少しだけ狭めた。
グレンはおむつ替えと格闘していた。
最初の一枚は逆さ、二枚目は斜め、三枚目でようやく形になる。
「ほら、こんな顔もできるぞ」
大きな手で頬を引き延ばす真似をすると、ハルナが一瞬だけ息を止め、次の瞬間に小さな音で笑った。
その笑いに、グレンの肩からようやく力が抜ける。
「な? な?」
誰も褒めていないのに、自分に頷き、笑顔を見届けてから、いつものように背中で入口をふさぐ。
――外から何かが来ても、最初に立ちはだかるのは自分だと決めている。
その大きな背は、誰よりも確かに“盾”だった。
驚かせてしまうこともある。
そんな時は、いつもの言葉で締める――気にすんな、次で挽回だ。
ジークは物音に耳を澄ませることを、ごく自然にしていた。
床板の軋みは場所ごとに違い、昼と夜でも音は変わる。
風で鳴る音と、人で鳴る音は、もっと違う。
館の呼吸を覚えるように巡回するが、揺り籠のある部屋の前では、無意識に歩調がわずかに緩み、視線が扉に吸い寄せられる。
「異常なし」
短く告げて立ち位置を変える。出入り口から目を外さない。
ただ――ハルナの声が響いたときだけ、ほんの一瞬、扉の内側へ視線が滑っていた。
フェルは仮面を付け、揺り籠の側で童話を読んだ。
「姫君、眠りの時間です」
声は柔らかく、語り口は寸分違わない。
老人の声、勇者の声、妖精のささやき――数えきれぬ音色の中から最適を選び、瞬きの間に全く別の響きへと変わっていく。
けれど、その仮面の下の素顔だけは、終始ひとしずくの揺らぎも見せなかった。
揺り籠の赤子を満席の観客席に見立て、ただ眠りのための物語を演じる。
笑いも涙も置かず、舞台袖から空気だけ整えて、目立たぬ拍手で幕を落とす。
その仕草の終わりに、仮面の縁をひと撫でしてから退く――それが、いまの道化師の役目だった。
シオンは薬草で湯を整え、肌を守る軟膏を作った。湯気に草の香が混じると、部屋の温度がひとつ和らぐ。
赤い小瓶の蓋を指先で軽く回し、ハルナの頬と手の甲をそっと確かめる。
「はい、気分が落ち着く香り。肌も綺麗になっちゃうよ。」
そう調子のいい言葉を残しながら、道具を静かに片づける。
配合は日ごとに微調整――ハルナの体温や湿り気、わずかな機嫌に合わせて。
周りには到底真似できない細やかさだったが、シオンにとっては“当然”のことにすぎなかった。
アルビスは日誌の余白を使い切る勢いで記録した。
泣き始めた刻限、泣き止んだ要因、飲んだ量、眠った長さ。
紙の上では数字と線だけが増えていく。
《第十一の月・七日/昼刻前 泣声小→抱上→沈静→ 穏和。室温二四。》
泣き止んだハルナの笑顔を前に、何を書くべきか――ほんの刹那、筆先が迷う。
だが記録に残すべきは事実だけ。感情は不要だ。
アルビスは一本線を引き、曖昧な余韻だけを心に留めた。
そして――帳面を閉じる音が、静かな部屋に小さく響いた。
エーデリアは手袋を外し、ハルナの小さな手に自分の指をそっと重ねた。
握り返す力が、日に日に増していくのを感じて微笑む。
「……元気だな」
胸の奥に静かな安堵が灯り、頬が自然と緩む。
そのひとときだけは、剣も盾も要らなかった。
あるのは赤子の体温と、寄り添う呼吸だけ。
赤子が再び眠りに落ちると、表情はすぐに平常へ戻る。
手袋をはめ直し、背筋を正し、迷いなく持ち場へと歩を進めた。
こうして日々は回り出した。
朝には湯を張り、小さな体をそっと清める。
昼には揺り籠を見守り、眠りに落ちる瞬間を確かめる。
夕には帳面に一日の記録を刻み、
夜には足音を潜めて、眠りを乱さぬように歩く。
誰もが“正確”を目指し、それぞれの得手で穴を塞いだ。
誰かの手が震えれば別の声が覆い、段取りが空回れば即座に別の判断が修正する。
その合間に、ささやかな変化だけが積もっていく。
ルカは抱き直すたびに、腕の中の重みの違いを感じ取るようになった。
グレンはおむつ替えの手際が一枚ごとに速くなり、失敗の後の笑わせ方も覚え始めた。
ジークは声の調子で眠気か空腹かを聞き分け、扉を開ける動きまで静かにした。
フェルは物語の合間に数拍の沈黙を挟み、その沈黙ののちに赤子が息を落とす確率を正確に測れるようになった。
シオンは湯上がりの頬の色で、香の濃さを即座に調節できるようになった。
アルビスは日誌の端に“ハルナが笑うために明日試す手順”を列挙し始めた。
エーデリアは昼寝の間だけ窓の隙を調整し、風が直接当たらない角度を探し当てた。
どれも“好意”という名にはまだ遠い。
呼び名も、立ち位置も、手の置き場も、職分のままだ。
ただ、誰も気づかぬほどの微差で、ハルナの声に対する返事が早くなり、抱く手の温度がそろい、部屋の息が、日ごとに静かに整っていく。
夕暮れ、窓枠が淡く金色に縁取られる時刻。
揺り籠の上に、静かな寝息が重なった。
従者たちは声を潜め、互いに目だけで小さく合図を交わす。
――今日も守れた、と。
母の歌が遠くで薄く残り、館の拍は予定表どおりに夜へと進む。
ハルナの指が小さく動き、何かを掴もうとする仕草をした。
その意味を知る者は、まだ誰もいない。
静けさがひと呼吸、部屋を満たす。
そしてまた、次の拍が始まる。