理想の道
稽古場に足を踏み入れると、バスクがすぐ木剣を構える。
俺もそれに続き木剣を構えると、バスクが一言「――攻めろ」と低い声が響き、思わず足が止まる。
「……攻めろ?」
守り型が自分に合うと伝えたばかりだ。
なぜ今、攻めろと――。
戸惑う俺を見据え、バスクが鋭く吠える。
「考えるな! 早く来い!」
「……はい!」
迷いを振り切り、木剣を握り直す。指先に汗が滲み、力が入りすぎて掌がきしむ。
踏み込んで放った一撃――「ガキィンッ!」鋭い音と共に弾かれた。
衝撃が腕を駆け抜け、昨日の痛みが蘇る。
それでも歯を食いしばり、続けざまに斬り込む。
頭を狙えば弾かれ、その勢いで胴を狙っても受け止められる。
足を打ち込もうとすれば、一瞬、バスクの口元がにやりと笑みに歪んだ。
だが、その一撃すら木剣に弾かれ、体が反動で揺れる。
呼吸は荒く、肩が焼けつくように重い。
一撃一撃に力を込めるたび、腕は痺れ、足は鉛のように沈んでいく。
それでも剣を振る手は止められなかった。
バスクの剣がふっと動く。
「……っ!」本能が叫び、慌てて後退する。
「……なかなかいい目をしてるじゃねぇか」
低く笑いながら、バスクが構え直す。
「次で決めろ。覚悟を持って来い!」
全身の疲労が限界を告げていた。
だが――心はまだ折れていない。
俺は足に力を込め、踏み出す。
床を蹴り、正面から――全力の一撃を振り下ろした。
ガァンッ!
痺れが爆ぜるように腕を突き抜け、木剣が手から吹き飛ぶ。
次の瞬間、視界の正面には――バスクの剣先が突き付けられていた。
「……っ!」
喉がひりつき、思わず唾を飲み込む。
バスクは剣先を床に落ちた木剣へ突き立てた。
「……剣はそこだ」
俺はすぐさま拾い上げる。
その瞬間、低い声が飛ぶ。
「もう一度来い」
「はい!」
返事をするより早く、足は自然に前へ出ていた。
――何度も打ち込み、何度も弾かれ、何度も倒される。
木剣は幾度となく手を離れ、そのたびに床へ転がった。
けれど拾い、握り直し、立ち上がっては再び挑む。
時間の感覚は消え失せていた。
気づけば息は荒く、視界は滲み、全身は鉛のように重い。
だが耳に残るのは、師匠のただ一つの言葉――。
「攻めろ」
息は荒く、汗は視界を曇らせる。だが、それでも剣を振る手は止まらなかった。
その時――背後から鋭い声がした。
「……やはり、ここにいましたか」
振り返れば、姿勢正しく立つチルドがいた。
バスクが舌打ち混じりに吠える。
「邪魔すんじゃねぇ!」
だがチルドは眉一つ動かさず、冷静に告げる。
「いいですか? 今は別の講義の時間です。稽古は正式な講義か、放課後にしてください」
「講義だと? 今こいつに必要なのはこの稽古だ!」
バスクが俺を指差す。
チルドは小さくため息を吐き、こめかみに手を当てた。
「……あなたはやはり、どうしようもなく愚かですね」
「なんだとぉ!?」
バスクが一歩踏み出す。
だがチルドは一瞥だけを返し、俺に向き直った。
「エドワードくん、君はひとまず医務室へ行きなさい。そして通常の講義を受けるのです。稽古は放課後に」
「おい! 勝手に決めるんじゃねぇ!」
バスクが吠えるが、チルドは無視して続ける。
「いいですか? 剣の稽古が紳士に必要なのは確かです。ですが――他の学びもまた、君には不可欠なはずです。この意味、理解できますね?」
その最後の言葉は、俺ではなくバスクに突きつけられたものだった。
バスクは舌打ちをして、渋々俺に向き直る。
「……医務室に行ってから講義に出ろ。放課後、俺の部屋に来い。その時までに、今日の意味を考えとけ。いいな!」
「はい!」
俺は深く礼をし、木剣を抱えて稽古場を飛び出した。
医務室へ足早に向かい、診てもらおうと扉を押し開けた瞬間――空気が変わった。
ひやりと肌を刺す冷気に、思わず足が止まる。
……やってしまった。
ここは――第二医務室だ
忘れていた。だがもう遅い。
ここを任されているのは、ロス。
医師でありながら、選択講義で「魔術薬学」を教えている人物。
だが、その講義を選ぶ生徒はほとんどいない。
理由は明白だった。
彼は“若き天才”と呼ばれている。だが、同時に“不気味すぎる”とも囁かれていた。
正確な年齢は誰も知らないが、どう見てもまだ十代――それなのに醸し出す空気は、年齢に似つかわしくない異様な冷たさだった。
長身で細身。もじゃもじゃに伸びた黒髪が目を覆い隠し、かろうじて片方に掛けられた単眼レンズ付きの眼鏡から“目”があることが分かる。
身に纏うのは学園支給の白衣。
だがそこには、所々に「スカーレットブロッサム」の花模様の刺繍が施されている。
本来は華やかな意匠のはずなのに――金色の縁取りと深紅の花弁が、どこか血飛沫を連想させる。
ただ立っているだけで、背筋に冷や汗が走るような存在感を放っていた。
「……また、バスク君の生徒ですか」
俺がまだ何も言っていないのに、ロスは口元を歪めて呟いた。
不気味な笑みと共に、黒と紺で敷き詰められた部屋の中から声が響く。
「座ってください」
なぜか真緑色をした丸椅子に腰を下ろした。
「はい、止血はこれで良し……包帯は三日ほどで交換してください」
そう告げる声は医師そのもの。
素人の俺でもわかるくらいの速さで的確で無駄のない動きでいながらも丁寧な処置だった。だが、彼の視線はどこにあるかわからないのに皮膚を突き刺すように冷たい。
ロスは静かに言う。
「……いいですか。筋肉をつける、つまり強くなるには“適度な休息”が必要です。
バスク君も理解しているはずですが――第一に、あなた自身がそれを分かっていないといけない。
器が壊れたら……薬でも、医師でも直せませんよ」
「っ……」背筋に冷たい汗が流れた。
ロスはふふ、と笑う。
笑っているはずなのに、口の端が不気味に吊り上がっている。
「さて……例えるならば――こうです」
俺の目の前に手を突き出した。
ゆっくりと指を曲げて拳を握る。骨がきしむような音が確かに耳に届いた気がした。
「ぎゅう、と力を溜め込めば……」
パァンッ!
掌を一気に開く。
乾いた破裂音が室内に響き、光に照らされた手のひらは黒い影を帯びて揺らめいて見えた。
「――一瞬で、砕け散る」
くくっとロスは楽しげに微笑む。だがそれは冗談の軽さではなく、ただ冷酷な真実を語る笑みだった。
するとロスは机の引き出しをがらりと開け、中から一本のビーカーを取り出した。
中にはどろりとした黒い液体――しかし光に照らされると、不気味な緑色に怪しく輝いていた。
「……これ、飲みますか?」
目の前に差し出されるそれは、どう見ても“飲み物”とは思えなかった。
「……だ、だいじょうぶ……です」
喉が詰まり、かすれた声で答える。
ロスは残念そうにため息を吐き、再び不気味に口元を吊り上げた。
「そうですか。それは残念。これを飲めば、一瞬で疲労が回復するのですが……ふふふふ」
冷たい笑い声が部屋に満ちる。
礼を言って立ち上がり、扉へ向かおうとした時――背中に声がかかった。
「……バスク君の生徒なら、これからしごかれるでしょう。いつでも来てください」
扉へ手をかけた瞬間、背後から視線を感じて振り返る。
もじゃもじゃの髪の隙間から覗いたその瞳は――宝石のように美しいのに、ぞくりとするほど冷たかった。
思わず視線を逸らし、俺は扉を押し開けた。
外気が肌を撫でた瞬間、ようやく胸いっぱいに息が吸えた。
気持ちを落ち着かせ、講義へと向かう。
席に着くと、ちらちらとこちらを窺う視線がいくつも突き刺さる。
だが、そんなことは今さら気にする必要もない。
本当なら、先ほどの稽古を反芻したいところだ。だが、チルドが言ったように、紳士に必要なのは剣だけではない。
ハルナを思い浮かべる。
彼女はきっと今も様々な本を読み漁り、知識を蓄えているだろう。
その隣に立つためには、俺も剣だけでなく学びを重ねねばならない。
「……焦るな」
胸の中でそう自分に言い聞かせる。
剣は自分を、そして大切な人を守るためのもの。
だが知識は、未来を共に歩むための力だ。
放課後になれば再び木剣を握る時間がある。
それまでは、ここで学べ。
休憩時間に考えをまとめればいい。
そう言い聞かせ、俺は目の前の講義に集中した。
――俺の理想。
それは、ハルナを守り、この想いを貫くことだ。