日々の日課
翌朝。
エドワードはいつものように夜明けと同時に目を覚ました。
顔を洗い、稽古着に着替えると、まだ静まり返った屋敷の広間へ向かう。
まずは柔軟で身体をほぐし、その後、庭へ出る。
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、屋敷の周囲を黙々と十周走る。
額に汗がにじむころには、東の空が朱に染まり始めていた。
走り終えると、木剣を構え、百の素振り。
腕に熱がこもり、足は土を踏みしめるたびに音を響かせる。
努力を重ねることが、理想の自分へと繋がる
――そう信じて、彼は迷わず剣を振り続けた。
気づけば太陽はすっかり顔を出し、従者が呼びに来る。
エドワードは軽く息を整えると汗を流し、制服に着替え直した。
食堂に入ると、父カスパルがすでに席についていた。
完璧に仕立てられたスーツを纏い、コーヒーを口にしながら新聞を広げている姿は、隙のない大人そのものだった。
エドワードは姿勢を正して挨拶し、従者から手渡された本を開いて弟を待つ。
やがて数分後、フィリオが寝ぼけ眼をこすりながら席につく。
「んー……おはよう……」
まだ夢の余韻を纏った弟を見て、エドワードはふっと笑みをこぼした。
こうして、家族三人の朝食が始まるのだった。
カスパルは新聞を畳むと、今度はフィリオに視線を向けた。
「フィリオ、学園に入学してもうすぐ一年が経つが、どうだい? 剣術はそろそろ本格的に始まるのではないか? 勉強についていけているか? お友達とは仲良くしているか? 作曲は進んでいるかい?」
次から次へと浴びせられる質問に、フィリオはパンを手にしたまま目を瞬かせ、言葉を詰まらせる。
「えっ、その……えっと……はい、あの……」
まだ目が冴えきっていない頭では、父の勢いについていけない。
普段のカスパルは優しく、こちらの話をじっくりと聞いてくれる。
だが一度知りたいことがあれば、まるで矢継ぎ早のように問いかけてくるのだ。
それが決して叱責や詰問ではなく、ただの純粋な興味と心配からだということは、俺もフィリオも理解している。
だからこそ何も言えず、ただ苦笑するしかないのが、俺たち兄弟だった。
去年、フィリオは俺と同じスカーレット学園に入学した。
本人は「受からないのでは」と不安そうにしていたが、俺は最初から心配していなかった。
日々努力しているのを知っていたし、特に音楽の才能に恵まれている彼は、入試でも俺より高い得点を取ったほどだ。
――それよりも。
こうして同じ学園で学べることが、兄としては何より嬉しかった。
そんなタジタジの弟を見かねて、俺は口を開いた。
「父様、どうか落ち着いてください。フィリオは学園でも努力して過ごしています。僕の学年にまで、フィリオの音楽は素晴らしいという噂が届くほどなんですよ」
「兄さん……」
フィリオは一瞬下を向いたが、すぐに小さな声で続けた。
「兄さんみたいになれるよう、頑張っています。剣は、もうすぐ本格的な稽古が始まるそうです。でも僕はまだ体力が足りないから、まずは走り込みからだと先生がおっしゃっていました。……友達も優しいです。作曲も、少しずつですが進んでいます」
「そうか、そうか!」
父は大きく頷き、目を細めた。
「だが、フィリオのペースでいいんだからな。焦らず、ゆっくりでいい」
その時、後ろに控えていた父の従者ミカンが控えめに声をかけた。
「旦那様、そろそろお出かけの時間です」
「おおっと、そうだったな! 今日は朝から会議が入っていた」
父は慌ただしく立ち上がりながらも、俺たちに向かって笑みを浮かべる。
「それでは行ってくる。エドワード、フィリオ、気をつけて学園に行くんだぞ」
「はい!」
兄弟揃って返事をすると、父は大きな手で俺たちの頭を撫で、颯爽と玄関へ向かっていった。
その背中を見送りながら、胸の奥が熱くなる。
――あの姿は、いつ見ても格好よくて、俺の憧れだった。
朝食を終えると、フィリオは慌ただしく部屋へ戻り、身支度を整え始めた。
俺はひと足先に居間へ移り、机の上に置いた本を手に取る。
先ほど朝食前に開いたままになっていた頁をめくり、静かに続きを読み進めていった。
やがて、階段を駆け下りる軽快な足音が響く。
「兄さん、お待たせ!」
息を弾ませながら飛び込んできたフィリオの姿に、思わず苦笑が漏れる。
「焦らなくていいさ。まだ時間はある」
そう声をかけながら、ふと彼の髪に手を伸ばす。
寝癖がぴょこんと立っていた。
「わっ……!」
フィリオが驚いたように目を丸くし、自分の手で慌てて撫でつける。
「ありがとう……って、自分で直せるから!」
顔を赤くしながらそう言う姿に、俺は小さく笑みを浮かべた。
出発の時刻が近づき、二人で玄関へ。
靴を履き終えたフィリオを見やると、片方の靴紐がするりと解けているのに気づいた。
「ほら、紐が緩んでる」
しゃがみ込んで結び直すと、フィリオは少し気まずそうに視線を逸らし、それからぽつりと「ありがとう」と呟いた。
「いいんだ」
短く答え、軽く彼の肩を叩く。
馬車が門前に待機している。
二人で並んで乗り込み、窓の外に広がる街並みを眺める。
車輪の音が軽やかに響く中、学園へ向かう朝の空気はどこか凛としていて、兄弟の背筋も自然と伸びていった。
二人並んで馬車に乗り込むと、車輪が軋みを上げ、ゆっくりと石畳を叩きながら進み出した。
窓の外には朝靄に包まれた街並みが流れ、屋根の上に光る露がちらちらと輝いている。まだ冷たい空気の名残が、馬車の中にまで入り込んでくるようだった。
フィリオは向かいの座席に腰を下ろすなり、両手をぎゅっと組んで俯いた。
「……兄さん」
小さく漏らされた声は、かすかに震えていた。
「剣の稽古、本当に始まるんだよね。……僕、みんなに遅れないかな。走るのだって、兄さんみたいに速くないのに」
俺は窓から視線を外し、真っ直ぐに弟を見た。
「大丈夫だ。走り込みから始めるんだろう? なら体力さえつければ追いつける。フィリオは努力を続けられる人間だ。それが一番強いんだ」
馬車の窓から射し込む朝日が、弟の横顔を照らす。
「……兄さんみたいに、僕も頑張る」
そう呟いたフィリオの声は、どこか無理に明るさをまとっていた。
俺はその言葉に素直に頷き、励ますように笑みを返した。
「一緒に頑張ろう。僕たちなら大丈夫だ」
その瞬間、フィリオは一瞬だけ笑った。
馬車は石畳を進み、遠くに学園の尖塔が見え始める。
俺は未来への期待に胸を高鳴らせていた。
一方で、隣に座る弟の小さな手は、膝の上で強く握られたまま、決してほどけなかった。