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春を謳う  作者: 葵
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剣戟の幕開け

朝の光が、カーテンの隙間からやわらかく差し込み、部屋の空気を少しずつ温めていく。

規則正しかったフィリオの寝息がふと途切れ、かわりに小さな寝返りの音が布団を揺らした。


俺はゆっくりと目を開ける。

今日という日が、また始まる。

その現実を胸の奥で静かに受け止めながら、フィリオの肩まで布団を掛け直し、起こさぬようにそっと部屋を出た。


廊下に出ると、まだ家全体が眠りに包まれているように静かだった。

俺は深く息を吸い込み、準備へと向かった。


いつもの朝の日課をこなし、三人で食卓を囲む。

父様は食後に俺たちの頭を大きな手で撫で、「行ってくる」とだけ言って仕事へ向かった。

その背を見送るやいなや、フィリオが「あ、準備!」と慌てて部屋へ駆け込む。


やがて二人並んで馬車に乗り込み、学園へと向かった。


フィリオと二人、馬車から降りる。

周囲の貴族や令嬢たちの視線が一斉にこちらへ向き、ひそひそと噂話が飛び交った。

昨日の出来事が、もう学園中の話題になっているらしい。


俺とフィリオは自然に目を合わせ、少し笑って肩を並べる。

――もう下を向くことはしなかった。


学園の門をくぐり、フィリオと別れて自分の教室へ向かう。

席につくや否や、昨日も声をかけてきた貴族が勢い込んで話しかけてきた。


「昨日はレン様と何を話していたんだい?」

「いつ帰ったんだ?」

「レン様は……僕のこと、いや、この学園について何か仰っていたか?」


次々と繰り出される質問。

中には昨日、群衆の中でつまらなそうにこちらを見ていた貴族でさえ、興味津々で顔を寄せてくる始末だ。


俺は小さくため息を吐き、短く答えた。

「――おはようございます」


不意の言葉に、彼らは一瞬きょとんとしたあと、慌てて「……お、おはよう」と返す。

あぁ、そうだ。

まずは挨拶からだろう。


俺は続けて口を開いた。

「昨日は、レン様と妹についての未来の話をしたよ。お互いの考えをね。……ただ、詳しいことは言えない。レン様とのことだから」


そう言うと、彼らは納得したようなしないような顔で席に戻っていった。


残された静けさの中、俺は本を開く。

講義が始まるまでの間いつものように、ページをめくる音だけが机に落ちていた。


あれから昼を過ぎ、残すところあと一限。

今日が終わるまで、周囲はひたすら噂話に夢中で、俺に向けられる視線も絶えない。

だが――肝心のレンからは、まだ何の行動もなかった。


胸の奥に、少しの安堵と、拭えぬ困惑が渦を巻く。


何もなければそれでいい。

けれど、もし何か起これば逃げはしない。

たとえ矛先が家族に向かおうとも……俺たちは、家族で抗う。


そう自分に言い聞かせながら、俺は最後の講義である剣術の授業へと準備を進めた。


剣術は学年全クラス合同で行われ、実力に応じてAからEまでに分けられている。Aクラスに行けるのはほんの一握りで、レンもそこに名を連ねていた。

俺はB。

いずれはAを目指して試験を受けるつもりだが、今の俺は攻めが弱い。言い換えれば、受けが強い。


講師のバスクとは、最近自分の型についてよく話し合っている。攻めを伸ばすか、受けに特化するか。どちらにせよ、Aに上がるなら体力は不可欠だ。受け型は持久戦になりやすく、長く立ち続ける力が求められるからだ。


「タイムは確かに縮んできてるな」

バスクは手元の記録を見下ろしながら、低く唸った。

「だが、走り終わった後の息が整うのが遅すぎる。Aクラスの試験は立て続けに五人か、同時に五人との撃ち合いだ。今のお前じゃ三人で限界だ」


その言葉に俺は真剣に頷いた。


「……休憩がなくても、立って斬れ。それができなきゃ話にならん!」

言葉は厳しい。けれどその奥には、生徒を一人でも強く育てたい熱があるのが分かる。


「よし、まずは万全の状態でのタイムを測る。一周、全力で走ってこい!」

「はい!」


声を張って返事をし、俺は外周に飛び出した。


その時、見学に来ていた令嬢たちが小声でひそひそと笑う声が耳に入った。


「……あれがエドワード様?」

「昨日レン様と何か話していたって噂よ」

「でも結局、まだBクラスでしょう?」


「それにしても、またバスク講師? 声が大きくて耳が痛くなるのよね……」


バスクの眉がピクリと動く。次の瞬間、雷のような声が響いた。

「見物は構わん! だが稽古の妨げになるなら帰れ!」


びくりと肩を震わせた令嬢たちは、真っ赤になって口を閉ざす。

だがその場を離れはしなかった。目を逸らしつつも、真剣な視線をこちらに向けている。


バスクはそんな彼女たちにそれ以上は言わず、再び俺を見据えた。

「エドワード! 走れ! 剣を持つ者は、見られて恥じるな! 見られても揺るがない力をつけろ!」


その声に、胸の奥が熱くなる。

俺は大きく息を吸い込み、地を蹴った。


全力で走り抜け、一周目を終えた俺は、息を整えながらバスクのもとへ向かおうとした。

だが、Bクラスの稽古場に、人だかりができているのが目に入った。


Bクラスの人数は多くない。

今日は、いつになく令嬢たちが集まっていた。

剣の講義の見学に令嬢が来るのは珍しいことではない。けれど、彼女らのお目当ては決まって上級貴族かAクラスの実力者。

Bクラスを見物するなど滅多にないことだった。


しかも、集まっているのは令嬢だけではない。CやDの他のクラスの男子までもが顔をそろえている。

――どういうことだ?


怪訝に思いながら稽古場に足を踏み入れると、ざわついていた人垣がすっと割れた。

「……エドワード様よ」「来たわ」

令嬢たちの囁き声が耳に届く。

貴族の少年たちも何も言わぬまま、じっと俺を見つめてくる。


胸の奥に違和感を覚えつつも、気にしたところで仕方ない。俺はまっすぐにバスクのもとへと歩み寄った。


――そして、目にした。


Bクラスの講師バスクと、Aクラスの“変人”と呼ばれるチルド講師が、鋭く睨み合っている。

その傍らに、凛として静かに立っているのは、レン様だった。


「だから言ってるだろう! 正式な決闘は正式な場で! 書面を通してからにしろ!」

バスクの怒鳴り声が稽古場に響き渡る。


対してチルドは、落ち着き払った声で返した。

「ですから――決闘ではありません。“手合わせ”ですよ。言葉の違いもわからないのですか?」


「手合わせだぁ?」バスクは眉をひそめ、大きな腕を組む。

「だったらなおさらAクラス同士でやらせりゃいいだろ! なんでBクラスにまで持ち込むんだ!」


「ふっ……」チルドはわずかに鼻で笑い、顎を上げる。

「たまにはいいでしょう。ここにいる生徒は皆いずれAクラスを目指す。そんな彼らに、Aクラスが“直々に”手合わせを願い出る。これ以上の光栄があると思いますか?」


「光栄だぁ!? お前な……!」バスクは頭をかきむしりながら一歩踏み出す。

「いいか! 全員がAクラスを目指してるわけじゃない! 己の力を知り、磨くための場でもあるんだ!」


「はっ……あなたはいつもそうですね」チルドは肩をすくめ、芝居がかったため息を吐いた。

「理想論ばかり並べ立てて――その熱血ぶり、まるで汗臭い稽古場そのものです」


「なんだとぉ!?」

バスクの顔が真っ赤に染まり、声がさらに大きくなる。


言い合いは噛み合うはずもなく、稽古場の空気は妙に賑やかに。

この二人の衝突は学園ではもはや日常であり「名物」だった。

腕は互角、だが性格は真逆。真っ向からぶつかり合うたびに、周囲の生徒や令嬢までもが“見物”として集まってしまうのである。


二人の言い合いは止まらない。

熱く吠えるバスクと、涼しい顔で皮肉を返すチルド。周囲はざわめき、半ば見物の空気にすらなっていた。


――その時。


そんな喧騒を断ち切るように、レンが一歩前に出た。

静かに、だが迷いのない足取りで俺の前へと進み出る。


「……勝負をしに来た」


真っ直ぐに告げられたその言葉に、思わず息をのむ。

俺の拳は自然と握りしめられていた。

喉は乾ききっているのに、なぜか声ははっきりと出た。


「――喜んで」


礼をし、顔を上げた時には、笑みが浮かんでいた。


場がしんと静まり返った。

あれほど口角泡を飛ばして言い合っていた二人の講師でさえ、いつの間にか黙り込み、俺とレンを見つめている。


やがて、チルドがふっと鼻で笑った。

「……やはり、面白い」


その挑発に、バスクは苛立たしげに頭をがしがしとかき、棚から木剣を二本引き抜いた。

「ったく……しょうがねぇ」


ズシリと重みを感じる木剣を俺とレンの間に差し出す。


俺がそれを受け取ると、バスクはぐっと俺の肩を小突き、低く言った。

「受けたからには……手ェ抜くなよ」


熱を帯びたその声音に、自然と背筋が伸びる。

「――はい」


短く答えると、場の空気はさらに引き締まった。


俺とレンは静かに所定の位置に立ち、互いに正面から向き合った。

その一歩ごとに、ざわついていた周囲の空気が沈んでいく。先ほどまでの喧噪が嘘のように、稽古場全体が水を打ったような静けさに包まれた。


やがて、チルド講師がゆったりと歩み出る。

「では――私が合図を務めましょう」

落ち着き払った声で宣言すると、隣のバスクが無言で頷いた。


チルドは俺とレンの間に立ち、その視線をまっすぐに向ける。

凛と響く声が稽古場に広がった。

「今回は正式な決闘ではなく、あくまで“手合わせ”と致します。ルールは、このスカーレット学園の規定に則り行う」


彼の声は張り詰めた弦のように明晰で、一語一語が見守る者たちの耳へと重く落ちていく。


「勝利条件は、相手の身体への一打。

または、床への倒れ込み・剣の離脱・武器の破損など、試合の続行が不可能と私が判断した場合、その者の敗北とする」


観衆が息を呑んだ。

チルドはさらに続ける。

「両者とも、スカーレット王国の名に恥じぬよう、紳士的に戦われよ」


その言葉を聞いた瞬間、バスクが鼻でふっと笑った。

「……ま、そううまくいくかは知らんがな」


俺とレンは視線を交わし、合意の証として剣を縦に構え――互いに軽く一振りして礼を取った。

静寂を切り裂くように、二本の木剣が同時に空気を払う。


二人の仕草を見届け、バスクとチルドが同時にうなずく。

そして、チルドが一歩下がり、朗々と声を張り上げた。


「――始め!」


その声は稽古場の隅々にまで響き渡り、重苦しい静けさの中で、稽古場に張り詰めた緊張が、一気に刃へと変わる。

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