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影が去りて、歌は残る
そこに、名も姿も記されぬ“誰か”がいた。
灯りの届かぬ影の端に、ひっそりと沈み込むように。
存在は見えずとも、確かに息づく気配だけが残っていた。
「女が……女が生まれた、か」
「あのセレナの娘。クラウスの腕に抱かれて……」
「祝福ではない……これは召命、啓示。
神が私に託した――選ばれし女神のかけがえなき息吹。」
「その身に自由の翼は与えぬ。
あの女のように風へ羽ばたくことも許さず、あの男の手へと吹き寄せられることも決してさせはしない。
あれは――私の祈りにのみ応える女神の器となるのだ。」
低く、闇を撫でるような声が落ちた。
誰にも気づかれぬまま、その者は影と人との狭間に身を溶かした。
在りながら在らず、姿は掴めぬまま、ただ冷たい気配だけを残して――。
影が去った後も、ハルナは深い眠りに抱かれ、温い毛布に守られながら静かに息づいていた。
吐息すら愛おしく、小さな胸の上下が、生の火をかすかに灯している。
セレナの歌声は、ハルナの眠りの奥底に澄みわたり、静かな温もりとなって寄り添っていた。