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春を謳う  作者: 葵
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まずは前を

ざわめきは、風に乗った火の粉のように瞬く間に広がっていった。

一人が囁けば十人が振り向き、十人が囁けば百人の目が集まる。

気づけば馬車通りは足を止めた人々であふれ、視線のすべてが俺に注がれていた。


横目に映るのは、面白がって腕を組む貴族男子たち。

中には学園へ駆け戻る者の姿もある。

――噂をもっと広めに行ったのだろう。

事情を知らぬ者に脚色を加え、面白おかしく語っているのが見て取れる。


「本当に!あのレン様が!!」

「エドワード様よ!」

「声をかけてみようかしら?」

「やめなさい、レン様が迎えに来るのよ!」

「二人の王子様が揃うなんて!」

「私はエドワード様派!」

「何を言ってるの、レン様こそが本物の王子様よ!」


令嬢たちの嬌声が空気を震わせる。

最初は憧れに彩られた声。

だがそれはすぐに、値踏みするような視線に変わっていく。

まるで市場で品物を見定めるかのように。


「……チッ」

令嬢たちの囁きが男たちの癇に障ったのか、貴族男子の一人が苛立ちを込めて舌打ちをした。

「あんな奴のどこがいいんだ」

「家と財に恵まれただけだろう」


悪意は、笑い声に紛れて鋭く刺さってくる。

足を止めて集まる者が増える。

やがて、俺を中心とした輪ができた。


――逃げ場のない円。


重圧に押され、俺は視線を落とした。


どうして、こうなった?

何もしていない。ただ呼ばれただけだ。

なのに――俺の存在は、彼らにとってこれほどまでに格好の餌なのか。


「いい気になって……何が“学園の王子様”だ」

「ただの目立ちたがり屋だろ」


……俺が望んだわけじゃない。

ただ、大切なものを守るために生きてきただけだ。


「ほら、あの噂は嘘だったんだ。遊ばれてただけさ」


遊ばれた?

――笑わせるな。

レンが俺を「遊ぶ」意味がわかっているのか?

俺を遊ぶということは、俺の背後にいる父たちに繋がる。

それはすなわち、王族自身をも危うくすること。


俺の家族を――みくびるな。


怒りが全身を駆け抜けた瞬間、群衆の嘲りはさらに強まった。


「どうせ偽りだ」

「顔だけの王子様だ」


耳に届く声は次第に濁流となり、心を押し流そうとしてくる。


……そうだ、こんな陰口は前から知っていた。

耳にしたことも、一度や二度じゃない。

だが、正面から浴びせられるそれは、裏で囁かれるのとはまるで別物だった。

刺さり方も、残る苦味も、想像していた以上に鮮烈で……膝が折れそうになる。


拳を握る手が震えた。

一瞬、俺は下を向いた。


――その時。


「真実は武器だ」


父の声が脳裏に蘇った。

「不利な真実であっても、切り出し方によっては有利に変えられる」

「嘘をつく者は追い詰められる。だが、真実を語る者は最後に必ず立っている」


そうだ。真実。

レンに呼ばれ、スワードに導かれ、この場に立たされた。

これは紛れもない真実。


俺は――逃げる理由を持たない。

ならば――恥じることはない。


俺は顔を上げた。

心臓の鼓動が、次第に速さを取り戻す。

押し寄せるざわめきに飲み込まれかけていた顔が、ゆっくりと上がった。


視線を前へ。

令嬢たちの好奇と歓声、男子たちの悪意と嘲笑。

すべてを正面から受け止める。


その瞬間、俺の中にあった恐れは、確かな炎に変わっていた。


――これは試練だ。

――ならば俺は、立って応える。


揺るがぬ視線で群衆を見据える俺の姿に、ざわめきは一瞬、空気を飲み込んだように止まった。


何も怖がる必要はない。

俺はただ――レンを待っているだけだ。


周囲のざわめきは渦のように大きくなり続けていた。

だが、胸の奥に宿した決意が揺らぐことはない。

俺は目線を逸らさず、ただ馬車を見据えていた。

心の中で――「遅い」と、低く呟く。

だがそれ以上は顔に出さない。

群衆のざわめきも、貴族男子の舌打ちも、令嬢の嬌声も、今はどうでもいい。

俺はただ、王子を待つ立場にある。

それだけだ。


その時。

後ろから、ひときわ甲高い令嬢たちの黄色い声が押し寄せてくるのがわかった。

ざわめきが波紋のように広がり、地面までも震わせるかのようだ。

――やっとか。

心の中で小さく吐き捨てる。おせぇよ、と。


だが振り返ることはしない。

俺の目線は馬車の先へ、揺るがず向けられたままだ。


「……随分、待たせ方がうまいじゃないか」


聞き慣れたはずの朗らかな声。けれど、その場の空気を一瞬で支配する響き方をするのは、この男だけだ。


レン・クラリッサ。


俺はゆっくりと振り返った。

その瞬間――レンの表情が僅かに揺れた。

驚きに染まった赤い瞳。

それは、俺が想像していた反応ではなかった。


同時に、周囲の喧騒が凍りつくように静まった。

まるで、時間までもが止まったかのように。


俺は気に留めることなく、一歩前に出て深く礼をした。

「お待ちしておりました」


一言だけ。

だが、胸の奥に宿した想いを乗せて告げる。


レンはしばし黙し、考え込むように視線を伏せた。

やがて、口の端をわずかに上げる。

「……いや。行こうか」


それだけを残し、背を向け歩き出す。


俺は静かに「はい」と答え、その後ろに続いた。


群衆の視線が突き刺さる中、歩を進める俺の耳に、甲高い別の声が届いた。

「兄さん!!」


反射的に振り返る。そこにいたのはフィリオだった。

息を切らし、真っ直ぐにこちらを見つめている。


俺は軽く片手を上げ、微笑みと共に振った。


大丈夫だ! 行ってくる


声は届かなくとも、伝わったはずだ。

フィリオは一瞬驚いた顔を見せた後、ぎゅっと拳を握りしめ、力強く頷き返してきた。


――それだけで、充分だった。


胸の奥に広がった確かな温もりを支えに、俺は再び前を向き、王子の背を追った。


馬車に乗り込むと、扉が静かに閉まり、外の喧騒は遠ざかっていった。

しばしの沈黙。車輪が石畳を叩く音だけが、一定のリズムで耳に届く。


レンは窓の外に視線を向けたまま、ふっと吐息のように言った。

「……君も大変だろう。あれだけ注目されて」


意外な言葉に、俺は一瞬だけ返答を探した。

だが、不思議と胸に残ったのは恐れではなかった。

「……知らなかったことを、知れました」

自分でも驚くほど素直に声が出た。

「私は、周りを見ていなかった。あれが……本当の評価なんだと思います」


その言葉に、レンが小さく目を見開いたように見えた。

一瞬だけ口元が動き、だがすぐに消え、窓の外へと視線を戻す。


「……あれが、この国を支える貴族と……女神たちだ」

その声音は静かだったが、どこか薄く笑いを含んでいた。

皮肉とも冷笑ともつかない響きが、馬車の中に落ちる。


思わず胸がざらついた。

令嬢たちの嬌声。男子たちの嘲笑。

“学園の王子様”だと持ち上げられ、“ただの目立ちたがり屋”だと貶められる声。


そんなことは、裏で言われているのを知っていた。耳に入らなかったわけじゃない。

だが、実際に正面から投げつけられるのは……まるで別物だった。

言葉の重みも、刺さり方も、胸に残る苦さも。

想像していたよりずっと鮮烈だった。


そんな俺を、レンは横目でちらりと見た。

だが、すぐに興味を切るように視線を逸らし、また外の景色へと戻っていく。


それ以上、言葉は交わされなかった。

ただ馬車の揺れと、重たい沈黙だけが二人の間に流れていた。

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