可笑しな日常
いつも通りの朝だった。
窓を開け思いっきり空気を吸い込む。
夜が明ける前の空は空気が冷たく澄んでいて、朝露に濡れた花や植物からは優しくも鋭い匂いがし、身体が目覚める。
その匂いを胸いっぱいに満たし、俺もいつも通りに顔を洗い、稽古着に着替え、柔軟を行い、走り込み、素振りとこなしていく。
やがて従者が呼びにきて、軽く汗を流して制服を身に纏った。
鏡に映る自分は――少し緊張していた。
けれど昨日のような恐怖はもうない。
「レン様に呼ばれて緊張しない者など、この学園にはいない」
事実をそう自分に言い聞かせると、不思議と胸の奥が軽くなった。
緊張しているのに、落ち着いている。
そんな自分に驚きながらも、小さく口にする。
「……悪くない」
食堂に向かうと、父はいつものように新聞を片手にコーヒーを口にしていた。
「おはようございます」
深く一礼すると、父は視線を上げて、優しく微笑んだ。
「おはよう、エドワード」
その一言が、胸の奥を不思議と温める。
昨日の父の言葉が、確かに俺を支えているのだと実感した。
そして俺も、フィリオが来るまで本を開いた。
数分後、いつものように慌ただしい足音が響く。
「おっ、おはようございます!」
寝癖をつけたまま、フィリオが息を弾ませて席に座り、朝食が始まった。
パンの香ばしい匂いと、食卓を彩る湯気。
父と交わす会話も、弟の他愛ない言葉も
――すべてが、いつも通りの朝。
やがて父は新聞を畳み、コーヒーを飲み干すと立ち上がった。
「それじゃあ、行ってくる」
そう言いながら、いつものように俺とフィリオの頭を大きな手で撫でる。
その時、父と目が合った。
昨日の夜に交わした言葉が甦り、自然と背筋が伸びる。
――頷き合った。
言葉はなくとも、それだけで胸の奥に確かな力が宿った。
フィリオは朝食を終えると、慌ただしく階段を駆け上がっていった。
俺は居間に残り、先ほど途中で閉じた本の続きを静かに読み進める。
やがて、またしても軽快な足音が階段を駆け下りてきた。
「おっ、お待たせしました、兄さん!」
フィリオが息を切らしながら飛び込んでくる。
俺は頷きながら、「まだ時間はある」と声をかけ、彼の寝癖に手を伸ばした。
「わっ、自分で直せるから!」
慌てて手で押さえるフィリオ。
だが寝癖は頑固に跳ね返り、ぴょこんと揺れては、まるで音楽を奏でるリズムのように小さく踊っていた。
その不器用さに、自然と笑みがこぼれる。
「行こう」
そう告げ、二人並んで馬車へ乗り込んだ。
馬車の中。
フィリオはしばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……兄さん、何かあった?」
思わず目を見開く。
自分では上手く隠せていたつもりだった。
だが、弟の眼差しはまっすぐで、誤魔化すことなどできそうになかった。
俺は深く息を吐き、正直に打ち明けた。
「昨日、レン様が僕の教室に来られた。そして今日、家に招かれている」
「……えっ」
フィリオの目が大きく見開かれる。驚きと戸惑いがそのまま表情に浮かんでいた。
「大丈夫だよ」
慌てて言葉を重ねる。
「少し話をして帰るだけだ。だから今日は先に帰っていてくれ」
フィリオは何かを言いかけて、唇を結んだ。
それから、小さくも揺るがない声で言った。
「……わかった。家で待ってる」
その言葉が、胸の奥に強く響いた。
――帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。
それだけで、背中を支えられるような心強さを覚えた。
馬車の窓から、街並みが少しずつ動いていく。
朝の商人たちが店を開き、荷を運ぶ声が飛び交い、パンを焼く香りが風に乗って流れてきた。
いつも見慣れた景色のはずなのに、今日はどこか遠い世界の出来事のように感じる。
フィリオは向かいの席で楽譜を抱えたまま、黙って外を眺めていた。
その横顔に視線を落とし、俺は小さく息を吐く。
――大丈夫だ。家には待っていてくれる人がいる。
馬車は石畳を進み、やがて城壁の向こうに、尖塔の先端が姿を現した。
スカーレット学園。王国の名を冠する学び舎。
その影を目にした途端、胸の奥でざわめいていた緊張が再び顔を覗かせる。
やがて馬車は校門へと近づき、衛兵の姿が見える。
制服の生徒たちが次々と門をくぐっていき、談笑する声や靴音が朝の空気に混ざって広がっていた。
俺は深く息を吸い、吐いた。
足は震えていない。
けれど胸は、まるで剣の試合前のように高鳴っている。
「……よし」
自分に言い聞かせるように呟き、馬車を降りた。
広がる学園の敷地に一歩踏み入れると、昨日とは違う一日が、確かに始まったのだと実感した。
今日は朝から、いつもと空気が違った。
教室に入っても、廊下を歩いても、どこにいても視線を感じる。
昨日の出来事、レン王子が自分を訪ねたことは、すでに学園中に知れ渡っていたのだ。
廊下を過ぎれば、令嬢たちの囁きが耳に入る。
「今日、エドワード様が王宮に招かれるらしいわ」
「本物の王子様と学園の王子様……お二人の姿が揃うなんて!」
「私はレン様派よ」
「でも最近ではエドワード様の方が人気なのよ」
「ちょっと! 本物の王子様はレン様でしょう?」
「……怒られるわよ」
笑い混じりの小声は、舞踏会のざわめきよりもずっと鮮やかに耳に届く。
一方、男子生徒たちの声色はもっと生々しかった。
「羨ましい……!」
「いや、きっと試されてるんだ」
「家の権力を使ったんだろう」
「今後のために取り入ろうとしてるに違いない」
「でも呼んだのはレン様だろ? まさか弱みでも握ってるのか?」
――勝手な解釈ばかりだ。
最初こそ冷や汗が背を伝った。
だが、次第に胸の奥に湧いたのは苛立ちでも恐怖でもなく、むしろ妙な可笑しさだった。
いっそ令嬢たちには「招待してあげようか?」と言ってみるか……いや、男子たちには「どうぞ代わりに行ってください」と頼んでしまおうか。
そんな思考が頭をよぎり、思わず笑いがこみ上げた。
滑稽だ。
しかしこの状況を笑える自分に、少し驚いた。
――だが、忘れてはならない。
父が昨夜言ったこと。
「目線を逸らすな」
視線が刺さるたびに、呼吸を整え、意識して顔を上げる。
堂々と歩き、堂々と席につく。
胸の中はざわついていても、その姿だけは決して崩さない。
そうして過ごした一日は、普段よりもずっと長く、重く感じられた。
放課後。
馬車が並ぶ停留所で、俺はレン様の姿を探していた。
だが、近づいてきたのはレン様ではない。
皺ひとつないスーツに身を包み、背筋をぴんと伸ばした執事――レン様の筆頭執事、スワードだった。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません。エドワード様」
深々と頭を下げるその所作は、寸分の乱れもない。
「大丈夫です。……こちらで待っていればよろしいですか?」
俺がそう問いかけると、スワードは静かに首を振った。
「いえ。どうぞ、こちらへ」
そう言って歩き出す背中は迷いなく、俺は仕方なく後を追った。
だが、案内されたのは意外な場所だった。
――馬車通りの中央。
人の往来が最も多く、視線が自然と集中する場所。
足を止めた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……なぜ、こんなところに?」
周囲の人々が足を止め、次第にこちらへ視線を注ぐ。
ざわめきが波のように広がっていくのを感じる。
慌てて振り返ると、スワードの姿はもうなかった。
――やられた。
胸の奥で直感が警鐘を鳴らす。
ここに立たされたのは偶然じゃない。
必ず意味がある。