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春を謳う  作者: 葵
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甘い紅茶

馬車の中に沈黙が満ちたまま、時が流れていく。

やがて、車輪が石畳の上で止まる音が響き、スワードが恭しく扉を開けた。


視線を上げた瞬間、胸に緊張が走る。


――そこにそびえ立っていたのは、スカーレット王国の心臓にして象徴、王宮。


遠くからでも目印となるその宮殿は、純白の石を基調に築かれ、空を突き抜けるかのように高く高く聳え立っている。

白はただの白ではなく、光を受けるたびに銀のようにきらめき、無垢さと純粋さを象徴していた。


随所に施された装飾は、この国の名を冠する〈スカーレットブロッサム〉の赤。

まるで花々が宮殿の壁に咲き誇るかのように配置され、その赤を際立たせるために、縁取りや柱頭には惜しみなく黄金が散りばめられていた。

日の光を浴びれば、赤と金が溶け合い、宮殿全体が炎を宿すように見える。


荘厳で、威圧的で、それでいて神秘的。

門から続く大階段は緩やかに、しかし果てしなく長く伸び、登る者に無言の試練を与えているかのようだった。


その巨大な建築の内部には、無数の部署が息づいている。

法を司る〈法務局〉、政を担う〈政務庁〉、軍を統べる〈軍務局〉。

女神を頂点とする信仰を一切管理する〈神官庁〉、芸術と音楽を奨励する〈楽堂〉や〈舞踏局〉。

そして人々の口にのぼることは少ないが、華やかな街を取り仕切る〈花街庁〉、幻を現実に変えると噂される〈幻影署〉までも。


多様な部署がひとつ屋根の下に集まり、この宮殿全体がひとつの“国”として機能している。

それは単なる宮殿ではなく、この国そのものを象徴する“要塞”であり“舞台”であった。


白亜の宮殿は空を背にして佇んでいるのではなかった。

――まるで空そのものが、この宮殿を引き立てるために存在しているかのように見えた。


紅を散りばめた塔は咲き誇る花のように空を彩り、散らされた金は陽光を受けて揺らぎ、世界をひとつの絵画に仕上げていく。


これは建築ではなく、祈りだ。

女神を称えるように咲き乱れる紅。

女神の加護を象徴するように揺らめく金。

そして、そのすべてを受け止める白は、無垢で純粋な魂の色。

穢れを知らぬままに天へ伸び、女神への信を静かに映し出していた。


足を踏み入れる者は、その圧倒的な熱と威厳に息を詰まらせながらも同時に、その神秘と華やかさに目を奪われるのだった。


当たり前のように、レンは迷いなく宮殿の中へと足を踏み入れていく。

俺もその背に続き、姿勢を正して前を見据え、一歩一歩を踏みしめた。


ここに足を運ぶということは、無数の目にさらされるということだ。

ただ王子が同級生を伴った――それだけで人々の注目を集める。

しかも、その相手が俺であれば。

セレナの息子、女児を授かった兄、そしてカスパルとクラウスの息子。

そうした肩書きと血筋を知る者は少なくない。


いつもは父と共に来る宮殿。

だが今は、俺ひとりだ。

同じ道を歩いているはずなのに、宮殿はこれまで以上に大きく、遠くに思えた。


ここでの失敗は許されない。

俺は小さく一呼吸置き、迷いのない王子の背を追った。


宮殿の大扉が静かに開かれ、俺たちは中へと足を踏み入れた。


純白を基調とした広大な空間。天井から垂れる黄金のシャンデリアは光を砕き、赤い絨毯はまるで血脈のように大広間を貫いている。

両脇には歴代の王や英雄の肖像画。見守るようでいて、試すように視線が刺さってくる。


侍従や役人たちが整然と並び、俺とレンを注視していた。

その眼差しは驚きや興味だけではない。

――探るような、測るような視線。

「セレナの息子」「女児を授かった兄」「カスパルとクラウスの子」……。

噂が一斉に胸をかすめ、背筋に冷たいものが走る。


呼吸を整えて歩を進める俺の横で、レンは余裕の笑みを浮かべていた。

まるでこの宮殿全体が彼の庭であるかのように、歩くだけで人々の動線が変わっていく。


不意に、レンが横目で俺を見た。

「……そんな顔をしていたら、すぐに呑まれるぞ」


挑発めいた低い声。胸の奥がざらつく。

だが、俺は反論せずにただ深く息を吸い込み、胸の奥に押し込めた。


「緊張して当然です」

絞り出すように返すと、レンは小さく笑い、吐き捨てるように言った。


「そうやって正論だけ返すのは簡単だ。だが――その程度なら、ここではすぐに噛み砕かれる」


挑発。それでいて試すような響き。

俺は視線を逸らさない。下を向かない。

ただまっすぐ、王宮の奥へと歩を進める。


横にいる王子は、そんな俺をちらりと見やった。

値踏みするように。試すように。

だが次の瞬間には、何事もなかったかのように前へと視線を戻す。


両脇に並ぶ侍従や役人の視線は鋭く刺さる。

好奇と猜疑、羨望と悪意。

そのすべてが肌に突き立つ。


それでも俺は背筋を伸ばし、歩を緩めなかった。


豪奢な廊下を抜け、辿り着いたのはこれまた絢爛な客間だった。

金の縁取りが施された大きな窓から光が差し込み、深紅の絨毯が足元を覆っている。壁には緻密な装飾が施され、圧倒的な華やかさがある。


だが

目に入ったのは、中央に据えられた小さな円卓と、そこに並ぶ二脚の椅子だけだった。

あまりにも広大な部屋の中に、たった二つの椅子。

その配置がかえって重圧を強め、座る者を孤立させるように思えた。


「……座ってくれ」

レンが軽やかに手を示す。


「失礼いたします」

姿勢を正し、俺は椅子に腰を下ろした。


直後、スワードが音も立てず紅茶と菓子を運び入れる。

蒸気を纏う茶器を置くと、彼は隅へ下がり、ただ静かに控えた。

部屋の空気に沈黙が落ちる。


「口に合うかどうか、試してみてくれ」

レンが促す。


俺はカップを手に取り、香りを確かめる。

香ばしい茶葉の香りに、ほんのりとした苦味が混じる。

一口含むと、喉に残る余韻は鋭さよりも深みを感じさせた。


「……美味しいです」


そう告げると、レンは口元に小さな笑みを浮かべ――低く言った。


「……甘いな」


一瞬、俺は意味を測りかねて瞬きをした。

甘い? この紅茶はむしろ渋みが強い。

そう思った途端、レンはさらりと言葉を継いだ。


「いや、その紅茶のことだ。甘いだろう?」


――違う。

胸の奥で、疑念が確信に変わった。

レンが言いたかったのは紅茶ではない。

俺自身――俺の警戒心、その薄さを「甘い」と断じたのだ。


試されている。

やはりこれはそういう場なのだと理解した瞬間、不思議と肩の力が抜けた。


自然と笑みがこぼれる。

「ええ。確かに甘いですね」

意識的にカップを傾け、紅茶をもう一口。

そしてレンを真っ直ぐに見返しながら、言葉を重ねた。


「王子の最も信頼なさっている側近から頂いた紅茶です。……甘くないはずがありません」


言い返すのではない。

試されていることを受け入れたうえで、答えを返した。


レンの瞳がわずかに細められる。

その表情には、驚きとも興味ともつかぬ影が浮かんでいた。

次の瞬間、彼は何事もなかったかのようにカップを取り、紅茶を口に運んだ。


「さて、君を家に呼んだのは――兄と妹の関係性について、だったかな?」


レンの問いかけは、まさしく俺が貴族男子たちに使った“言い訳”そのものだった。

……やはり耳にしていたか。予想はしていたが、こうもあからさまに問われるとは。


「はい」

俺は迷わず答える。

「以前の公の場でそのような話が途中で終わっていたので、その続きを伺えるのかと」


レンはふっと笑った。

「確かに……そんな話をしたな。昔――二年前だったか」

そこで言葉を区切り、探るように視線を寄越す。

「だが、私は“教示する”とは言ったかな?」


挑発めいた響き。

胸の奥がわずかにざらつく。だが俺は、顔を変えずに応じた。


「レン様のお話は、どれも自分にとって教えになります」


あえて平然と。

声は静かに、けれど誤魔化しのない真実だけを乗せて。


レンの赤い瞳が、一瞬だけ細められた。

――俺の言葉を試すように。


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