まだ届かない
俺は休憩時間のわずかな間も無駄にせず、今日の稽古を思い返してノートに書き込んでいった。
受けた衝撃、崩れた型、そして師匠の言葉――すべてを記録し、次に活かすために。
放課後、まずはフィリオを探し、いつもの馬車通りへ。
すぐに見つけて事情を説明し、「先に帰ってほしい」と告げた。
だがフィリオは首を横に振る。
「僕も完成させたいんだ」
そう言って見せたのは、手にした五線譜。音符がびっしりと並んでいる。
俺は思わず笑ってしまった。
「……わかった」
そう短く答えると、弟を馬車に残し、急いでバスク師匠の元へと走った。
俺は扉を叩いた。
「――おせぇ!」
中から怒鳴るような声が返る。
思わず口元が緩みながら、「失礼します」と告げて部屋に入った。
バスクは椅子にどっしりと座り、顎をしゃくって目線で隣の椅子を示す。
促されるまま腰を下ろすと、師匠は腕を組んで俺を射抜くように見据えた。
「……で。何がわかった?」
重い声に背筋が伸びる。
俺は深呼吸を一つして、言葉を紡いだ。
「ただ“受け流す”だけじゃ足りないと思いました。
剣を流すなら、相手の“剣線”そのものをずらさないといけません。
師匠に受け流された時、身体の重心ごと揺れて……狙っていた場所と違うところに剣が勝手に振られました」
口に出しながら、昨日から胸に燻っていた感覚が形を成していく。
「今朝までは……右から来れば右、左から来れば左で受けるのが悪いと思っていました。
けれど違う。要は“受け方”なんです。
真正面で受けるのは論外ですけど……角度をつけて、“流す”ことで――」
言葉が途切れる。
どう表現すればいいか迷ったその時、バスクの口元が面白そうに吊り上がった。
俺は言葉を探し、必死に続ける。
「……角度を殺して、自分の元へ入れ込む。そうすれば……」
「いいぞ」
短く割り込む声。その響きに、胸の奥が熱くなる。
バスクがさらに問う。
「――隙はどこにあった?」
俺は息を呑み、正直に感じたことを言葉にした。
「……踏み込みの時です。
速く前に出るために、どうしても体重を足に乗せて振り切らないといけない。
その瞬間、剣は速いのに……“戻り”が鈍くなる。
自分の身体が、一瞬遅れたように感じました」
思い出すたび、腕の痺れや体の揺れが蘇る。
「それと……終わりの瞬間です。
攻撃を止める時、必ず足を止めて踏ん張ってしまう。
それで一瞬……硬直が生まれる。
もちろん、これは俺がまだ慣れていないせいもあるんですが……」
そこまで言って顔を上げると、バスクの口角が鋭く吊り上がっていた。
「そこまで考えられりゃ、今日は上出来だ」
低い声が、稽古場の空気を震わせる。
「要は――“受け”だけじゃねぇ。“崩し”と“奪い返し”を身体に叩き込めってことだ」
その言葉に、胸の奥で何かがはじけた。
「……“受け”は最初からわかっていました。
けど、“崩し”は相手の隙を見抜かなきゃできない。
“奪い返し”は、崩した上で自分の流れに持ち込むこと……」
声に出すと、はっきりと意味が腑に落ちていく。
バスクは鼻を鳴らし、鋭い眼光を俺に突きつけた。
「頭でわかってても身体が動かなきゃ意味はねぇ。――次はやってみろ」
その瞬間、俺の体は自然と立ち上がっていた。
「はい!」
バスクが立ち上がり、扉の方へ歩く。
その背中は迷いなく、ただまっすぐで。
「行くぞ」
俺は返事をし、木剣を握り直す。
自分の考えが正しかったと証明するために
稽古場に着くと、師匠と今朝のように向かい合った。
ただ違ったのは、師匠が口にした一言だった。
「――守って、攻めてみろ」
その声音に迷いはなかった。
「はい!」
木剣を握り直すと同時に、瞬く間に師匠が迫る。
「ッ!」
振り下ろされる一撃をなんとか受け止める。だが――。
「また正面から受けてるぞ!! 力を入れるな、逃すんだ!」
吠える声と同時に、休む暇なく次の打ち込みが襲いかかる。
「おい! 疲れた顔をするのが早い!!
打つ俺より、守るお前が先に疲れてどうする!
考えろ! どうやって流すか! 最初から“受け”はわかってたんだろうが!」
次々と叩き込まれる木剣。
師匠の言葉は挑発に近い。
だが、その煽りに心が揺さぶられ、乱れが広がっていく。
――その瞬間、師匠の低い声が突き刺さった。
「俺の言葉ばかり気にして、周りが見えてねぇ。
お前の“今いる場所”は、そんなに狭いか?」
「……狭い?」
言われてはっとする。
狭いんじゃない。違う――狭めているのは俺自身だ。
身体の使い方、視野の取り方、全部が縮こまっていた。
呼吸を整える。
深く吸い、吐き、肩の力を抜く。
弾くんじゃない。流すんだ
師匠の木剣が振り下ろされる。
その瞬間、力を抜いた腕が自然と剣をずらし――
重い一撃が、わずかに外れた軌道を描いて滑り落ちていく。
「……っ!」
剣が手から弾かれない。
衝撃は、ある。だが今までのように痺れるほどではない。
流した。受け止めたんじゃない――流せたんだ。
師匠の口元がにやりと吊り上がった。
「――そうだ、それだ」
肯定の声。しかし次の瞬間、鋭い眼光と共に木剣が振り下ろされる。
「だが……まだ甘ぇッ!!」
「くっ……!」
俺は慌てず、先ほど掴んだ感覚を忘れぬように受け流す。
木剣の衝撃が滑るように抜けていく――だが、その余韻に浸る間もなく声が叩きつけられる。
「流しているだけじゃ、いずれ攻めが勝つぞ!
俺は“守り”だけを教えてるんじゃねぇ! 思考を止めるな、次を考えろ!!」
分かっている。
このままでは、いずれ力で押し潰される。
まだ覚えたての“流し”では持久戦も危うい。
「オラァァッ!! オラオラオラァッ! 俺はまだまだいけるぞ!!」
師匠の怒号が響き渡り、木剣が嵐のように襲いかかる。
「――ッ!」
必死に受け流す。確かに、流せば衝撃は散らせる。
数合、十合……気づけば、打ち込まれる数は減っていた。
だが――。
「……くそっ」
思わず声が漏れる。
「いいぞいいぞ! そうやって呻け!」
師匠の挑発が飛ぶ。
「お前は弱ぇ。俺よりもな!」
それは事実だ。
だが、だからこそ――負けるつもりはない。
狙え……隙を
呼吸を整え、意識を研ぎ澄ます。
受け流した瞬間、師匠の次の一手がわずかに遅れる。
――今だ。
「はぁっ!」
左から来た一撃を滑らせ、その勢いのまま胴へと打ち込む。
ガキィンッ!
胴を狙った一撃は、鋭い音と共に弾かれた。
腕に衝撃が走り、思わず後退する。
「……っ!」
悔しさに歯を食いしばったその時――。
「ほぉ……狙いは悪くねぇな」
師匠の低い声が響いた。
口元がわずかに吊り上がり、楽しげに笑う。
「崩しから奪い返し――今の一手で、それを狙ったんだろう?」
木剣を肩に担ぎながらも、鋭い眼差しで俺を射抜く。
「だが、まだ浅ぇ。俺を倒すには程遠い」
次の瞬間、バァンッ!と床を踏み鳴らし、再び木剣を構える。
「いいかエドワード。守って流すだけじゃ足りねぇ。
崩して奪い、そこから――自分の“勝ち筋”を叩き込め!」
言葉と同時に、再び剣が迫る。
先ほどよりも重く、速い。
だが胸の奥に、不思議と高揚が走った。
「……まだ、やれる!」
木剣を握り直し、俺は再び前へ踏み込んだ。
バァンッ!
師匠の一撃を受け流しながら、必死に考える。
「まだ俺の流れだ! お前の流れはどこにある!!」
師匠の吠える声が頭を叩きつける。
……俺の流れ……?
受けるだけでは、結局師匠の剣に呑まれてしまう。
なら――流し方を変えるんだ。
木剣を見つめる。
これまで俺は、常に木剣の中間より上で受けていた。
だがもし、それを“下”で流したら……?
「考えろ、考えろ!」
師匠の声が稲妻のように飛ぶ。
――そうだ。
剣と剣を当てる“位置”を変えるんだ。
より長く受け流せれば、その分だけ師匠の次の一手を引き延ばせる。
だが、それは俺も同じ……
互いに動きが遅れれば、勝機は掴めない。
なら――俺が先に動くしかない!
次の瞬間、体が勝手に動いた。
師匠の一撃を剣の中間で受け止める。
だが、そのまま剣先まで流さない。――途中で止めた。
「っ……!」
師匠の目が驚きに見開かれる。
その隙に、振り下ろす。
木剣が鋭く唸りを上げ、胴へと迫る――。
しかし、直撃の寸前で師匠の身体がふっと後退した。
床を強く蹴る音が響き、木剣は空を切った。
バスクの目が細まり、口角がぐっと吊り上がる。
「……やっと俺を下がらせたか」
今のは――剣を下で受け止め、流す途中で止めたからこそ生まれた反動。
ただ受けるのではなく、相手の力を逆手に取って逸らす。
“止め流し”……そんな言葉が頭に浮かぶ。
俺の考えがわかったのか師匠が鋭い声で続ける。
「だが今のは偶然だ。感覚を技に変えろ。いいか、止めるな――叩き込め!」
俺は木剣を握り直し、荒い息を吐いた。
胸の奥で燃える熱は、まだ消えていない。