譲れないもの
レンは紅茶を一口含むと、ふっと笑みを浮かべた。
「そうか。なら今度は――君が僕に“教示”してくれないかい?」
意外な言葉に胸がざわつく。
だが表には出さず、平静を装う。
「……私がレン様に教示するなど、恐れ多いことでございます」
「何を言っているんだい」
レンは軽く首を傾けたが、その眼差しは鋭い。
「君は“学園の王子”と呼ばれている。成績も武芸も舞も優秀、最近は所作にも磨きがかかり、教師にも生徒にも慕われていると聞いた。王子以上の王子だと」
一つ一つの言葉が、針のように胸に刺さる。
けれど俺は冷静に答えた。
「そのようなことは噂にすぎません。今日もそれで皆が盛り上がっていましたし……私は自分を“王子”だと思ったことはありません」
「だが、嘘が真になることもある」
レンの声は冷たい。
「現に君の父――クラウス殿は“王よりも王”とまで言われている」
「それこそ戯言です」
声が鋭くなるのを自覚しながらも、真っ直ぐに返す。
「クラウス御父様は王を支えること、この国を支えることに誇りを持っていらっしゃいます」
「……そうだろうか。ならば立場を弁えるべきでは?」
「王は、誰が何を言おうと変わりません。そして御父様も信念を曲げることはありません」
レンは今度は静かに別の矢を放った。
「カスパル殿も――正義を求めるあまり、父が信頼していた者を断罪したと聞いている」
胸が揺れる。だが答えはすぐに決まった。
「……私は存じません。父は王宮での出来事を私や弟には一切話しませんから。ですが――父が正義を追ったとしても、それ以上に誠実さを国に示し続けています。それは必ず、今後の王のため、ひいては国のためになるはずです」
レンはカップを揺らしながら、ふと口を開いた。
「……ロミオ殿は元気かな。王宮でその才を発揮してほしかったが……残念だ」
挑発ではなく、惜しむような声音。
だが、その一言に含まれる重さを、俺は敏感に察した。
「ロミオ御父様は、今も音楽を愛し、人々の心に残る旋律を生み続けています。それはこの国の大きな財となるでしょう」
互いに一歩も引かぬ応酬。
紅茶の湯気が揺れるほどの緊張を和らげようと、スワードが茶を温め直す。
俺は礼を述べ、レンはわずかに笑った。
「君の妹君……確か、ハルナと言ったかな?」
その名を出された瞬間
――眉がわずかに動いた。
レンは見逃さなかった。
「今は二歳だったか」
「……はい」
「今年は会ったのか?」
「いえ……まだです」
「ふむ。にしても、ハルナ嬢は大変だろうな。これから」
握った拳に力がこもる。
レンの言葉は未来を先回りして断罪するかのようだった。
「これほどの完璧な家族のもとに生まれたなら……婚約や結婚の話が出てもおかしくはない」
「妹の結婚は――妹が決めることです」
即答に、レンは嘲るように笑った。
「本当にそう思っているのか? 理想はそうだろう。だが――本音は違うはずだ。
彼女は地位を強固にし、国はすでに彼女に注目している。
『女神として認定すべきだ』という声も、届いている」
胸の奥が熱を帯びる。
だが俺は深く息を吸い、真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「結婚も、女神認定も――すべては妹が決めます。家族全員、その思いは同じです。私は……ハルナの幸せを第一に願っています」
レンは目を細め、冷ややかに言い放った。
「――幸せとは、国のためにあるべきものだ」
少しの沈黙のあと、レンは冷ややかに口を開いた。
「……妹を君が、家族が“使わない”選択があるのかい?」
その言葉は問いかけの形をしていたが、実際には断言だった。
まるで――君たち家族は妹を駒にして、自分たちの地位や名誉を築こうとしている、と言わんばかりに。
それは、妹を大切にしている家族にとって、明確な侮辱だった。
胸の奥で何かが弾けた。
「――ふざけるな」
低い声が漏れる。
「家族は……妹は“使う”ものじゃない。道具でも飾りでも駒でもない。ハルナには心がある。セレスティア家の人形でも国の人形でもない。ハルナは……ただ、幸せを選ぶために生きている」
レンの瞳が揺れる。だが止まらなかった。
「高名な父? 才能ある弟? 世界一の母?完璧な家族? だから何だ。それは周りが勝手に言うだけだ。俺たちはただの家族だ。貴方にとっては“使い道”かもしれないが、俺にとっては守るべき大切な者だ」
息を荒げながら続ける。
「王子以上の王子? そんな肩書き、望んだこともない。これからも望まない。そんな名前に飾られるくらいなら、俺はただのエドワードでいい。肩書きに縋らず、家族をハルナを使うくらいなら――俺は俺の力で立つ」
声が震えた。
怒りと誇りと、どうしようもない熱に突き動かされて。
視線を逸らさずにレンを見据える。
ほんの一瞬、レンの瞳に揺らぎが走った。
羨望にも苛立ちにも似た影が。
「……っ、君は……そうやって言えるのか!」
レンの声も震えた。
「何も背負わず、守りたいと叫んで……それで通ると思うのか! 君は羨ましいよ、エドワード。まっすぐで、偽りがなくて……だからこそ苛立つんだ!」
「俺に苛立つなら俺に言えばいい! 家族を使うな。俺に勝負を挑め!」
レンは思わず立ち上がった。
「ふん……そんなことをしたら君は負ける!」
「勝ち負けは関係ない! これは俺とあなたの――プライドの問題だ!」
「なっ……それは逃げだろう!」
「受けた勝負に逃げなければ、それでいい!」
「……屁理屈だ!」
二人は互いに一歩も譲らず声をぶつけ合った。探り合う静けさは跡形もなく、むき出しの本音だけが残る。
やがて、俺は深く息を吐き、背筋を正した。
「……今日はこれで失礼します」
レンが驚く間もなく続けた。
「俺のことが気に入らなくても結構です。ですが、家族を口にすることだけは許さない。そして勝負なら、いつでも受けて立ちます」
そう告げると、レンに一礼し、さらにスワードへ深く頭を下げた。
「騒がしくして申し訳ありませんでした。紅茶とお菓子……ありがとうございました」
スワードは一瞬、目を見開いた。
普段は決して動じない王子付きの執事が、驚きを隠せない。
だがすぐに姿勢を正し、静かに深い礼を返してきた。
その様子を見届け、俺はドアに手をかけた。
「……おい!! 話はまだ終わってない!」
背後からレンの声が鋭く響く。
だが俺は、聞こえないふりをして、扉を押し開けた。
廊下を歩き、人の気配が途絶えた場所まで来ると、ようやく足が止まった。
「……やってしまった」
頭を抱える。
家族のことを言われても耐えに耐えた。
だが――ハルナを駒に使うような言葉を投げられて、冷静ではいられなかった。
我慢して聞き流すべきだったか?
だが、あの瞬間の俺に耐えられたとは到底思えない。
相手は王子。それも国王第一継承者。
俺の言葉ひとつで、影響が家族に及ぶ可能性は……ゼロではない。
もしフィリオやハルナに何かがあれば――。
思考は堂々巡りを繰り返し、胸の奥の熱と冷たい不安がせめぎ合っていた。
怒りか、困惑か、自分でも分からない。
その時だった。
「これは怒りの音かな? それとも、困惑の音かな?」
聞き覚えのある、優しく包み込むような声。
姿勢を変えられずにいる俺の視界の端へ、ひょいと伸びてきた指先が見えた。
頬を軽く、楽しげにつつく。
「ふふっ、これは……第二章の始まりだね♪」
語尾に音符が浮かぶような声色。
小さくため息をつき、顔を上げる。
「……ロミオ御父様」
そこに立っていたのは、何を考えているのか測りかねる――だがどこか楽しげに笑むロミオだった。