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春を謳う  作者: 葵
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誠実の心得

「実は今日……レン様が俺の教室に来て、俺と話がしたいと」

正直に告げると、父は何も言わずに俺を見つめた。

その目は穏やかさを湛えながらも、奥底で鋭く光っている。


「……明日、家に来て欲しいと。理由は分からない。俺自身、きっかけや理由も思いつきません」

言葉にした瞬間、自分の声がわずかに震えているのに気づいた。


「ふぅん……あのレン様が、か」

父は短く息を吐き、顎に手を添える。

「エドワードは、それがおかしいことだと思っているのか?」


俺は無言で頷く。

すると父は一度頷き返し、表情を切り替えた。

優しい父の顔が薄れ、冷静な弁護士の顔が浮かぶ。

部屋の空気がすっと張り詰め、蝋燭の炎まで静まったように感じた。


「いいか、まずは冷静に相手の話を聞くんだ」

父の声音は、法廷に立つときの揺るぎなさを帯びていた。

「相手が何を言いたいのか。何を望んでいるのか。それは言葉だけではない。目線や仕草……そうだな、髪の毛一本の揺れや足先の角度に至るまで、身体は必ず語っている」


言葉は淡々としているのに、その迫力に息を呑む。

人の心を論理の下に解体していくような冷徹さだった。


「人は心を隠そうとすると、その反動が身体に出る。指先の震え、呼吸の浅さ、ほんの一瞬の目の泳ぎ……それらはすべて証拠になる」

父の声は静かだが、圧倒的な重みを帯びていた。


「そして善意や敵意は、言葉の内容では測れない。声のトーン、間の取り方、口の動き、息を吐く音……むしろそういう些細なものの方が、よほど雄弁に本心を語る」


父はゆっくりと机に肘を置き、指を組む。

その姿は、難事件を切り崩してきた弁護士そのものだった。


「全体を俯瞰して捉えろ。細部に囚われるな。相手の“全体像”を聞き、見て、嗅ぎ取れ」


ごくりと唾を飲み込む俺を、父はまっすぐに見据える。


「そして――もし敵意を感じたら、相手を“見る”んだ」


「……見る?」思わず問い返す。


「あぁ」

父は口角をわずかに上げるが、瞳は鋭さを失わない。

「大抵の者は、敵意を向けられると目を逸らしてしまう。それこそが相手の狙いだ。だが――逸らさずに見返せ。堂々と視線を合わせろ。相手は動揺する」


「もし動揺しない相手なら?」


「ならそれでいい」父は軽く肩をすくめた。

「それは自己防衛にも繋がる。『何を言われても揺るがない』と示せるんだ。お前の心を守る盾にもなる」


声は論理的で冷静。

だが奥には確かな信念が宿っていた。


カスパルは椅子の背にもたれ、目を細めながら低く言った。

「エドワード――真実を伝えろ」


法廷で相手を追い詰めるときのような、冷たい迫力が漂う。


「本心を無理に吐き出す必要はない。だが、嘘は絶対につくな。今回の相手はレン様だ。あの方の目は鋭い。虚勢も、誤魔化しも、すぐに見抜かれる。……一度でも嘘をつけば、レン様だけでなく周囲からも信用を失う」


エドワードが息を呑むのをよそに、カスパルはさらに言葉を畳みかける。

「覚えておけ。真実は武器だ。その使い方ひとつで、相手にとって不利にも有利にも姿を変える。そしてそれは、お前自身にも当てはまる。たとえ自分にとって不利な真実であっても、切り出し方によっては必ず武器になる」


机に置いた指が、軽くとん、と鳴らされた。

「出来事そのものは誰の力でも変えられない。だが“伝え方”で色も形も変わる。本心と真実――両方をうまく切り替えろ。本心を隠す時があってもいい。だが、真実は紛れもない証拠だ」


カスパルの眼差しは鋭く、息子を逃がさぬように射抜いていた。

「聞かれたことには“真実”を答えろ。分からぬことを問われたら“分からない”と正直に言え。そして、自分の誇りにかけて譲れぬものがあるなら――その時だけは、“本心”をぶつけろ。それが誠実というものだ」


一拍置き、声の温度をさらに落とす。

「嘘をつく者は、いつか必ず追い詰められる。だが、真実を語る者は――最後に必ず立っている」


「どういう理由にせよ、今回は話をしたいと言い出したのは向こうだ」

父は指を組み直し、真っすぐに俺を見据える。

「ならば必要以上に気を張るな。心を乱すのは相手の思うつぼだ」


言葉の一つひとつが胸に刺さる。


「呼び出しという形を取った時点で、主導権はお前にある。相手は“聞いてもらう側”なのだ。お前は応じる立場であって、従う立場ではない。だから恐れる必要はない。会話の場においては、立場は対等だ」


「……対等」思わず復唱する。


「もちろん王子の肩書きや権威を前にすれば、誰だって臆する。だが、それに呑まれる必要はない」

父の声が少しだけ和らいだ。

「お前にはお前の家があり、誇るべき家族がいる。権力は外でこそ通じる。だが家族の前では、ただの飾りに過ぎんそれを忘れるな。だから無理に背伸びをする必要はないんだ」


胸の奥に、少しずつ冷静さが戻っていく。

父の言葉は理屈でありながら、不思議と温かさを孕んでいた。


「相手がどんな意図を持っていようと、まずは聞け。慌てるな。結論を急ぐな。そして最後に必ず、自分で判断しろ。それが、お前自身を守る盾になる」


その瞬間の父は“言葉の魔術師”だった。

嘘を暴き、隠された真実を掬い上げ、時に事実の輪郭すら塗り替える。

だが最後に貫くのは、必ず誠実。


父の背に積み重ねられた修羅場の数々、磨かれた洞察力と知性。

そして――その一部を、俺に託そうとしているのだと気づいた。


父は自分の武器を惜しみなく教えてくれた。

その姿は、頼れる父であると同時に、“揺るがぬ戦士”のように映り、胸を強く打った。


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