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春を謳う  作者: 葵
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決意の狭間で

教室に走るざわめきの中、俺は礼をしたまま顔を上げる。

「それは光栄です」

精一杯整えた声を出すと、レンは柔らかく頷いた。


「今日は急だったからな……」

そう言って、一拍置いてからわざとらしく考える素振りを見せる。

そして、ふっと口角を上げた。


「明日、私の家に来てくれ」


微笑みは穏やかで、声色も優しい。

だがその奥に、何かを探るような影がちらついているように見えて、胸の奥がざわついた。


いや、きっと俺がそう思ってしまっただけだ。

考えすぎだ。


「明日、家に……?」

頭の中でその言葉を繰り返す。

理由は? 

なぜ俺なのか? 

どうして今なのか?

疑問が次々と浮かぶのに、どの問いも声に変えられなかった。


外からは令嬢たちの甲高い悲鳴が響いてくる。

「きゃあ……王子様が……エドワード様を!……」

その声が、かえって現実感を遠ざける。

まるで幻を見ているかのようだ。


けれど、この誘いはまぎれもなく現実で、王子からの誘いを断れる立場ではない。

そして、理屈も、問いかける言葉も浮かばなかった


「……はい」

掠れた声が、自分の口からこぼれ落ちた。


その返事を聞いたレンは、満足げに頷く。

「では、明日。失礼するよ」


全てが自分の思い通りに進んでいるかのような落ち着きと余裕。

その背中が教室を後にするまで、俺はただ深く礼をするしかなかった。


胸に残ったのは、どうしようもない困惑と、言葉にできないざらつきだけだった。


校門を出ると、そこにはフィリオが待っていた。

「兄さん!」

ぱっと顔を輝かせて駆け寄る弟に、俺はいつものように穏やかに頷き返す。

二人で馬車に乗り込むと、扉が閉まり、揺れる座席に身を預けた。


けれど俺の頭の中は、先ほどのレンの言葉で埋め尽くされていた。

「明日、私の家に来てくれ」

あの柔らかな笑みの裏に、何が潜んでいたのか。

考えれば考えるほど胸の奥がざわつく。


レンが去った後、数人の貴族の同級生が近づいてきた。

「どうして王子がわざわざ君を?」

「どうして、家に呼ばれる?」

「何か話すことでもあるのかい?」

「ぜひ!教えて欲しい」

問い詰めるような視線に、俺は冷静を装いながら答える。


「以前、公の場で妹の生誕を祝っていただいた。その折に“兄と妹の関係をどう築けばよいか”を質問し、お話ししたことがある。その続きをご教示くださるのだろう」


実際、ハルナが生まれた際にそのような会話を交わしたのは事実だ。

嘘ではない。

ただ、“ご教示を”とまで頼んだ覚えはないが――。


それでも「妹」の話題を出せば、誰もそれ以上は追及できない。

もしも失礼な反論をすれば、それこそ失言となり、罪ではなくとも罰が下される。

女性、とりわけ王族や女神に連なる存在についての話題は、それほどまでに慎重さを要するのだ。


それでも数名の貴族男子は、納得しきれぬようにこちらを睨んでいた。

……あれは、レンに取り入ろうとしている取り巻きたちか。

他の者たちは遠巻きに俺を眺め、令嬢たちはすでに噂話に花を咲かせている。

彼女たちの情報は広まるのが早い。

だが広がれば広がるほど脚色され、気づけば舞台劇のような物語になってしまう。


喜劇として消費されるならまだいい。

拍手と笑いで幕を下ろせる。

だが――それが悲劇となれば、余計な騒ぎを呼び込む。


「……後が大変だな」

思わず口から漏れた呟きに、対面に座っていたフィリオがきょとんと目を瞬かせた。


「えっ? 兄さん、今なんて?」


はっと我に返り、俺はすぐに表情を和らげる。

「……なんでもないよ」


そう言って笑みを作ると、フィリオは首をかしげつつも、それ以上は問わなかった。

馬車の車輪の音だけが、石畳に規則正しく響いていた。


フィリオは対面の座席で、いつの間にか膝の上に五線譜を広げていた。

左手には羽ペンを持ち、右手は机代わりの膝で小さくリズムを刻んでいる。

目は紙を見つめながらも、心の中ではすでに旋律が鳴っているのだろう。


――ハルナに贈る曲を考えているに違いない。


集中した弟の顔を見ながら、胸の奥がざわめいた。

羨望にも似た感情。

その才能を誇らしく思う一方で、どこか自分には届かないものを見せつけられるような感覚。


俺はそっと視線を窓へ逸らし、気づかれぬように小さくため息を吐いた。

……レンに何を言われようと、俺は揺らがない。家族を。

そして――ハルナだけは、必ず守る


胸の内で静かに誓いを新たにしながら、馬車は屋敷の門を抜けた。


帰宅してからは、努めて「いつも通り」を心がけた。

まずは机に向かい、積まれた課題を片付ける。

文字を追うたびに、頭の中のざわめきが少しずつ静まっていく。


やがて筆を置き、稽古着に着替える。

庭へ出て冷たい風を受けながら、走り込みを十周。

息を整え、木剣を構えて百の素振り。

一振りごとに汗が滴り、迷いも焦燥も振り切っていくようだった。


鍛錬を終えたころ、ちょうど夕餉の時刻となる。

蝋燭に照らされた食卓には、家族と変わらぬ笑顔。

まるで今日の出来事などなかったかのように、俺は「いつもの一日」を演じ続けていた。


だが胸の奥底でだけ、王子の声が反響していた。

――「明日、私の家に来てくれ」


夜。

自室に戻った俺は机に腰を下ろし、そっと一冊の絵本を手に取った。

――ハルナが「好き」と言った物語。


頁をめくりながら、胸の奥で思う。

(この絵本のような“王子”になることを、ここで止めてはいけない)


レンの誘い。

あの笑みに込められた真意。

本当にただ話をしたいだけなのかもしれない

――そう思おうと努める。

けれど、自分の性格なのか、どうしても気軽に受け止められない。

心はいつまでもざわめきを残したままだった。


そんな時、コンコン、と控えめなノックの音。

「……どうぞ」

声をかけると、扉が開き、姿を見せたのは父だった。


「父様……?」

思わず立ち上がると、父は穏やかに頷いた。

「少しいいか?」


「もちろんです」

そう答えると、父は部屋に入ってきて、机の上に置かれた絵本へと視線を落とした。


「……ハルナが好きだと言っていた絵本だな」


「はい」

胸の奥が少しだけ温かくなる。


父はその絵本を見つめ、ふっと笑みを浮かべた。

「私も読んだが、少し驚いたよ。男性が女性に婚を求める――この国では真逆だからな」


そう言ってから、柔らかく目を細める。

「……ハルナは面白くて、優しい子だな」


その声音に、偽りはなかった。

本心からの言葉だとすぐにわかった。


思わず口元が緩む。

この本を読んで「非常識だ」と言うでもなく、

「息子よ、こんなことはありえない。勘違いするな」と突き放すでもなく。


ただ――ハルナの「好き」を受け入れ、その大切さを一緒に認めてくれる。

俺の想いまで、まるごと肯定してくれる。


その瞬間、胸のざわめきが少しだけ和らいでいくのを感じていた。


不意に父が言った。

「……何かあったか?」


唐突な問いに、俺は思わず肩を揺らした。

父はいつもの笑顔を浮かべたまま、軽い調子で続ける。

「父さんを騙せると思うなよ! お前の様子が普段と違うくらい、すぐに分かるさ」


胸の奥を見透かされた気がして、言葉が出てこない。

下を向いた俺に、父は大きな手を伸ばし、頭をくしゃりと撫でてきた。

その仕草はいつも通りなのに、不思議と胸が熱くなる。


「いいか、エドワード」

声色は穏やかで、それでいて力強い。

「全部を話す必要なんてないんだ。……心配させたくないと思わなくていい。俺は、お前が大切なんだ」


驚いて顔を上げた俺を見て、父はニカッと笑う。

「ましてやお前の歳で、親を心配させたり困らせたりするのは当たり前だろう!そんなことまで我慢してどうする。お前はもう十分頑張ってるんだからな」


その言葉と一緒に肩をポン、と叩かれる。

ただそれだけなのに、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった。


「だから、エドワード。家族のために急いで大人になんてなるなよ。お前はまだ子どもでいいだ。……俺たちが支える」


柔らかな笑顔と快活な声。

父らしい明るさに包まれて、胸の奥にじんわりと温かさが広がっていった。


俺は父に今日のことを話した…….


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