誓約の鎖
取り巻きの一人が、さらに気を良くして口を滑らせた。
「なんでも、裏で金を学園に送っているそうですよ。あのエドワードも……そうだという噂です」
レン様は短く相槌を打つ。
「……そうか。そんな噂があるのか」
それに気をよくしたのか、そいつは畳みかけるように続けた。
「じゃないと、あのエドワードが上位者なわけないですから!」
「はははっ」と数人が軽薄に笑う。
……バカどもめ。
レン様が一切笑っていないことに、なぜ気付かない?
冷たい紅の瞳がじっと射抜いているのに――。
胸がざわつき、嫌な汗が背を流れた。
次の瞬間、レン様の視線がぴたりと俺に定まった。
「――どう思うかな?」
「へっ……?」
情けない声が漏れる。
だがレン様は気にも留めず、声を低く落として言葉を重ねた。
「エドワード君が“裏で金を回して上位者になっている”という噂を、君はどう捉える?」
喉がひりつく。
……まずい。
下手なことを言えば終わる。
だが答えなければもっと終わる。
必死に言葉を選びながら、かろうじて口を開いた。
「そ……その噂が本当か嘘かはわかりません。ただ――」
紅の瞳が鋭く俺を射抜く。思わず背筋が凍った。
「ただ……レン様より上であることは、あり得ません」
沈黙が落ちる。
一拍遅れて、他の取り巻きも慌てて同意した。
「そ、そうです!」「まったくその通りで!」
俺は心の中で安堵した。――間違っていない。これで大丈夫なはずだ。
だが次の瞬間、レン様の言葉が胸を突き刺す。
「……なぜ、そう言い切れる?」
「なっ……」
「“家族と財に恵まれただけで、あいつにはなんの力もない”――そういうことか?」
「……は、はい」
俺は必死に頷いた。周りも慌てて同意する。
「その通りです!」「力などありません!」
だがレン様の目は笑っていなかった。
むしろ、その奥底は氷のように冷えている。
「……君には、どんな力がある?」
「え……?」
間抜けな声がまた出た。喉がからからに乾く。
レンの目が細まり、穏やかな笑みのまま低い声を落とす。
「なるほど……つまり君たちは、努力を積み重ねている者を“裏金”呼ばわりしているわけだ」
取り巻きの何人かがびくりと肩を揺らす。だがレンは構わず続ける。
「もしそれが事実なら、学園そのものが腐っているということになるね。……つまり、君たちはこの学園を侮辱しているわけだ」
空気が凍りつく。誰も声を出せない。
「そして――」
わずかに声を強め、レンの紅の瞳が俺たちを射抜く。
「エドワードを貶めるということは、その父を、母を……セレスティア家そのものを愚弄したことになる。彼の家は、この国を支えてきた一族だ。その意味を、理解して口にしたのか?」
唇が渇き、喉がひりつく。返す言葉が出てこない。
レンはふっと笑みを浮かべた。だがその目は冷たく、刃のように鋭い。
「結局、君たちは己の力不足を“噂”で誤魔化したいだけだ。……滑稽だな」
最後の一言が突き刺さり、誰一人として反論できなかった。
俺は必死に声を絞り出した。
「も、もちろん……冗談です。冗談に決まっております」
レンの目が細まり、にこやかに微笑んだまま、わずかに首を傾げる。
「……冗談、か」
その言葉を吟味するかのように、ほんの一瞬だけ考え込む素振りを見せる。
取り巻きが慌てて合わせる。
「そ、そうですとも! 冗談です、レン様!」「我々は、ただ場を和ませようと……!」
必死の取り繕いに、場の空気が少しだけ緩む――そう思った矢先。
「……冗談、か」
そうもう一度呟いたレン様の目が、順に俺たち全員をなぞった。
笑みを浮かべたまま――だが、その視線は氷のように冷たい。
「――ならば、なおのこと笑えないな」
紅い瞳が一瞬、俺たちを射抜いた。
次の瞬間、レン様は静かに背を向け、去っていった。
俺以外の取り巻きは、慌ててレン様の背を追っていった。
……終わった。
そう思った。
あの微笑み――間違いない、あれは怒りだった。
レン様が“怒る”姿など、今まで一度も見たことがない。
なのに俺は、その場から一歩も動けずにいた。
「クソ……クソッ!」
胸の奥で呟く。全部あの取り巻きのせいだ。
あいつが余計なことを口にしなければ……。
だが――わかっている。問題はもっと深い。
あの試合のことだ。
終わってなお、学園中の話題をさらい続けている。
表向きには「レン様の勝利」「エドワード卑下」――皆、口ではそう言っている。
だが……心の底では誰もが理解しているのだ。
あれは、エドワードの勝利だったと。
BクラスがAクラスに勝ったという衝撃。
それ以上に、“王子”レン様に、エドワードが食らいつき、実質的に勝ったという事実。
ルール上ではレン様の勝利――それは間違いない。
だが、この国では“ルール”より“実戦の力”が重んじられる。
実戦で勝ったのは、間違いなくエドワード。
レン様がそれをどう捉えているかはわからない。
だが、あの場にいた者なら、誰の耳にも必ず届いているはずだ――エドワードの名が、今までとは違う重みを持って響き始めていることを。
陽の光が一切差し込まない、蝋燭の灯りだけが揺れる――いつもの部屋。
だが今日は足取りが重い。
姫君になんと弁明すればいい?
その答えが見つからぬまま、俺はいつもの席に腰を落とし、頭を抱えた。
「――パドル、どうしたんだい? そんな顔をして」
耳に届いたのは、いつもの甘ったるい声。
明らかに俺をからかっている声音。言うまでもなく、パームだ。
顔を上げて睨みつけると、パームは大げさに肩をすくめ、わざとらしく笑ってみせた。
「怖い怖い。そんなに睨まなくてもいいじゃないか」
……本当に虫唾が走る。
「――パドル、君。レン様を怒らせたんだって?」
軽薄な笑みを浮かべ、愉快そうに告げる。
胸の奥に苛立ちが燃え上がり、思わず声を荒げた。
「……うるさい!」
その瞬間――。
「――あなたが、うるさいわ」
空気を裂くような声が響いた。
背筋が凍る。
この声――間違いない。仮面の姫君だ。
薄い天幕の裏に佇む姫君。
その表情は相変わらず窺えない。だが――声に宿る怒りだけは、はっきりと伝わってきた。
俺たちは慌てて立ち上がり、礼を取る。
だが、挨拶もなく放たれた言葉に胸が凍る。
「――パドル。レン様を怒らせたとは、どういうことかしら?」
背筋が跳ねた。
隣で面白そうに口元を歪めるパームに、思わず舌打ちを漏らす。
「……パドル?」
再び名を呼ばれ、心臓が暴れる。
な、なんと言えばいい……?
どう言えば許される……?
喉が渇き、舌がひりつく。
「……はぁ」
姫君の深く呆れたようなため息が、静かな部屋に落ちる。
その音だけで、肩が震えた。
「……もういいです。あなたには失望しました。次は――」
次の言葉が続く前に、俺は咄嗟に叫んでいた。
「お待ちください!!」
必死に声を張り上げる。
「確かにレン様は怒りました。ですが――あれは私にではございません! あれは……そう、あれは……!」
周囲を見回し、蝋燭の灯りに浮かんだ一人を指差した。
「――あいつが、エドワードのことを口にしたんです!」
指された男子が怯えたように目を泳がせる。
だが知ったことではない。
俺は悪くない。そうだ、俺は悪くないのだ。
「だから――!」
「――だから、何?」
姫君の声が鋭く割り込む。
「その場に“あなた”もいて、何もできなかったのでしょう?」
その一言が突き刺さり、胸が締めつけられる。
「……も、もう一度……チャンスをください!」
声が震えるのも構わず、必死に縋る。
「そうすれば必ずや、レン様の怒りを鎮め、姫君のご意向どおりにいたします!!」
策など何一つない。
それは誰よりも、自分が一番わかっている。
だが――この機を逃せば、今まで積み上げてきたものは水泡に帰す。
だから俺は、ただ必死に、喉が裂けるほどに言葉を絞り出した。
しばしの沈黙のあと――
天幕の向こうから、姫君の澄んだ声が響いた。
「……そう。では、期待しているわ」
その言葉に胸をなでおろしたのも束の間、冷ややかな声が続く。
「でも――もし失敗すれば、わかるわよね?」
「……っ、はい」
喉が詰まり、絞り出せたのはその一言だけだった。
「エドワード様」
突然の名に、心臓が跳ねる。思わず目を見開いた。
だが姫君は、俺の狼狽など意に介さず続けた。
「エドワード様も、今や学園の王子を飛び越え、とても素敵な王子になられたわ」
――まるで、恋い焦がれる相手を語るように。
その声音に、胸の奥から苛立ちがせり上がる。
「……確かに家系も素晴らしい。レン様に引けを取らない地位と名誉をお持ちですもの」
一呼吸おいて、声の温度が冷たく下がる。
「でも、所詮は“貴族”。レン様の血筋と地位を考えれば……二番手でしかない」
その言葉には、揺るぎない確信が込められていた。
「だからまずは――レン様を手に入れなくてはならないのよ。……わかるでしょう、誓約を交わした紳士たち?」
一斉に、部屋の空気が沈んだ。
「はい、姫君」
全員が頭を垂れ、その声が重なる。
俺も慌てて頭を下げながら、ふと天幕に映るシルエットを見た。
そこにあるはずのない“歪んだ笑み”が、確かに浮かんで見えた気がした。
ぞくり、と背中を悪寒が走った。