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春を謳う  作者: 葵
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始まりと墜落

師匠が低い声で告げる。

「いいか? レンの攻めは“一撃”を狙ったものだった。攻めにも種類があるが、あいつは“攻めの中の攻め”だ」


その言葉に、思わず背筋が震える。


「だが守りは違ぇ。守りながら攻めることができる。つまり――守りができるやつは、攻めるやつより強い」


鳥肌が立った。

その一言が、胸の奥に深く突き刺さる。


師匠はわずかに口角を上げ、続けた。

「……まっ、その分、技術も体力も忍耐も知識も、その他諸々が必要だがな?」


「……っ」

思わず下を向きかけたその時、師匠の鋭い声が飛ぶ。


「下を向くな!」


片手を上げ、指先でほんのわずかな隙間を作る。

「いいか、この数ミリだ。ここからじゃ見えねぇほどの差だが――その数ミリを諦める奴は多い」


拳のように重い言葉が、胸に叩き込まれる。


「だが、お前はそれを掴もうとしている。――わかったか!」


「……はい!」

全身の血が熱く沸き立つのを感じながら、俺は返事をした。


師匠は満足げに鼻を鳴らす。

「よし、なら今日は終いだ。また明日な。……家に帰って風呂入って寝ろ!」


その背中が稽古場を出ていく。

俺は深く頭を下げ、声を張った。

「ありがとうございました!」


急いで片付けを終えると、馬車へと駆けた。


外はすでに暗く、馬車の扉を開けると、そこにはすやすやと眠るフィリオの姿があった。

その寝顔を見た途端、張り詰めていた肩の力が抜ける。御者に声をかけ、馬車を走らせた。


しばらくして、フィリオが目を覚ます。

俺の顔を見た途端、ぱちりと目を見開いた。

「兄さん、その顔……!」


窓に映る自分を確かめると、頬に薄い切り傷と土の汚れが残っていた。急いできたせいで気づかなかったのだ。

「大丈夫だ」そう言うと、フィリオは安心したように微笑み、今朝と同じ言葉を口にする。

「……なんだか、兄さん楽しそう」


思わず笑い合い、そこからは他愛もない会話をしながら家路についた。


屋敷に戻ると、夕食の前に泥で汚れた衣服を着替え、顔を洗う。

ほどなくして父様が帰宅し、俺の顔を一目見て笑った。

「その傷、まるで勲章だな」


その言葉に胸が温かくなる。


夜――。

ロスの言葉を思い出し、今日は休息を取ることにした。

師匠の言葉通り風呂に入り、ベッドへ身を沈める。


目を閉じると、今日の稽古の光景がまざまざと蘇る。

だが、疲労に包まれた身体は、次の瞬間には深い眠りへと落ちていた。


日中は変わらず講義を受けた。

あの日チルド講師に言われた言葉が胸に残っている。

――紳士として、剣だけでなく学問も磨かなければならない。

剣の稽古を優先して学業が下がるようでは、本末転倒だ。


だから俺は講義の時間も手を抜かない。

だが放課後になれば――迷わず師匠の元へ足を運んだ。


稽古場では「守りながら攻める」修練が続く。

守りの型を増やし、相手の隙を探り、そこから自分の攻めに転じる。

その繰り返しを、次の日も、その次の日も……ひたすら身体に刻み込んでいった。


ある日の放課後。

いつものように稽古場へ行くと、師匠はぶっきらぼうに紙を一枚突き出してきた。


「……なんですか、これ」

受け取って広げると、大きく殴り書きされた文字が目に飛び込んできた。


――【毎日の日課】


そこには、師匠らしい荒っぽい筆跡で、練習メニューがびっしりと並んでいた。

走り込み、スクワット、腕立て、素振り、腹筋……さらには“朝一杯の冷水を浴びろ”といったものまで。


「……本当に細かいですね」

思わず苦笑いを漏らすと、師匠は顎をしゃくって言い放った。

「それを毎日やれ! 時間はいつでもいい。ただし――怠るな!」


「……はい!」

思わず背筋が伸びる。


さらに師匠は続けた。

「そして放課後は必ず俺のところに来い。今日からが“本当の指導”だ」


その瞬間、胸の奥で何かが熱く灯った。

レンとの手合わせ――あれはこの日のための“始まり”だったのだ。


もう迷わない。

レンを気にして不安になることもない。

周囲が向けてくる視線や言葉に振り回されることもない。


ただ、自分の理想と、守るべき大切な人のために。

俺は再び、真っ直ぐ前を見て歩き出していた。


――だから気づけなかった。

周りのことも、レンのことも。


ーーーーー


あのレン様との手合わせ以来――いや、もっと前からだ。

そう、王宮に呼ばれたあの時か? だがあの頃のエドワードにはまだ困惑と怯えがあった。

違う、やはり決定的なのは……あの瞬間だ。


馬車通りで一人、俯いていた彼が――ふと顔を上げ、前を向いた時。

あれを境に、確かに何かが変わった。

しかも、それは決して“良い方”ではない。


カチャン、と音を立ててカップを置いた。

視線を上げて睨むと、名前も知らない新入りが小さく悲鳴を上げる。

なんとも不恰好で、思わずため息が漏れた。


「……そう苛立つな、パドル」

横から声をかけてきたのは、にこやかに笑う顔――鼻につく奴だ。


こいつは……確か一か月前に入ったパームとか言ったか?


「俺は、別にお前にイラついてなどいない」

冷たく返すと、パームは「それは失礼」と軽く肩を竦め、

貴族の女子から“甘い顔”と評される表情で、悪びれもせずに言った。


苛立ちを飲み込み、俺は話題を変える。

「あのお方は?」


パームは大げさに肩をすくめる。

「さぁ? レン様でも見に行ってるんじゃないか? 今はAクラスの稽古中だろう」


レン・クラリッサ。

この国の第一王子にして王位継承権第一位。

隙のない完璧な立ち居振る舞いと、令嬢たちからの熱い人気を一身に集める存在。


――あのお方もまた、未来の妻を夢見ている。


その名を聞いた瞬間、胸の奥に再び苛立ちがこみ上げた。

パームは気付いているのか、いないのか――わざとらしく続ける。


「それとも……最近人気が上がってきている、エドワード・セレスティアかもしれないね」


エドワード。

父はレン様に並ぶほどの地位を誇り、母は“世界一の歌姫”。

それだけでも十分恵まれているというのに――

奴自身も整った容姿、冴えた頭脳を持ち、さらには“女”まで家族にいる。


……完璧な家族。


俺の家だって、女さえ生まれていれば。

そうすれば、こんな惨めな思いをせずに済んだ。


ただ“家族”と“財”に恵まれた男。

それが――エドワードだ。

今までは、何も問題はなかった。

あのエドワードは、誰にでも分け隔てなく優しく――確かに完璧だった。

だが同時に、誰とも深く交わらない男だった。

令嬢たちに声をかけることもなく、友を作ろうともしない。


……だから“無害”だった。


レン様にとっても障害ではなく、ただ同じ学び舎にいるだけの存在。

深く関わることもなく――そう、そのはずだった。


それなのに――。

理由はわからない。

だが――あのレン様が、エドワードを王宮に呼んだのだ。

俺でさえ呼ばれたことのない、王宮に。


それだけじゃない。

次の日には、レン様自らがエドワードに手合わせを申し込んだ。


……あれは手合わせなんて言葉で片づけられるものじゃなかった。

お互いが真剣で、刃の音一つひとつに何かを賭けているようだった。

剣を交わすその一瞬ごとに――まるで、二人だけにしか通じない何かを分かち合っているように見えたのだ。

そして、あの日を境に、俺の日常は変わった。

レン様はもう、俺に見向きもしなくなった。


いつものように声をかけ、賞賛の言葉を述べても。

返ってくるのは、あの柔らかな笑顔。

……だが、その目の奥は冷たい。


あの手合わせのことだって、そうだ。

周りの連中がエドワードを称賛する中で、俺たちは声を揃えた。

「勝利おめでとうございます。ですが、レン様にとっては容易なことだったでしょう。あの一撃一撃、痺れるようでした」


その時だった。

レン様の口から返ってきたのは、聞いたこともない冷たい声音。


「……君は、あの勝負を本当に見ていたのか?」


目が合った瞬間、背筋が凍りついた。

あの赤い瞳――笑顔の下に隠されていたものは、鋭い刃そのものだった。


慌てて言い返す。

「も、もちろんです。どう見てもエドワードの負けだったと……」


だがレン様は薄く笑い、吐き捨てるように言った。

「――だったら君たちは目隠しをして、チルド講師の勝利宣言だけを聞いていたんだな」


……何も言えなかった。

唇は乾き、胸は焼けるのに、目だけはあの紅の瞳から離せなかった。


そんな俺を一瞥し、レン様は口元にだけ笑みを浮かべて言った。

「失礼するよ」


そして背を向け――去っていった。


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