彼を動かすもの
月に一度、クラウスから届く手紙。
それを誰よりも心待ちにしているのは、エドワードだった。
彼はこれまでの手紙をすべて大切に保管していた。けれど何度も読み返すうちに、古いものは角がすり減り、紙は少しくたびれてしまっている。
それでも手放すことはなかった。
――そこに綴られているのは、ハルナの小さな日常だからだ。
今月の便りは、まだ届いていない。
だが以前の手紙にはこう記されていた。
〈ハルナは二歳の誕生日を迎えた。エドワードから贈られた栞を手に取り、そこに閉じ込められた小花を覗き込み、しばらく見つめていた。そして今は“好き”と言っていたあの絵本に挟んで、大切に使っている〉
その一文を読んだだけで、エドワードの胸は幸福でいっぱいになった。
自分の選んだ押し花が、あの子の指先に触れ、絵本の中に息づいている。
それだけで一日が輝いて見えた。
また、別の手紙にはこうもあった。
〈ハルナは花だけでなく、蝶や虫、動物にも興味を示し、じっと観察している〉
それを知った瞬間、エドワードはすぐに昆虫図鑑を手に入れ、蝶を見れば観察するようになった。
昆虫は得意ではない。
だが、少しでも次に会うときに話題を交わせるように、少しでも彼女の世界に近づけるように――。
そして夜。
眠る前に机に灯りを落とし、手元の手紙を一枚また一枚と開く。
文字を追うたび、ハルナの笑顔や小さな仕草が脳裏に浮かび、胸が高鳴る。
「……ハルナの世界に混ざりたい。けれど、その中で誰よりも強く覚えていてほしい」
幼いながらも芽生えたその願いは、純粋な憧れと、幼い独占欲の入り混じったものだった。
ハルナの世界に溶け込みながら、誰よりも強く刻まれたい――。
それは幼い憧れではなく、すでに「好きだ」という確かな想いだった。
手紙を開くたび、その気持ちは深く根を張っていく。
小さな胸に抱えきれないほどの恋心を誰にも言うつもりはなかった。
この気持ちは自分だけのもので、この想いを受け止めてほしいのは、ハルナただ一人。
そして今宵も、眠りにつく前に手紙を胸に抱きしめながら、彼は小さな恋を確かめていた。
ーーーーー
夜。
扉が開き、カスパルが家に帰ってきた。
「おかえりなさい、父様」
真っ先に駆け寄るエドワード。
その後ろから、弟のフィリオも顔を出し、「おかえりなさい」と続ける。
「あぁ、今帰ったぞ!」
カスパルはにやりと笑い、二人の頭を大きな手で撫でた。
「……父様、何かいいことがあったのですか?」
エドワードが首をかしげると、カスパルは意味ありげに笑みを深めた。
「今日な、王宮でクラウスに会ったんだ」
「クラウス父さん!!」
フィリオが目を輝かせて叫ぶ。
エドワードも思わず瞬きを繰り返し、胸が高鳴る。
――その言葉の裏にある意味。
二人が心待ちにしているもの。
「……ハルナのことを、何か……?」
問いかけそうになるその視線を、カスパルは読み取っていた。
彼は鞄から大事そうに二通の手紙を取り出す。
「あっ!!」
フィリオが声を上げ、思わず手を伸ばしかける。
エドワードは寸前で拳を握り、ぐっと堪えた。
「今日送ろうと思っていたらしい。だから預かってきた」
カスパルは笑みを浮かべながら、手紙を二人へ差し出す。
二人がどれほどハルナの様子を楽しみにしているか、カスパルは知っている。
最近のクラウスは、王宮の仕事を後回しにしてでもハルナの誕生日を優先していたため、尋常ではない忙しさに追われていた。
誕生日を優先したいその気持ちがわかるからこそ、カスパルもクラウスに会うことを控えていた。
誕生日が終わりようやく落ち着いた今、後回しにしていた職務に追われる日々のわずかな時間を削って書いてくれたのだろう。
そのため私用で会うことも難しい。
カスパルはあえて用事を作り、クラウスの元へと足を運んだのだった。
この瞬間を息子たちに届けるために。
手紙を受け取ったエドワードとフィリオは、同時に息を呑んだ。
その表情は言葉よりも雄弁に、胸の内の期待を語っていた。
カスパルに深々とお礼を述べ、エドワードはその足で自室へ戻った。
机の上に蝋燭を灯し、静かに腰を下ろす。小さな炎が揺れ、部屋に淡い影を落とす。
手にあるのは、父クラウスから預かった手紙。
大切すぎて急いて開きたくはない。けれど、待ち望んだ気持ちは胸を焦がすばかりだった。
「……落ち着け、俺」
自分に言い聞かせるように小声で呟き、指先で丁寧に封を切る。
目に飛び込んできたのは、見慣れたクラウスの筆跡。
それを見た瞬間、胸の奥のざわめきがようやく静まり、深く息を吐くことができた。
〈エドワード、元気にしているかい?
今月の手紙が遅れてしまい、すまない。〉
冒頭の文に胸が熱くなる。続く文面に視線を落とす。
〈最近のハルナは、さまざまな本を読むようになった。
自室にある本では物足りないのか、小さな身体で精一杯歩き、書庫にまで足を運んでいる。
最初は絵本ばかりだったが、今では挿絵さえあれば、どれほど分厚い本でも手に取り、熱心に眺めているよ。
最近は、妖精譚や魔術の記録、さらにはドラゴンや羽の生えた兎が描かれた魔獣書を好んでいる。
その挿絵を確かめるように指でなぞりながら、まるで本当に触れられるかのように読んでいるんだ。
しかし最近は時間を忘れてしまうこともあり、昼食の刻を忘れてしまったり、夜寝る刻過ぎても書庫で本に囲まれたまま眠ってしまうことがある。
ハルナの体調が心配だが、夢中に読む姿を止めることは私も従者達も一瞬迷ってしまうほどだ。
エドワード、お前もどうか無理をせず、身体を大事にしてくれ。〉
文字を追うごとに、エドワードの胸の奥に温かな火が灯っていく。
ハルナの日常が、たった数行の文字から鮮やかに浮かび上がり、その姿を思うだけで心臓が高鳴った。
エドワードの顔に、ふっと笑みが広がった。
視線は自然と、机に大切に立てかけてある一冊の絵本へと向かう。
ハルナが「好き」と言った物語だ。
だが次の瞬間、クラウスの手紙に綴られた言葉が胸に残り、表情はわずかに曇った。
魔獣書、妖精譚、魔術の記録……。
どれも大人でさえ手に取るのを躊躇う書物である。
エドワード自身もその掴めない神秘さに少し恐怖を抱いていた。
それを、まだ二歳になったばかりのハルナが迷いなく選び、指先でなぞりながら読んでいる――。
「本が好きでいてくれるのは、嬉しいことだ」
……そう思うのに、その歩みの速さが、ほんの少し怖かった。
彼女の成長が自分の知らないところで進んでいることに、どうしようもない距離を感じてしまう。
自分は恐怖から、まだ絵本の中の御伽話に出てくる妖精や竜しか知らないのに。
ハルナはもう、その先を覗き込んでいる。
「……少し、遠い」
胸の奥で生まれるその感情は、嫉妬でも羨望でもなく、ただ純粋な寂しさだった。
もし側にいられたなら、どうしてその本を好きだと思うのか聞けただろうか。
書庫で眠ってしまったなら、抱き上げてベッドに運び、毛布で包んであげられただろうか。
けれど、それは叶わない。
エドワードはそっと両の手を見つめた。
小さな命を支えたいと願うのに、今はまだ届かない手。
その掌を見つめながら、彼の胸に募るのは、恋心と焦がれるような無力感だった。
エドワードは両の手をぎゅっと握りしめた。
届かないと嘆いても仕方がない。
ならば――届く手にすればいい。
「次に会えたときに聞こう」
どうしてその本を好きだと思ったのか、どんな世界を覗き込んでいたのか。
その日までに、自分も力をつけ、知識を蓄え、所作を磨き抜いておこう。
ハルナの「好き」を受け止められるように。
ハルナの「大切」を守れるように。
そして、あの笑顔をもう一度、この手の届く場所で見られるように。
蝋燭の炎が揺らぐ中、エドワードの胸に灯った決意は、静かに燃える誓いとなって刻まれていった。