弱き己に斬り込む
その後はいつものメニューをバスクと一緒にこなした。
見学に来ていた令嬢や他のクラスの貴族達も、皆バスクの一喝によって追い払われていた。
講義終了後、バスクが無言で俺の肩を叩く。
その一拍の重みが、熱い労いのように伝わってきて――不思議と胸が落ち着いていた。
学園を出て、馬車通りでフィリオと落ち合う。
もう俺とレンの手合わせの噂は、学園中に広まっているはずだ。
けれどフィリオは何も言わなかった。
ただ、いつものように俺を見つけると、ぱっと笑顔を見せて、小さく手を振ってきた。
その無邪気な仕草に、胸の奥の緊張がふっと溶ける。
俺も笑みを返し、自然と歩調を合わせて並ぶ。
何も言葉はいらなかった。
ただ弟と一緒に馬車に乗り込むだけで、肩にかかる重みがすっと軽くなるのを感じていた。
馬車の中では、いつものようにフィリオが五線譜に音符を走らせていた。
俺は窓の外を眺めながら、静かに過ぎていく街並みに心を落ち着ける。
言葉を交わさなくても弟の隣にいるだけで、不思議と気持ちが安らいでいく。
屋敷に戻れば、夕食の時刻までそれぞれの日課をこなす。
剣を磨き、身体を整え、机に向かって本を読む。
やがて、父様たちを出迎え、三人そろって食卓についた。
その瞬間だけは、剣の音も観衆のざわめきも遠く、ただ家族の温もりがあった。
食卓では、いつものように他愛もない話が飛び交っていた。
俺もその輪に混ざるように、何気なく口を開く。
「……今日、レン様に剣の手合わせを挑まれました」
父様とフィリオが、ふっと笑みを消して静かに耳を傾ける。
「結果は……負けました」
言葉にすると、胸の奥に重さが広がる。
――負けない、と父様に言ったのに。
――フィリオにもそう約束したのに。
今になって悔しさが募り、心の奥がざわついた。
その時、フィリオが小さく首を振る。
「……僕ね。兄さんに“勝ち負けは関係ない”って言ったけど……やっぱり悔しいって思ったんだ」
驚く俺を見上げ、弟は続ける。
「でも、兄さんは逃げなかった。それが僕には、すごく大事なことに思えたんだ」
言葉を失った俺の横で、父様が深く頷いた。
「――エドワード、よくやった」
その言葉に胸が温かくなりかけた瞬間、父様の声が鋭さを帯びる。
「だが、覚えておけ。負けを悔しむだけなら誰でもできる」
重い言葉が食卓の空気を引き締めた。
「その悔しさをどう使うかで、人は決まる。お前がそのまま立ち止まれば、今日の負けはただの敗北だ。だが進むのなら――今日の負けは必ず明日の糧になる」
父様の瞳はまっすぐで、逃げ場がなかった。
「エドワード。悔しさも弱さも全部抱え込め。それを力に変えられる者だけが……本当に強くなる」
そして父様はにかっと笑った。
「まだ始まったばかりだろう! 一敗がなんだ! これからがあるじゃないか!」
豪快な声が響き、食卓の空気が少し緩む。
「まずは――フィリオの言った通りだ。エドワードは逃げなかった。それが何より大事だ」
父様は隣に座る弟へと視線を向ける。
「なぁ、フィリオ」
「うん!」
フィリオは勢いよく頷いた。
俺は、負けた悔しさを胸に抱えながらも、そんな自分を認めてくれる二人が誇らしくて――なんだかうまく笑えなかった。
父様は俺の話を静かに聞き終えると、低い声で言った。
「エドワード、今回お前は負けたが……勝機は確かにあった」
「……え?」思わず顔を上げる俺に、父様は続けた。
「よく思い出せ。レン様の攻撃の型はなんだ?」
「……攻め型、でした」
「そうだ。だが“攻め型”にも細かい種類がある」
俺はあの最初の一撃を思い出す。木剣がぶつかった瞬間、腕に痺れが走った。
「……あれは、一撃で仕留めようとしていた」
父様が力強く頷く。
「そうだ。そして――そんな力が長く続くと思うか?」
俺は首を横に振る。
「それにな、お前は“痺れた”と言っていたな。あれほどの力を振るえば、必ず“隙”と“疲労”が生まれる。
ただ受けるだけじゃない。受け流し、相手の力を利用して崩すことを考えろ。お前にはそれができる」
言葉が胸に刺さる。父様はさらに続けた。
「レンの挑発もそうだ。あれは守り型のお前を攻めに転じさせるためだ。お前は『挑発にのらなかった』と言ったな? だが実際は……乗ったからこそ勝機を逃した」
「……!」息を呑む。
「逆に言えば、もし型を崩さなかったら――どうなっていたと思う?」
答えを探そうとする俺を制するように、父様は言い切った。
「答えは自分で見つけろ。そして止めるな。頭で考えるだけじゃなく、身体に刻むんだ」
俺はいてもたってもいられず、勢いよく席を立った。
「ありがとう、父さん!」
思わずそう叫び、隣にいるフィリオの頭を軽く撫でる。驚いたように瞬きをする弟に笑みを残し、すぐさま自室へと向かった。
背後から父様の豪快な声が響く。
「ははっ、夜は程々になー!」
「はい!」と返事をしながら、胸の奥は高鳴り続けていた。
部屋に飛び込み、練習着に着替える。手がわずかに震えているのは興奮のせいか、それとも悔しさの余韻か。木剣を握りしめた瞬間、心臓の鼓動が落ち着き始める。
庭に出ると、夜風が頬を撫でた。
静かな星空の下でも、稽古場の喧噪はまだ耳の奥で残響のように鳴り続けている。
――受け流すだけじゃなく、相手の力を利用して崩せ。
――挑発に乗るな。型を崩すな。
父様の声が胸の奥で繰り返される。
俺は木剣を構え、振り下ろした。
「ハッ!」
空気を裂く音が夜の静けさを切り裂き、手のひらにじんじんと痛みが広がる。だがその痛みは、生きている証のように心を奮い立たせた。
レンの剣を思い浮かべる。痺れるほど重い一撃、鋭い目つき、挑発の言葉。
受け流し、かわし、踏み込む――頭の中で繰り返しながら、木剣を振るう。
息は荒く、汗は頬を伝い落ちる。
それでも手を止めない。
今度は力を抜き、相手の重さを流し、崩すことを意識する。
振るうたび、わずかな感覚が体に刻まれていった。
もし、あの時型を崩さなかったら……
父様の言葉を反芻しながら、剣を握り直す。
受け続け、相手の体力を削っていれば……
夜空の下で木剣を振るう自分に、妙な澄んだ感覚が芽生えていた。
――負けはした。だが、それ以上に強くなれる確信がある。
俺は剣を振り下ろす。空気を裂く音とともに、脳裏に浮かぶのはひとりの少女。
――ハルナ。
胸に描いた理想、その中心にあるのは彼女を守るという想い。
彼女を護れる力があれば、たとえ何度負けても立ち上がれる。
その想いが、腕に、足に、心に熱を灯す。
「……まだ、俺は強くなれる」
独り言のように呟き、剣を振り上げた。
その一撃は、誰でもなく、弱い自分自身に叩き込むためのものだった。