生き残る術
あの時――なんて言えばよかった?
いや、どう見ても……。
そう思考がぐるぐる巡る中、甘ったるいパームの声が俺の耳を打った。
「まぁ、あの勝負、誰が見てもエドワードの勝利だよね」
思わず手が止まる。
「きっと無自覚だろうけど、エドワードはレン様が頭で剣を振るより早く、喉元を突けていた。けど……木剣は破損。破損した剣先は鋭くなって危険だ。だから彼は途中で止めたんだ。――あれ、レン様に“勝てた勝負”なのにね」
にやりと笑うパームに、嫌気が募る。
そんなこと――説明されなくてもわかっている。
あれはルール上、レン様の勝利。だが実際には……エドワードの勝ちだ。
パームは続ける。
「しかも、彼はすぐに負けを認めた。普通なら恥なのに、潔く認めたせいで人気はさらに跳ね上がった。最近は“学園の王子”に磨きがかかって――学園を飛び越えて、“王子以上の王子”なんて言われてる」
ふっと肩を揺らし、悪戯っぽく言葉を落とす。
「これじゃ、本物の王子がどっちかわからないね」
「――おい!!それは言うなッ!!」
思わず声が荒れる。
その瞬間。
「……騒がしくってよ」
凛とした声が場を切り裂いた。
俺たちが座る前に、すっと薄い天幕が降ろされた。
その向こう側に――仮面をつけた我らが姫君の姿。
姿は決して見えない。ただ、光に映し出されたシルエットだけがそこにある。
全員が息を呑み、すぐに立ち上がって礼を取った。
俺も慌てて頭を下げる。
「これはこれは、麗しい姫君。いつからそこに……?」
媚びるような甘い声を出したのは、やはりパームだった。
その瞬間、天幕の向こうから凛とした声が響いた。
「――あなたがレン様を貶していたところからよ」
場の空気が凍りつく。
だがその声に怒気は含まれていなかった。
安心したのか、パームはなおも軽やかに言葉を続ける。
「それは誤解です、姫君。私は事実を述べただけ。皆が噂していることを口にしたまでで」
シルエットがわずかに揺れた。
次の瞬間――まるで興味を失ったかのような、平坦な声が落ちる。
「……まぁ、いいですわ」
安堵が胸をよぎった、その直後だった。
「ですが――」
声色が一変する。
「最近、レン様が私を見てくださらないの。……どういうことかしら?」
怒気を帯びた強い声が、天幕越しに突き刺さった。
何も答えられずに沈黙する俺たちに、姫君の声が響く。
「――聞いているのよ? ……ねぇ、パドル?」
名を呼ばれ、ゴクリと唾を飲む。
「……申し訳ございません」
かすれた声でそう言った瞬間――
パァンッ!
姫君がセンスを広げた。
乾いた音が部屋に響き、数名の肩がびくりと揺れる。
「……あらあら。怖がらせてしまったかしら?」
仮面越しに微笑んでいるかのような声。だが、その余裕がかえって恐ろしい。
再び名を呼ばれる。
「パドル」
「……は、はい」
情けなく掠れた声しか出ない。
「私は謝罪が欲しいわけではないの。――ここに長くいるあなたなら、わかるはずよね?」
「……はい」
必死に頷くと、次の瞬間、鋭い声が突き刺さった。
「ならば――どんな手段を使ってでも、早く行動してちょうだい」
最後に念を押すように低く囁かれる。
「わかったわね?」
「……はい」
答える以外の選択肢はなかった。
「――それでは、期待しているわ」
仮面の姫君は、そう言い残して背を向け、部屋を後にした。
期待――その言葉が、首に縄をかけられたように重く響いた
部屋に重い沈黙が落ちる。
「くそっ、何でこんなことに…!」と叩きつけた手にテーブルが軋み、置いてあったカップが揺れて紅茶が縁から零れた。だが、それを拭う余裕はない。
やっとここまで来た──もう少しで俺の番だった。だが、このままではまずい。なんとかしなければ。家の存続のために、俺には“女”が必要なんだ。
苛立ちを抑えきれず、パームに詰め寄るように声を張る。
「パーム、お前はどうするつもりだ?」
返事はない。視線を泳がせ、もう一度――「おい!!パーム!!無視すんじゃねぇ!」と声を荒げ、後ろを見たがパームの席はすでに空っぽだった。
怒りが身体を走る。思わずテーブルを蹴り飛ばし、床に響く鈍い音だけが残った。
俺たちの役割はシンプルだ――レン様を持ち上げ、気に入られることで情報を得る。姫君をレン様の側へ近づけるための“橋渡し”をして、見返りに姫君から女を紹介される。
それは表向きは名誉ある縁談だが、実際には密室での取り決め、既成事実を作らせるための手順に過ぎない。
この国ではそういうやり方は重罪に相当するが、現実には訴える女がほとんどいない。名声と権力が後ろ盾にあれば、被害は揉み消され、当人たちは知らぬ顔で日常に戻るだけだ。相手の女の親も手を貸している。権力の網の中で、正義は簡単に踏み潰される。
次にその“紹介”が回ってくるはずだった。
順番は決まっていて、報酬も既に見据えられていた。
俺の立場──家の存続、体面、未来──はそれにかかっている。
貴族としてのプライドも、家を守るための切実な欲望も、全部その一件で満たされるはずだった。
だが、そこで奴が現れた。エドワード・セレスティア。
何もかも持っている男。
父は有名で名高い、母は歌姫という血筋。
容姿に秀で、知恵も才覚もある。
女のひとりやふたり、彼の前には群がるだろう。だがあの男は――知らぬ間に、俺たちの槍先を狂わせた。
あいつがいなければ、俺の人生は違ったはずだ。あいつがいなければ、レン様の目を引く必要がない。姫君の関心を逸らすための演技に必死になることもない。俺は今よりも尊厳を保てただろう。だが現実は残酷だ。家の名誉は脆く、結婚相手を得られなければ家は転げ落ちる。俺の家は、女の生まれなかった血筋の宿命を背負っている。だからこそ、この“順番”は俺の命綱だったのだ。なのに、あいつは何の気兼ねもなくすべてを奪っていった――奴の存在そのものが、俺の未来を蝕んでいるように思えた。
怒りはやがて黒い焦りに変わる。公平さを叫んでも、世界は平等ではない。身分も、顔立ちも、運も、既に配られているカードだ。俺が持つべきは堪え忍ぶ強さではなく、何らかの“手”を打つことかもしれない。だがその“手”が何なのか、今はまだわからない。
ただ一つ確かなのは――あいつがいる限り、俺の番は遠ざかるという事実だ。それが悔しくて、情けなくて、そして何よりも恐ろしい。
まずはレン様だ――。
レン様から何か情報を引き出せば、それだけで時間稼ぎにはなる。
情報次第では姫君も満足し、次は俺の番が回ってくるだろう。
そう思い、俺はいつものよう取り巻きを引きつれレン様に近づいた。
「おはようございます、レン様」
いつもと変わらぬ微笑み。だが、その奥に潜む冷たい視線は隠せていなかった。
……気にしている余裕はない。
「最近は鍛錬に励んでおられるとか」
恐る恐る切り出すと、レン様は小さく頷いた。
「あぁ、そうだな。私もまだまだだから」
「何をおっしゃいますか! レン様は十分お強いではありませんか!」
俺は慌てて返し、取り巻きどもも同意するようにこぞって頷く。
だがレン様は、微笑みを崩さぬまま静かに言う。
「そんなことはないよ」
……その言葉に苛立ちが募る。謙虚さを装いながら、内心どれだけ余裕を持っているのか。
その時、取り巻きの一人が声を上げた。
「あれは……エドワードでは?」
視線を向けると、窓の向こうでエドワードが木剣を手に、あの野蛮なバスク講師と何やら話し込んでいた。
レン様もまた、ちらりとその姿を見やった。
……やばい、この話題は避けるべきだ。
だが――よりにもよって取り巻きの馬鹿が言った。
「レン様に負けてから、エドワードはバスク講師を“師匠”と呼び、鍛錬を積んでいるそうですよ」
レン様は短く、「そうか」とだけ返す。
それを良いと勘違いしたのか、取り巻きは得意げに続けた。
「ですがバカですよね? いくら鍛錬したところで、レン様には敵いません」
レン様の目が、すっと細められる。
「……バカとは?」
取り巻きは気づかず、自慢げに畳みかける。
「だってレン様は学業も武芸も、誰にも敵いませんから!」
「そうかな?」
レン様の問いに、取り巻きは即答した。
「もちろんです! レン様は学園一の存在です!」
レン様はふいにこちらを向き、俺を射抜くように見据えた。
「君もそう思うかい?」
「っ……は、はい!」
反射的に頷いてしまった。
だが次の瞬間、レン様の声色がわずかに低くなる。
「そうか。しかし――実際、私は学業でも武芸でも“一位”ではない」
「そ、それは……!」
言葉が詰まる。どう答えれば正解なのか分からない。
沈黙を破ったのは、別の取り巻きだった。
声を潜めて、どこか得意げに囁く。
「実は……一部では噂がございます。上位にいる者たちは皆、裏で手を回しているのだと」
レン様の紅の瞳が細められる。
「……ほぅ。それは興味深い」
その声音に、背筋がぞわりと凍った。